2024年6月16日日曜日

大杉栄とその時代年表(163) 1895(明治28)年9月21日~10月6日 子規の第二~五回吟行 「遊志勃然、漱石とともに道後に遊ぶ」(子規「散策集」) 「古塚や恋のさめたる柳散る」 「行く秋や我に神なし仏なし」  

 

照葉狂喜(「てには狂言」)

大杉栄とその時代年表(162) 1895(明治28)年9月1日~20日 馬場孤蝶、彦根中学へ赴任 漱石、俳句に熱を入れる 一葉、随筆「そぞろごと」(『読売新聞』) 第1回救世軍集会 子規の松山での吟行始まる 一葉「にごりえ」(『文藝倶楽部』) 熱狂的称賛を受ける より続く

1895(明治28)年

9月21日

朝鮮、「漢城新報」社長安達謙蔵、三浦に「公使の対韓政策」を質す。三浦は「どうせ一度は狐狩りをせねばならぬが」と漏らす。三浦は安達と率いる「熊本県人団」30余人に期待。

9月21日

子規の第二回吟行。午後、漱石、子規・中村愛松・柳原正之(極堂)・大島梅屋に誘われて、病院下を通り抜け、常楽寺(六角堂)を経て、御幸寺(みゆきじ)山麓まで吟行(吟行句24句)。漱石は(推定)10句。

子規の句

松山の城を載せたり稲むしろ

秋の日の高石(たかいし)懸(がけ)に落ちにけり

草の花練兵場は荒れにけり

9月23日

漱石、子規と共に郊外の散歩で俳句32句を作る。この時、松山城・常楽寺(六角堂)・千秋寺などを訪ねる。漱石、「子規へ途りたる句稿その一」に、愚陀仏庵主と署名する。子規、句稿を批評する。

子規の母の妹、岸三重から、長男駿(はやま、子規の従弟。当時小学校2年生)におはぎを持たせて、届けて来る。子規は形式的な受取証を渡すが、その受取りにおはぎの色分けの数を書き入れて渡す。

9月25日

朝、子規、大量の鼻血を出す。漱石の出勤前か後かは不明。

翌26日、午前、子規の再度の鼻血。午後、連俳の席で鼻血止まらず、介抱受ける。句会は一時中止。

9月26日

国木田独歩、信子との新天地を北海道に求めて出発

9月26日

高野房太郎乗船マチアス号、南京ほか揚子江流域の各地をまわる。

9月28日

閔泳煥、駐米公使に任命。

29日、政府、朝臣の服装を韓式に戻すと発表。日本の威信を傷付ける挑発。

9月28日

仏、細菌学者パストゥール(72)、没。

9月下旬

領事館補堀口九万一(30)・乙未義塾鮎貝房之進・与謝野鉄幹、大院君を訪問(「漢城新報」編集長小早川秀雄の手記。三浦と大院君の陰謀とする立場で書かれる。虚が多い)。


10月2日

朝鮮、三浦公使、楠瀬幸彦中佐・守備隊長馬屋原務本少佐と軍隊動員打合せ。三浦と公使館一等書記官杉村濬が荻原秀次郎警部と領事警察動員打合せ民間人の動員は安達謙蔵。安達が、「漢城新報」主筆国友重章、平山岩彦、小早川秀雄らに声をかける。

5日、朝鮮政府軍部兼宮内府顧問岡本柳之助、大院君を訪問。大院君は息子・孫の勧めでようやく受け入れ。岡本は、帰国挨拶名目の訪問のため、そのまま仁川に向う。

10月2日

台湾、近衛師団第二旅団長山根少将病死

10月2日

子規の第三回吟行。病気恢復。午後より一人で吟行。藤野家、大原家を訪ね、中の川を渡って八軒家を過ぎ、伊予鉄の線路に沿い石手川堤に上る。浦屋雲林村居の前を通り、監獄の裏に出て、薬師寺の西より八軒屋に戻る(吟行句21句)

眞宗の伽藍いかめし稲の花

花木槿(むくげ)雲林先生恙(つつが)なきや

我見しよりひさしきひょんの木実(このみ)哉


満月の夜、漱石、子規・柳原極堂・村上霽月と句会を催す。子規、葡萄を買い、盆の上に山盛りにし、一同これをつまみながら、句作に耽る。

10月2日

一葉へ、関如来より10月4日締め切り原稿の確認の手紙が来る

5日、一葉へ、関如来より2日の手紙で伝えた原稿の催促

10月2日

フランツ・ヨーゼフ、ポーランド貴族カジミール・バデーニ伯を首相に任命(ガリツィア総督時代、ウクライナのリテニア人反乱を徹底的に弾圧)。

10月4日

森鴎外(33)、東京に凱旋。陸軍軍医学校長に復職。

10月4日

奥村博史、藤沢に誕生。

10月4日

バスター・キートン、カンザス州に誕生。

10月5日

台湾の近衛兵団、南進。

9日嘉義を占領。10・11日、混成第4旅団、上陸。19日劉永福将軍、厦門に脱出。21日台南陥落。台湾の組織的抵抗終結

10月6日

子規の第四回吟行。

子規、漱石と道後温泉楼上、一遍上人誕生地等を散策。


「明治廿八年十月六日……今日は日曜なり、また天気は快晴なり、病気は軽快なり。遊志勃然、漱石とともに道後に遊ぶ、三層楼中天に聳えて来浴の旅人ひきもきらず……温泉楼上眺望……柿の木にとりまかれがる温泉哉……」(散策集)


子規の句

古塚や恋のさめたる柳散る

これには「道後遊廓の出口の柳は一遍上人御出生地と書ける碑のしだれかかりたるもいとうちとけたるさまなるに」という前書きがついている。


「十月六日(日)、暗。正岡子規と共に道後温泉に遊ぶ。一番町から道後鉄道に乗り、道後温泉本館(三層楼)(明治二十七年四月落成)の楼上にあがる。正岡子規は、「柿の木にとりまかれたる温泉哉」と詠む。入浴したかどうか分らぬ。正岡子規は入浴しない。鷺谷寺(黄檗宗大禅寺。現在はない)に、正岡子規の曾祖母小島久の墓を探したが、見当らぬ。鴉渓の花月亭(現在の鮒屋旅館内)に遊び、松枝町を過ぎて、宝巌寺(一遍上人誕生の霊地)を訪れ、新栄座(大街道。明治二十年十月開場)で、林祐三郎の『照葉狂喜(「てには狂言」。今能狂言)を観る。(今箙、狂言止動方角、能楽鉄輪、狂言磁石、能楽安宅、狂言三人片輸、能楽土蜘蛛)下宿先の孫娘、宮本(久保)より江をしばしば芝居へ連れて行く。宮本(久保)より江は、『帝国文学』を知り、『保元物語』『平治物語』『お伽草紙』などを漱石から借りたらしい。」(荒正人、前掲書)


10月7日、子規の第五回吟行。今出の村上霽月(せいげつ)訪問をおもいたち、朝早く漱石と車で出立。正宗寺に寄り釈一宿を誘うが行けず。幼時、余戸の佐伯家を訪ねた同じ道を行く。氏神雄郡神社ー鬼子母神ー手引松などを過ぎ、霽月邸に至る。庭前の築山の上れば遥かに海を望む。歌、俳諧の話に余念なく、食後は今出の浜に出て、村を一周し帰り句をまとめる。

夕刻、霽月邸を辞し、余戸の森円月をを訪ね、夜、愚陀仏庵に帰る。吟行句33句。

朝寒やたのもとひびく内玄関

鵙(もず)木に啼けば雀和するや倉の上

花木槿家ある限り機(はた)の音

行く秋や我に神なし仏なし

10月6日

瀬木博尚、公告代理店博報堂を創業。


つづく


参考

子規と照葉狂言



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