大杉栄とその時代年表(119) 1894(明治27)年9月1日~16日 第1軍(司令官山県有朋)編成 漱石の精神不安定 平壌守備の清軍の混乱 平壌会戦(第5師団が平壌占領) 大本営、広島進出 より続く
1894(明治27)年
9月16日
午後5時、日本連合艦隊旗艦「松島」(伊東司令長官)以下本隊・第1・3遊撃隊11隻、大同江口を発。軍令部長樺山資紀中将、「西京丸」に乗船。
17日朝、海洋島付近に至る。清国艦を発見できず、大孤山沖の大鹿島錨地に向う。午前10時50分、煤煙望見。午前11時40分、清国艦隊と確認。
9月16日
未明、北洋艦隊旗艦「定遠」(丁汝昌提督)以下14隻、大連湾出港。輸送船を護送して、午後、大東溝沖に着。「平遠」以下4隻に鴨緑江偵察と上陸掩護を命じ、他の10隻は江口10海里の黄海北部海域の小鹿島南方に投錨。
17日朝、南方に黒煙を発見、日本艦隊と確認し、これに向って行く。
9月17日
黄海海戦。世界初の汽走艦同士の海戦。
両国艦隊は互いに敵に向って進む。午後0時5分、日本連合艦隊は戦闘配備につく。清国艦隊は後翼単梯陣形で進み、やや右に転換。
0時50分、「定遠」が第1弾を撃つ。3千mの距離で、第1遊撃隊は砲撃しつつ、清国艦隊右翼前を通過。本隊は右旋回して清国艦隊の後方に回り込む。この間「比叡」は包囲され損傷を受け火災、辛うじて脱出。「赤城」も損傷受けるが脱出。「来遠」は「赤城」の砲撃で火災。「西京丸」は第1遊撃隊の掩護から離れたため数度の襲撃をうけ、辛うじて沈没を免れ大同江に向う(3時30分)。
清国旗艦「定遠」は最初の攻撃で指揮不能となり、清国艦隊は夫々に動くことになる。「超勇」は火災・沈没。「揚威」は火災・座礁。「致遠」は沈没。「経遠」「来遠」「平遠」も火災。3時頃「済遠」が戦線離脱し、他艦もこれに続き、「定遠」「鎮遠」のみが踏み止まる。「経遠」は追跡され沈没。
日本旗艦隊「松島」も「来遠」「鎮遠」の砲弾により砲兵36人即死・負傷68、火災。
日没、日本艦隊は戦闘中止。「定遠」「鎮遠」も諸艦を纏め旅順口へ帰還(威海衛に戻ると見せかけて)。
清国側沈没3、座礁2、死傷1千余(戦死700余・負傷300余)。
日本側艦船損害なし、戦死150、負傷164。
清国北洋艦隊の戦闘力・航海力壊滅。日本は朝鮮近海のみならず清国海面の制海権を掌握。
排水量・平均速力では日本が優勢。重砲は清21門・日本11門で劣るが、小口径速射砲では清6門・日本67門で日本が圧倒。これが勝敗を分ける。清側重砲で「松島」は損傷を受けるが。日本側重砲32センチ砲3門は発射14発で命中なし。
9月18日
一葉、桃水を訪問し援助を依頼する。
禿木より「暗夜」続編を22日正午までに孤蝶宛てに送るよう依頼される。
19日、前日の援助依頼に対し、桃水から調達不能との回答。
22日、「暗夜」(その五、六)を郵送する
9月20日
劉盛休率いる銘字軍の歩兵10営1哨・馬隊1哨、安東県に到着(16日大連発、17日大東溝上陸)。分統副将龔元友と九連城に向う。20~21日、平壌で敗れた6将(葉志超・聶士成・衡汝貴ら)、義州着。李鴻章は彼らに義州に留まり、敗兵の収拾を命令。
9月21日
旅順攻略を主務とする第2軍編成開始。
25日、大山巌陸軍大将(当時陸軍大臣)を司令官に任命。10月3日、戦闘序列を示す。8日、大本営から訓示。この時点で、混成第12旅団は漢城・仁川に、第1師団は広島に、第2師団は動員完了し各衛戍地にいる。
戦争は、朝鮮支配を争う限定的戦争から、清国本土分割を目的とする戦争に変化。
9月22日
李鴻章、国境防禦の勅諭をうける。義州の葉も九連城に後退させ、防禦陣を九連城に絞る命令。
9月22日
朝鮮派遣の慰問大使西園寺一行、広島帰着。同行の法制局長官末松謙澄、朝鮮の内政改革難行と報告。大鳥公使の更迭、井上内相の公使任命(10月15日任命)決まる。
9月22日
ロンドン「エコノミスト」、日本の勝利は中国の未来に恐るべき結果をもたらすと警告。チベット、トルキスタン、満州が離脱し四分五裂に陥る。対中国貿易壊滅回避の為、「穏当な約束で速やかに平和を実現させる」必要があると提唱。
9月23日
第5師団の第1梯団第1梯隊、平壌発。26日安州着。24日第2梯隊、平壌発。29日安州着。第1梯団は安州に留まる。
9月25日
山県第1軍司令官、平壌着。糧秣前送に苦心。海路による補給を検討、海軍に要請。
9月25日
朝鮮人3,000人が大邱兵站部を襲う予想(密告情報)があり守備隊が派遣されたとの報道(『日本』9月24日)。『東朝』9 月25日)。『日本』『東朝』はほぼ同一の内容で,広島発の電報とあるので,大本営から発表された内容に基づいたものと考えられる。
これについての詳細報道がないまま,『日本』9月26日付に二つの「東徒」情報が報じられる。一つは「東徒我偵察兵を襲ふ広島特発二十五日午後一時」というもので,安東豊山で3,000人の「東徒」が日本軍の偵察兵を襲撃したと報じた。二つ目は「東徒襲撃別報広島特発二十五日午後一時」で,一つ目の記事の続報であり,兵站司令部の副官を偵察に出したところ襲われたという急報が入り,洛東から援兵を出したという。
二つ目の報道は,同日の『東朝』もほとんど同じ記事を掲載している。それには「廿四日午後八時釜山発,同十二時広島着」とある。
『日本』は,翌27日にも「東徒」の進軍情報を伝えた。いずれも「広島特発」で「東学党密に進軍す」という題の記事は,「東学党先鋒五十余名」が大邱に入り込んでいるとし,「東徒別報」も同内容だった。
『東朝』9月27日付けは,もう一つ新たな情報として、25日に台封の兵站部が東学党に襲撃された,という(釜山の特派員発)。この襲撃の詳細を報じないまま,『東朝』9月28日のは,「韓廷は今度台封辺に起れる東学党鎮撫の為め征討使を派遣する」と朝鮮政府が動いた旨を報じた。この征討使は「目下操練中の韓兵(日本士官にて操練中の者ならん) を引率」というので,日本軍の教育しているいわゆる訓練隊とともに25日漢城を出発したとする。
9月25日
一葉、最近訪問が途絶えがちな禿木に「他所で恋人でもできたのか」と冗談めかした手紙を出す
29日、禿木からの手紙。ご無沙汰を詫び、「暗夜」原稿を送ってくれたことへの礼を言う。
9月27日
桂第3師団長、平壌着。諸隊は29日までに黄州・鳳山付近に集合。
9月29日
北洋水師提督丁汝昌、旅順にあって、李鴻章より艦船修復をはかり港外を航行するよう指示。修繕進まず。
9月下旬
全琫準、第2次農民戦争決意。東学内部対立(「北接:非武闘派」・「南接:武闘派」)を排日で統一。
9月下旬
一葉、村上浪六を訪ね、借金を依頼したらしい。
9月30日
一葉、「暗夜」(その五、六)を「文学界」に発表
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