2024年5月13日月曜日

大杉栄とその時代年表(129) 1894(明治27)年11月26日~30日 陸奥外相、清国との交渉には遼東半島割譲を要求すると述べ、伊藤首相も同意 公州救援に向かう南小四郎大隊長、文義に反転 「去る十一月二十九日,第三中隊のために退撃せられ,故に六里間,民家に人無く,また数百戸を焼き失せり,且つ死体多く路傍に斃れ,犬鳥の喰ふ所となる」という苛烈な掃蕩戦 旅順虐殺事件報道     

 


大杉栄とその時代年表(128) 1894(明治27)年11月21日~25日 文義・沃川戦争(「数万名」北接東学農民軍と後備第19大隊本部第3 中隊との戦闘) 「文義より沃川に至る間の村落,悉皆東学党に組し」 「敵(東学農民軍) の右翼軍は,山を伝ひて文義方面に進行し,本軍と左翼軍は,我兵(日本軍1支隊) に向ひ一斉急射をなす,是に於て,韓兵(朝鮮政府軍) は怖れて退却す,敵はこれに勢を得て,山々より兵少し取巻との大声を発し,益々北進す」 より続く

1894(明治27)年

11月26日

陸奥外相、伊藤首相に、清国との交渉には遼東半島割譲を要求する、清国の回答が不満足の場合更なる強硬手段が必要、と述べ、伊藤も同意。

陸奥は、「清国卜講和ノ端緒ヲ開キ侯上ハ、恰モ今日迄外交上ノ運動ガ陸海軍ノ挙動二伴ヒタル如ク、海陸軍ノ運動ガ外交上ノ運動ニ相伴ヒ候義肝要ニ有之」と述べ、「陸海軍ヲ活用シテ、清国ヲシテ更ニ恐懼ノ志想ヲ起サシメ候義必要ニ候」(有利な講和条件を獲得する見地から作戦立案すべき)と強調。

11月26日

『日本』11月26日付け「黄海道の東学党襲来す(大本営掲示二〇四号)」

第一軍から精米購入のため派遣された一隊が23日載寧郡で「東徒約二千名」に襲われ,目的を果たせなかったと報じる。

この記事は,漁隠洞の福原兵站監から11月24日午後6時25 分に打電され,同日午後8時35分に釜山から転電され,同日午後10時5分に大本営に着電した川上兵站総監宛の電文がもとである。原本の電文では、鎮圧のために派遣された部隊は「鳳山,剣水,守備兵の一部」となっているが、記事では「鳳山守備兵の一部」と書かれ、小さく見せている。

翌日の『日本』は,この記事を再録し,同時にもうひとつ前の大本営掲示を記事「慶尚道の東学党を撃退す二十五日午後一時広島特発(大本営掲示二〇三号)」にした。

この「大本営掲示二〇三号」も,今橋兵站司令官から川上兵站総監宛の電文を元にしているが,原文の電報末尾にある「我兵ハ前日背進命令ヲ与ヘタレトモ未タ全ク鎮定セサル故帰途ニ就カサルナリ」の部分が,記事から削除されている。

11月26日

漱石、狩野亨吉を訪問。

11月27日

公州支援に向かう途中、文義・沃川の間で東学農民軍大蜂起の報せが届く。この日(27日)、後備歩兵独立第19大隊南小四郎大隊長は,危急にある西路隊に公州城から一歩も出ないで「死守せよと命じ」て退却した。大隊本部第3中隊は,なによりも文義と沃川の間でふたたび蜂起した北接東学農民軍をただちに討伐して,ふたたび公州城救援に向かうことが緊急の課題であった。

「東学党征討経歴書」では、

「同二十七日,竜浦村出発(文義への退却),再び文義縣着舎営,宮本支隊(少尉宮本竹太郎,沃川方面に残され清州まで退却した支隊) と合し,水原中尉を支隊として懐徳方面に出す,森尾大尉(公州城の西路隊) へ賊情により進路を沃川・錦山方向に転せし事を報ず,

同二十八日,支隊(大尉石黒光正―原注) に教導中隊の一小隊を付し,周安(チュアン、芝茗里と沃川の間の村) 方面に出す。

同三十日,文義縣出発,増若駅着,舎営,石黒,水原両支隊と合す。」

とある。

ここには、「従軍日誌」が記した「去る十一月二十九日,第三中隊のために退撃せられ,故に六里間,民家に人無く,また数百戸を焼き失せり,且つ死体多く路傍に斃れ,犬鳥の喰ふ所となる」という苛烈な掃蕩戦が行われた29日の記述が抜け落ちている

11月27日

政府、清国総理衙門の2条件を拒否。講和全権委員が会同ののち条件を宣言すると回答。この間、李鴻章の指示で伊藤首相に面会を申し入れた天津海関税務司グスターフ・デットリングを正式手続きを踏んだ委員でないとの理由で、拒否。

11月27日

松下幸之助、誕生。

11月28日

東学討伐隊第1中隊「陣中日誌」より

「同(11 月) 二十八日,(前日午後2 時,可興到着,宿泊),同天気悪く,我が2分隊は,金櫃護衛として忠清道公州にある我大隊本部第三中隊所在まで送付す可き命令に付,即ち金員三千円を受取,韓人夫及駄馬に付し,合計員数二十六箇となし,是韓銭に依てこの数に登る,これを督し,又忠州方向に進む。……我二分隊は,午後三時,忠州に着泊。」


討伐大隊東路隊,第1中隊第2小隊第2分隊は,兵站司令部のある可興(カフン)に戻った。可興において,第2小隊第2分隊は,「金櫃護衛」の任務をあたえられたため、12月11日まで10日間,第2分隊は,ふたたび東方へ展開していった東路隊第1中隊と別行動をとる。軍用金を入れた櫃(ひつ)を西方面を進軍する後備第19大隊本部隊へ届ける任務である。

軍用金は3千円(現在の1900万円程度)である。すべて「韓銭」に両替にした軍用金を,26個の荷物に分けて,朝鮮人人夫と馬に付けて西方へ向かった。

後備第19大隊長(南小四郎少佐)は,中路隊第3中隊とともに中路を,清州(チョンジュ)を通って,さらに文義(ムニ),沃川(オクチョン)へと南下中であった。

軍資金運搬隊第2小隊第2分隊は, 忠州(チュンジュ)を11月28日に出て西に向かい,陰城(ウムソン),清安(チョンアン)を経て,12月1日,清州へ入る。翌2日,文義まで南下,3日に沃川で大隊本部に,軍資金を届けた。

11月28日

この日、中路を進む第3中隊水原小隊(水原熊三中尉)は,懐徳(フェドク)方面へ派遣された。懐徳は,文義から南下して,沃川へ東へすすむ山道の反対方向,約6キロ西にある村である。懐徳へ進撃した2日後,30日,水原小隊は,懐徳と沃川の間にある増若村で,大隊本部第3 中隊に合流した。

11月28日

狩野亨吉が漱石を訪問。

「夏目を訪ふ、又哲學会に至る」(「狩野亨吉日記」)

11月28日

「ニューヨーク・ワールド」、旅順虐殺事件報道。陥落から4日間、非戦闘員・婦女子ら6万人虐殺。全世界に転電。アメリカでの条約改正審査に影響。

11月29日

天皇、第1軍司令官山県に病気療養名目で召喚勅命。第1師団長桂太郎・兵站総監川上操六らの召喚運動。

11月29日

『日本』11月29日「東徒の首領を殺戮す(掲二百十一号)」

晋州地方の「首領キンセウケイ」を日本軍が生捕にしたが,朝鮮官吏が「殺戮した」と報じる。これは「秘二十七八年戦役戦況及情報陸軍省」にある,釜山の今橋兵站司令官から大本営の川上兵站総監宛に,11月28日午前11時30分に発せられ,同日午後12時10分に到着した電報とほぼ同文である。広島の大本営が,「大本営掲示第211号」として公表したものを,同日午後2時50分に東京の『日本』編集部あてに打電したもの。

11月30日

清国、再び米国公使を経由して、講和条件開示を申入れ。

12月2日、日本は、正当資格の全権委員が会合しなければ宣言できないと回答。

11月30日

『日本』11月30日付は、東学鎮圧を告げる大本営掲示が3本(208・209・210号)掲載。

11月30日

「暗夜」(その7~12)を「文学界」23号に発表。

11月31日

安東に民政庁を開設。


つづく

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