2024年5月18日土曜日

大杉栄とその時代年表(134) 1895(明治28)年1月1日~10日 『少年世界』『太陽』創刊(博文館) 長興の戦い(東学農民軍の最後の大規模な組織的反撃) 漱石、円覚寺より空しく下山 乃木混成旅団の蓋平城攻略 『帝国文学』発刊  

 

韓国ドラマ「緑豆の花」より

大杉栄とその時代年表(133) 1894(明治27)年12月23日~31日 山東半島作戦決定 慶尚北道でも東学農民軍討伐戦 全琫準逮捕 ドレフュス事件 「今の時戦争文学といふものゝ如き、これ浅劣の極、二十七年を送るの辞となす。」(禿木) 三菱1号館完成 より続く

1895(明治28)年

この年、放置される窮民。この年以降9年間の困窮を原因とする自殺と飢餓による死者の合計は漸増し、年に1万人を超える。また同時期の極めて制限的にしか適用されない「恤救規則」による救済人数(餓死寸前の「無告の極貧者」数)は、それでも毎年1万5千人以上と推定しうる。

政府(市町村)は「恤救規則」(明治7(1874)年3月制定)で「無告の極貧者」を公的扶助の対象とした以外何の方策も講じず、同規則による国庫支給額は、1895~1903年(9年間)で161万余円、同期間の延べ救助人数は14万2千余で、1人当り平均救助額は年間11円34銭(月1円弱、1日3銭)程度。この頃の紡績女工の平均賃金は日給15銭程度。


1月
第一銀行、朝鮮政府に対し、海関税を抵当として25万円を貸付ける

1月
藤野古白、戯曲「人柱築島由来」(「早稲田文学」)

1月
一葉、新年の詠草。戦地の兵士を思って詠む。

「  としのはじめ
      戦地にある人を
             おもひて
おく霜の消えをあらそふ人も有を
いははんものかあら玉のとし」

「  さむきふすまかすけきともし火しづかにあほひで故郷をしのぶとき、いみじきつはものといヘども、涙は襟に冷か成べし
 つるぎ太刀冴ゆる霜夜の月に寝て
 結ばぬ夢のゆくゑをぞおもふ」

1月1日
米、後のFBI長官J・エドガー・フーバー、誕生。

1月2日
川上音二郎(28)、横浜・港座で「川上音二郎戦地見聞日記」を上演。

1月2日
「東学党の軍配」(『日本』)
押収した「東徒軍配書」なるものを掲載し,全羅道の順天に本拠を置く東学には,「指揮司,総令執事,左執法,右執法,郡省察,器械有司,□□有司,左先鋒,右先鋒,右翼将,左翼将,後軍将,中軍将,中央都砲,前鋒都砲,導路長」などの幹部が任命され,左水営攻撃を準備していると報じた。一つひとつのポストに人名も記されている。

1月3日
乃木希典少将の混成旅団、北上し蓋平を奪う。孤立の第3師団を救援。

1月3日
一葉のもとに、桃水、年賀に来訪。かつては美丈夫で聞え、服装もきらびやかだったが、質素な身なりでやつれた姿だった。
寄席に誘いに来る人があったので、日暮に三人(誰かは不詳)で家を出る。菊坂の通りを過ぎて真砂町へのぼり、病院跡の原を通っていく。
夜、新潟の阪本(渋谷)三郎から年賀状が来る。こちらからはまだ出していなかった。
広瀬伊三郎は商店を開き、そのいとこの三枝信三郎は銀行を出したという。

1月4日
この日(4日)、後備歩兵独立第19大隊第1中隊第2小隊の第2分隊は、洞福(ドンボク)から綾州(ヌンジュ)へ進軍。

「我軍はその近村捜索し,東徒七八十名を捕え帰り,拷問せし所,各自白状に及ひ,依て軽きは民兵に渡し,擲払となし,重き者二十名計を銃殺す」
(7,80名を拷問し,重いもの20名計を銃殺)

5日,綾州に滞在,第1中隊は,「謀計」を使う。付近の村落で,朝鮮の民兵に命じて,我々は,東学であるが,今,日本軍が攻めてきた,「東徒」東学農民は,早く当所を立ち退け,と叫ばせた。東学農民軍の者,「数百名」が,銃器,竹槍をもって逃走した。民兵は,「ことごとく捕らえ」,日本軍に送ってきた。数百名の東学農民軍が捕らえた。「分捕銃器」75挺,竹槍や弓は焼き払った。「捕虜は,詮議の上,軽きは追放に所し,重きは死に行ひ」という。詮議は,拷問で、数百名に近い人数を拷問した。この日の殺戮が何名であったか,記されていない。

こうして,1月8日,南の海岸部の街,長興において,東学農民軍の最後の抗日戦争が展開する。

1月4日
一葉、斎藤竹子宅でのかるた会に参加。
夜、本郷のあたりを散歩し、錦絵を売る店で村上浪六の『制清軍記』の在庫を問うと品切れとのこと。初版500部しか出してないのだろうと納得。

1月4日頃
一葉宅の隣家の銘酒屋鈴木の酌婦がいつものように手紙の代筆を頼みに一葉の許に来る。
家の後ろは丸山の岡で静かではあるが、前の町通りは物音が常に絶えない。あやしげな家ばかりが大変多いので、〈若者がこのような辺りに長く居て、しまいには染まらないことなどあるものか〉という陰口が折々に聞える。

湯島の切通しは賑やかであるが、家を壊して道を広げて岩崎の屋敷になあったので、石垣が高く積まれて木立がずっとつづくため、闇夜などはひどく淋しくなった。
(現在の旧岩崎家庭園。この頃は少しずつ買い足されて広がりつつあった。ジョサイア・コンドル設計の現在の洋館は明治29年竣工で、この時はまだなかった)
1月4日
「全羅道の東学党」(『日本』)
『東朝』1月3日付(12月30日午後2時25分釜山発) の全文を転載,1月早々から,全羅道では東学が強く根を張っているという情報を伝える。『東朝』1月3日付は,「東徒全羅道に満つ全羅道五十三県皆東学党に帰し左水営のみ独立す,征討兵第一中隊増遣せらる」とも報じた。

1月5日
後備歩兵独立第19大隊南小四郎少佐、この日、羅州城に着く。各地より賊徒が跋扈して人民を殺害するのみならず、その中でも長興使を銃殺する旨の報道があり、よってこれが討滅に関する部署となった。

同6日、咸平にある鈴木特務支隊より賊情および留陣に関する報告を受け、同支隊へ海岸にある賊徒の殲滅に着手すべき命令を下す。(経歴書)

1月5日
博文館から『少年世界』『太陽』創刊

1月7日
高宗、大院君・領議政金弘集従え宗廟出御。清国と伝統的宗属関係を断絶したとの独立誓告文と国政の大綱(閔妃と一族排除方針、国民の生命財産の保障、富国強兵など)を述べた「共範14条」奉告。

1月7日
漱石、10日間の参禅を打ち切り円覚寺より空しく下山、帰京。
狩野亨吉を訪問。法蔵院に落ち着く(推定)。

1月8日
~9日,西南海岸,長興(チャンフン)の戦い(東学農民軍の最後の大規模な組織的反撃)

「我隊は西南方に追敵し,打殺せし者四十八名,負傷の生捕拾名,而して日没に相成,両隊共凱陣す。帰舎后,生捕は,拷問の上,焼殺せり」(従軍日誌)
(ここでいう「両隊」は,第1中隊第2小隊の第1分隊と「従軍日誌」筆者が居た第2分隊のことで、負傷した1 名の東学農民軍を捕らえ,拷問の上,焼き殺した。)

1月8日
一葉のもとに、戸川残花の娘、(疋田)達子初来訪。

1月8日
『東朝』1月8日、9日付は,「東学党の気勢」という各一段以上の長い記事で全羅道の東学の強さを報じた。その中で,東学が本拠としているのは全羅道順天府,東学がまだ抑えていないのは左水営,羅州,雲峯の三管のみ,軍艦筑波が陸戦隊を出し,左水営の朝鮮兵250人と共同して撃退したことなどが詳しく報道された。

『日本』1月8日付には,年末に報じられた軍艦筑波の鎮定作戦についての続報が掲載され、ここにも「韓兵七百人,来る六日迄に我陸軍と連合し東学党の根拠とせる順天府を攻撃する筈なり」と朝鮮兵との連合作戦であることが報じられている。

翌9日,軍艦筑波からの左水営付近での作戦遂行についての長い報告が「東徒鎮撫(掲第二五六号)」として,また東学指導者の処刑が「巨魁斬首(掲第二五七号)」として掲載される。

いずれも軍艦筑波艦長の黒岡帯刀からの報告に基づく。軍艦筑波は西海艦隊に属し,1894年1月から3月まで仁川に碇泊して,作戦材料を収集,軍令部に報告するなど,活発に活動していた。

1月9日
漱石、斎藤阿具宛て手紙に、「五百生の野狐禅遂に本來の面目を撥出し來らず」と洩らす。

1月9日
叔父大原恒徳に宛てた子規の手紙。従軍記者になるだろうとの観測を述べる。

「扨私今度或は新聞記者として従軍いたし候様に相成可申と楽み居候。方面は未だ何れとも決定致さず候へども、大概大阪師団に附随致すべしと存居候。」

1月9日
山東半島作戦のため、第2師団第1次輸送隊、宇品で乗船、~12日。大連湾到着、14~17日。大連で乗船する第1回金州部隊と合流して、更に栄城湾に向う。
第6師団第1次輸送隊、門司で乗船、12~16日。大連湾到着、15~21日。

1月10日
乃木混成旅団の蓋平城攻略

夜明け前、乃木混成旅団、東二台子を出発。午前5時40分頃、第1師団主力、出発。6時50分、旅団主力歩兵第15連隊第3大隊が祁家務を占領。激戦後、西邵家屯も占領。7時30分、歩兵第1連隊第2大隊が、西邵家屯(本道付近)占領。同第1大隊、塔山付近の蓋州河右岸進出。7時40分頃、第2大隊も進撃し前岸占領。7時50分、第1大隊は塔山を占領。8時10分、隠岐大佐は予備の第1・6中隊を率い、蓋平城壁東南に到達。8時25分、連隊旗手小川少尉・隠岐大佐、城壁に上る。10時、第5中隊らが城壁東南に到達し城内進入。

この日、日本軍戦死36・負傷298、清戦死450・捕虜32。宋慶は2階級下り留任、徐邦道・章高元は革職。

1月10日
文科大学の教官・学生が中心となって『帝国文学』が発刊


つづく

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