2024年5月17日金曜日

大杉栄とその時代年表(133) 1894(明治27)年12月23日~31日 山東半島作戦決定 慶尚北道でも東学農民軍討伐戦 全琫準逮捕 ドレフュス事件 「今の時戦争文学といふものゝ如き、これ浅劣の極、二十七年を送るの辞となす。」(禿木) 三菱1号館完成   

 

フランスのドレフュス事件を扱ったロマンポランスキー監督《オフィサー・アンド・スパイ》

大杉栄とその時代年表(132) 1894(明治27)年12月23日 漱石、鎌倉の円覚寺搭頭帰源院で参禅 翌年1月7日、空しく下山 より続く

1894(明治27)年

12月23日

『日本』12月23日付け「東徒の暴行(掲第二四一号)」と25日付け「東徒を攻撃す(掲二四三)」

前者は,17日1000人の東学が左水営を襲い,「民家皆焼かる」。後者は,19 日「海州の西方翠野場」で東学2000 人が鈴木少尉の隊と交戦し,「敵即死十二,捕虜九,馬二十三,牛四,火薬三箱武器及び書類を分捕て我兵無事」と戦果を報告。これでも「兵站部危険なれば」と危機感が示され,鎮圧部隊の出動が頻繁に行われた。

12月24日

大本営、威海衛攻略のための山東半島作戦決定。第2軍(大山司令官)担当。第6師団の半分と広島に待機中の第2師団をこれに充てる。

12月24日

一葉、旧作を集めて『明治文庫』へ出すことを禿木に相談する。田中みの子に借金を依頼する。

12月25日

米公使エドウィン・ダン、旅順虐殺事件のため米上院での条約改正審議で、日本に裁判管轄権を与えるのは時期尚早との議論ありと陸奥外相に伝える。

伊藤首相は、善後措置を検討するが、責任問題は山地第1師団長・大山第2軍司令官に及ぶことになり、先に第1軍司令官山県大将も召喚・更迭していることもあり、軍の政府への反感・後任人事の難航などを考慮し、不問に付すことになる。日本軍の軍紀に汚点を残し、残虐行為への罪悪感も失われ、以降同様事件が続発。

12月25日

一葉、長齢子から『国会』初刷に和歌を寄せるよう要請される

12月26日

東学党討滅隊後備第19大隊第1中隊第2小隊第2分隊は,忠州へ戻って本隊と合し,小白山脈の鳥嶺を越えて,慶尚北道へ入る。最初の日本軍兵站部は,聞慶(ムンギョン)。これ以後,慶尚北道でも討伐戦を展開する。

慶尚南道咸陽(ハミャン)まで南下するのが12月24日で、ここから1000メートルを越える小白山脈南部の山々の峠を越えて,全羅南道の雲峰(ウンボン)に入り,雲峰を26日に出る。


「同(12 月) 二十六日,前七時発,南原地方え向て行進路を取る,壱里半,至る所に大山あり。山名,雲峰山と云ふ,山勢方錐の如く,岩石突立,蒼天に聳ち,岩間に通路あり。峰上より下視すれば,全羅・慶尚両道を一目にする如し。この嶺上に土民等多く集り,銃器を携,要所に歩哨を張り,東学進入の防禦をなせり。」(従軍日誌)


雲峰は,保守民兵,民堡軍が支配を保ち,民兵が郡境の峠上の山岳に上がって東学農民軍を防いだ。


「……后三時五十分,南原城に着せり。この城昔時,新羅(シルラ)と称せり,地城にして弐丈余の石壁四面を囲り,上に銃眼を鑿つ。城外二里方面は平坦なり,北に方り,壱里半去る所に龍城と名く,方弐里余,町は壁石を囲周す,府使の別荘と見ゆ。要害,好しき地勢なるも,去る二十日東党の為めに落城し,府使は殺され,市内の民家,悉く焼打し,立去れり。雲峰地方の土民等,兵器を持ち,南原城の東党を撃退し,城中に入る。東党は,北方,龍城古山(ヨンソンゴサン)に籠れり,我軍至るや,急に三道より攻撃を始む。東学,日本軍の至るを見るや,逃走しつゝ銃声を発し応す,このとき我軍急行,進んて山上に登り,石壁を越え,家宅を捜索するも,敵早く逃亡して,一人だも見えず。依て人家に火を放ち,南原に帰る。夜深更に至り,烟火未だ天空に輝光せり,この日夕に入り帰るを,舎宿は東党の為め灰となるを以て,各兵不潔なる二三家に狭宿せり。」(従軍日誌)


*夕方,第1中隊が南原へ帰ると,中隊宿舎が東学農民軍のために放火されていた。

12月27日

「陸軍省大日記」にある電報,右肩に「秘新聞ニ掲載スルヲ禁ス」というゴム印。


「電報十二月廿七日午後六時仁川発仝七時五十分釜山発仝十時三十分着

東学党討伐隊ハ全羅道ニ進入スルモ未タ鎮定ノ報ヲ得ルニ至ラス,時季ハ既ニ厳寒ニ向フ。前途ノ益々困難ナルヲ憂ヒ今橋少佐ト協議ノ上釜山ヨリ更ニ一中隊ヲ順天ニ向ツテ進メ共ニ協力速ニ討滅セシムルコトニ決セリ。此兵ハ来ル三十日釜山ヲ出発セントス。

川上兵站総監仁川伊藤兵站司令官」


11月初旬以来,後備歩兵第19 大隊など「東学党討伐隊」を特派して殲滅作戦を進めてきたが、12月下旬という厳寒期にもかかわらず殲滅は成功していないので,釜山の守備隊から一個中隊を増援部隊として送るという,現地から大本営への報告である。この時釜山守備隊として後備歩兵第十聯隊第一大隊が属しており,そこから一個中隊が抽出され,第19大隊に協力させた。

12月28日

全琫準、逮捕。残党狩り徹底。明治28年4月23日全琫準(41)・孫和中ら処刑。翌日、金開南処刑。

12月22日

ユダヤ人大尉アルフレッド・ドレフュス、ドイツ諜報機関にフランス軍機密漏洩スパイ罪で終身流刑。

12月30日

山地第1師団長、海城で孤立状況の桂第3師団長の要請により、師団先頭の歩兵第1旅団長乃木希典に蓋平方面への進出命じる。乃木は新たに混成旅団を編成。

12月30日

28 日,南大隊長に率いられた大隊本部第3中隊が,朝鮮政府軍の教導中隊と統営兵各一中隊とともに南原に到着。大隊本部第3中隊は,31日まで南原に滞在。第1中隊も31日まで南原に滞在する。「これ,東党捜索の為めなり」。

「従軍日誌」より、


「同三十日,滞在。前八時より,先日焼払へる龍城山に至り,焼残せし寺院及其他の家屋を焼払ひ,東党の使用に適せさる様命令に付,即ち第一中隊は再ひ古城山に至り,寺院,民家を焼払えり。」


この日(30日)、第1中隊は,朝,4日前の26日夕方に放火し,深夜まで燃えつづけさせた蛟竜山城へ出軍し,焼き残した寺院その他の家屋を徹底的に焼きはらった。


南大隊長は,朝鮮政府で討伐作戦を証言した「東学党征討略記」で,南原の惨状について述べている。「南原の如き惨状は又他になかるへし,官舎も民家も一として満足なるものなし。官舎の如きはその土台より破壊したり」。そうして雲峰の民堡軍別軍監,朴鳳陽(パクボンヤン)をその下手人として,南原民産掠奪と放火を糾弾している。

「東学党征討経歴書」では,蛟竜山城徹底焼き払い命令を出した29日に,次のように記している。


「同二十九日南原府着,舎営,松木大尉及び水原支隊(第1中隊) と合す。雲峰縣監を初め,南原官吏え此際,兵炎に罹る者に就ては充分之れを撫育し,仮令賊徒と雖も前非を悔ひ,良民となる者等を常業に服せしむる旨,懇篤説諭すへき事を示諭す」


南大隊長は,雲峰の縣監や南原官吏へ,兵火にかかった南原の民への撫育と東学農民軍で前非を悔いた者への寛恕を説諭したと記す。南大隊長は,朝鮮政府軍隊長や官吏に,東学農民軍へあまり苛酷に対処するなとか,「兵炎に罹る者」を撫育せよと説諭したという記事を多く残している。

12月30日

後備歩兵独立第19大隊南小四郎少佐、この日(旧12月2日)赤松支隊より全奉準〔正しくは全琫準〕 捕縛の報告を受ける。

翌31日、南原を出発して淳昌県に到着し、巨魁全奉準を受取り、負傷の治療をした。

12月30日

一葉「大つごもり」(『文学界』第24号)。続いて「たけくらべ」に着手。


禿木は、『文学界』第24号巻末の「時文」欄で、戦争に流されるかのような文壇の傾向に抵抗する一文を書く。


「廿七年は将に暮れんとす。戦の起りてより民衆の心は奮ひ立ちて、文学の如きを顧るに暇あらず」

(戦争文学は)「幸(さいわい)に民衆の狂激に乗じて一顧を買ふに足ると雖も、一点詩的永遠の価値を有するものにあらず、文士の戦にその筆を枉(ま)ぐるは、民衆のこれに狂して産業を捨つると同じ、この際須らく高踏的思想を要す」。

「今の時戦争文学といふものゝ如き、これ浅劣の極、二十七年を送るの辞となす。」(禿木(風潭)「廿七年を送る」)。


12月31日

この日(31日)、後備歩兵独立第19大隊第1中隊第2小隊の第2分隊は,南原を出発し,午後谷城(コクソン)縣に着き宿泊する。

途中,東学農民軍の「家屋数十戸を焼払」う。また,第2小隊長楠野少尉も,これとは別に斥候に出て,東学農民軍の「家宅数十戸焼き棄」てた。「この夜,東学十名を捕掌し帰り,韓人に命し,焼殺せり」。捕らえた東学農民軍を韓人,朝鮮政府軍兵に命じて,焼き殺した。

12月31日

初のオフィスビル。コンドルと曽禰達蔵による三菱1号館、丸の内の原っぱに完成。丸ノ内ビル街の始り。

12月31日

村上浪六に頼んであった借金に関する連絡を待ったまま年が暮れる。

この日より、『しのぶぐさ』始まる。明治28年2月1日まで。署名なつ子。日付不明のエピソードも多く、歌も多い。正式な日記はべつにあって、散佚したとも考えられる。


つづく


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