2025年1月7日火曜日

大杉栄とその時代年表(368) 1901(明治34)年10月13日 《藤野古白のこと》 『子規山脈 師弟交友録』(日下徳一著)「14 そこ行くは誰そ ー 古白来レト曰フ」のメモ

 

子規『古白遺稿』

《藤野古白のこと》

『子規山脈 師弟交友録』(日下徳一著)「14 そこ行くは誰そ ー 古白来レト曰フ」のメモ

「明治二十八年三月六日、子規は日清戦争の従軍記者として大連に赴くために広島に到着したが、従軍許可と乗船命令が出るまで、しばらく待機しなければならなかった。その間を利用して、子規は父の墓参と親類縁者へ従軍の挨拶を兼ね、三月十四日に松山に帰省し三泊した。三年ほど帰省しなかった間に、父の菩提寺の法竜寺の山内を鉄道が横切るなど、周囲が一変しているのに驚きながら、子規はのびやかに故郷の風景を詠んだ。


春 や 昔 十 五 万 石 の 城 下 哉

畑 打 よ こ こ ら あ た り は 打 ち 残 せ

故 郷 は い と こ の 多 し 桃 の 花


故郷の松山にいとこの多いのは当然だが、子規は東京にいる藤野古白もこの中に入れていたのかも知れない。

子規の人生に、大きな影を落とす藤野古白は本名を潔といい、子規より四歳下の従弟で、母は子規の母八重のすぐ下の十重であった。七歳で母を喪い、九歳の時に父漸(すすむ)の勤務の関係で、一家をあげて東京に移った。

後に子規は、古白の三回忌に刊行した『古白遺稿』の中の「藤野潔の伝」で、子供の頃の古白を、神経過敏で我ままいっぱいに育ち、扱いにくい子供だったといっている。一例をあげれば、子規の家へ遊びに来ても、子規が大事に育てている草花を、ことごとく引き抜くという小さな暴君であった。こんな事から、子規は子供時代の古白に「再び近づくことを好まざりき。古白が破壊的の性格は到底余と相容れざるを知りたるなり」と書いている。

しかし、明治十六年六月、子規が念願かなって東京遊学の夢が実現し、日夜、古白に接するようになってから、古白を見る目も変わってきた。というのも、子規は大学予備門の受験準備を始めるため、古白の通っていた須田学舎へ入学し、しばらくの間であったが、十三歳の古白と十七歳の子規が同じ塾舎で学ぶことになったのである。さらに、その年の十月には、友人の清水則遠といっしょに神田中猿楽町の古白の父藤野漸の家の二階に下宿することになり、一年足らず、子規は古白と文字通り寝食を共にした。

この頃の古白は、子供時代のような悪戯を続けていた訳ではない。しかし、度量の偏狭さは昔のままで、人との交際が難しく、しかも人に負けるのを極端に嫌ったから、友人とよく口論し、時にはナイフを振り回すことさえあった。教師はしばしば古白を譴責し、従兄の子規にも古白を戒めるよう命じた。こうした振舞いを子規は、「此の如く甚だしかりしも豪も悪意ありしにあらずして寧ろ無邪気なりしなり」と弁護している。

少年期から青年期への移行期にあった古白は、生まれつきの神経症的な性格で、躁と鬱のはぎまで揺れ動いていたのだろう。兄貴分として子規は、古白の庇護者になって説教したり外へ連れ出したり、松山への帰省に同伴したりする。しかし、明治二十二年、十九歳の秋、古白は神経症が昂じて巣鴨病院に入院、退院後は松山で一年あまり静養して、やっと健康をとり戻した。その間に自ら古白と号して俳句や小説に親しむようになり、明治二十五年、二十二歳で東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学して文学を学ぶ。同級生には、後に文名を馳せる島村抱月や後藤宙外などがいた。

虚子も、この頃から子規を通じて古白と親しくなり、夏休みには、松山へ帰省する古白が京都の虚子の下宿に寄り、いっしょに帰省したこともあった。後年、虚子は古白の俳句について次のように述べている。


この古白といふ人は、其の作るところの句は、善悪ともに特徴がありました。後年遂に自殺したやうな人でありまして、どこか天才的なところがありました。

子規は古白の句を評して、月並の句が多いといふ事をいつてをりましたが、それは正にさうであります。しかしながら、元来が詩人肌の人でありまして、その句を味はつてみると、主観の勝った句で、特別な味があることは否めません。       (『俳句の五十年』)

子規は古白の俳句を『古白遺稿』に三百句あまり選んで収め、古白の俳句や、古白が俳句から離れるようになった経緯を次のように述べている。


彼の文学は先づ俳句和歌を以て始まり、俳句は稍上達する処ありしも和歌は功を成さず。二十四年の秋、俳句句合数十句を作る。趣向も句法も新しく且つ趣味の深きこと当時に在りては破天荒ともいふべき余等儕輩を驚かせり。


今 朝 見 れ ば 淋 し か り  し夜 の 間 の 一 葉 か な

芭 蕉 破 れ て 先 住 の 発 句 秋 の 風

秋 海 棠 朽 木 の 露 に 咲 き に け り


の如きは此時の句にして、此等の句はたしかに明治俳句界の啓明と目すべき者なり。年少の古白らに凌駕されたる余等はこゝに始めて夢の醒めたる如く漸く俳句の精神を窺ふを得たりき。俳句界是より進歩し初めたり。二十五年六年七年と漸次に古白の俳句も進みたるに拘らず、二十七年の頃より彼は却つて月並調を学びて些細の穿ちなどを好むに至り、其俳句は全く価値を失ひたり。一躍して俳句の堂に上りし古白は苦辛して俳句の堂を下がりたり。

(「藤野潔の伝」)

俳句での成功はおぼつかないと思ったのか、古白の関心は小説に移り、明治二十七年春には、小説「椿説舟底枕」を書き上げた。

さらに、早稲田の卒業論文も戯曲を提出することにして、その年の夏、松山に帰省して「人柱築島由来」を書き上げ、十一月には「大文学者になりたる如く」意気揚々として上京した。

ところで、戯曲を書くことにしたものの、古白はそれまでに一度も観劇したこともなく、ただ福地桜痴の『春日局』を読んだだけで、戯曲の書き方もよくわからなかった。その古白が、骨身を削るほどの苦労を重ねながら、ともかく一編の戯曲を書き上げたのだから、無鉄砲といえば無鉄砲だが、文才はかなりなものであった。

「人柱築島由来」は、平清盛の兵庫築港に題材をとった戯曲で、重盛の家臣の松王が、いったんは人柱に決められていた橘という美しい娘の身替わりに、海中に沈められるという話である。美文調の長い科白が多く、とても上演に適したものとは思えない。しかし、これが坪内逍遥の主宰する「早稲田文学」の明治二十八年一月号より三月号まで、三回に分けて掲載され、古白は得意絶頂だった。しかし、連載が終わっても、上演の申し込みはおろか、批評家にもほとんど相手にされず、これで一挙に文壇に躍り出ることができると信じていた古白は、大きなショックだった。そして、これが一か月後に自殺をはかる原因のひとつにもなったのである。

もちろん、常識からいえば、無名の一青年の処女作が世に容れられなくても、死を選ぶほどのことはない。しかし、明治という時代の反映なのか、その頃、文学や哲学を志す若者の間で自殺する者も多く、古白の死の前年の五月には、北村透谷も二十七歳で自殺している。

古白の自殺の原因についても、文学への自信の喪失のほか家庭の問題、失恋などいろいろ取り沙汰されてきた。しかし、やはり古白の自尊心の強い病的な性格が原因だったと見るのが妥当なようだ。

さて、松山に帰省していた子規に話を戻すと三月十七日に広島に帰着したものの、乗船命令がなかなか下りなかった。そして、さらに二十日ほど待機して、四月七日になってやっと、四月十日宇品港より海城丸で出発せよという命令を受けた。

ところが、出発の前日の四月九日、翌日の準備に忙殺されていた子規のもとに、古白が二日前の四月七日に、「現世に生存のインテレストを喪ふに畢りぬ」という遺書を残して、ピストル自殺を図ったという知らせが届いた。一か月ほど前、子規が東京を発つ前夜は古白が荷物の整理を手伝い、翌日も新橋駅まで見送ってくれた。両日とも古白の挙動はいたって明るく平確で、死の影など微塵も見られなかった。

子規は動転しながらも、出発を明日にひかえた身でどうすることもできない。とりあえず、古白の父に見舞状を送り、それに「私代理として見舞ニ差上候潔君へ御見せ被下度候」と書いて、久松伯拝領の軍刀を携えた出陣の記念写真を添えた。また、「私も最一度潔君御面談致度心持いたし候 万一の事あらば遺憾無限余りの事に実は涙も出ぬ位ニテ何ともいへぬ感じに相成申候 兎に角今死なれては困り申候」とも書いた。

子規が、古白の死を知ったのは四月二十四日に、碧梧桐からの四月十四日付の手紙を金州城外で受け取った時であった。

それによると、古白は四月七日朝九時、湯島切通の親類宅でピストルで頭部を撃って自殺を図り、ほとんど即死に近い状態だったが、内藤鳴雪の尽力で大学第一病院で弾丸摘出の手術をした。しかし、脳中深くはいった弾丸はとり出せず、次第に意識も朦朧として四月十二日午後二時に死去した。病室に詰めていたのは家族のほか鳴雪、碧梧桐、虚子たちで、十三日の葬式も彼らの手で行われた。

子規は、金州城外の土間に高梁を敷いただけの粗末な宿舎で、暗澹たる気持ちで碧梧桐の手紙を読んだ。そして、「陸中日記」に、


春 や 昔 古 白 と い へ る 男 あ り


という悼句をしるした。また、「亡き古白を思ひつつ」として、


春 の 夜 の そ こ 行 く は 誰(た) そ 行 く は 誰 そ


という句も書き添えた。

子規は周知のように、従軍から帰国の途次佐渡国丸船上で喀血し、帰国と同時に県立神戸病院に入院、奇跡的に一命をとりとめた。そのあと須磨保養院で静養して、八月末に帰省し、古白の墓に詣でた。そして、


我 死 な で 汝(なれ) 生 き も せ で 秋 の 風


という句を手向けた。

十月末に東京に帰ったが、帰ってからも子規はよく古白のことを思い出した。


後東都に帰りて復褥に臥す。さめざめと雨降る夜の淋しさに或は古白を思ふことあり。古白の上はわが上とのみ覚えて、古白は何処に我を待つらんといと心細し。(「藤野潔の伝」)

翌明治二十九年三月三日の雛の節句に、子規は古白の遺稿を取り出して読んでいたが、ふと、


雛 祭 古 白 に 妻 は な か り し よ


という句が浮かんだ。雛の顔を見ていて盲目を思い出し、もし古白に妻がいたら、古白も自殺しなかったのではないかと思った。そして、妻のいなかった古白、妻のいない自分、余りにも相似た二人の境涯が哀れに思えてならなかった。

古白が死んで四か月ほどたった明治二十八年八月、虚子は碧梧桐との同居をやめて、古白の旧居である豊島都下戸塚村の北田方へ引っ越した。これが、いわゆる「古白旧盧」であるが、虚子が亡友のあとに移ったのは「いくらか古白を偲ぶ心持」があったと『俳句の五十年』に書いている。

古白旧盧で古白はピストル自殺を図ったわけではないが、常識的にいえば亡友の家というのは敬遠したくなるものだ。しかし、虚子は生前の古白と、そういう事が気にならないくらい親しくしていたのである。死ぬ前日にも、古白は虚子と碧梧桐を誘って汁粉屋へ行った。その時も古白は落ちついていて快活にしゃべり、翌日の自殺を予測させるような何の徴候もなかった。しかし、後から思えば訣別の意味であったのだろうと、虚子は述懐している。

子規は、虚子が古白の旧居に移ったと聞いて、須磨の静養先から、


尻 の 跡 の も う 冷(ひやや) か に 古 畳


という句を送った。虚子も古白旧盧に鴨宮や碧梧桐たちを招いて運座を催し、句稿を子規に見てもらった。虚子の句は、


風 が 吹 く 仏 来 給 ふ け は ひ あ り    虚 子


という霊迎(たまむかえ)の句であった。子規からは、きっそく「句法巧妙、老成家ノ手ニ成りタラン」という評が届いた。

さて、たびたび引用している『古白遺稿』というのは、子規が古白の三回忌に間に合わせるため、病苦をおしてほとんど独力で編集したもので、明治三十年五月に非売品で刊行された。やり出したら他人に委せることの嫌いな子規は、資金集めから古白の残した俳句、和歌、新体詩の選、「藤野潔の伝」や新体詩「古白の墓に詣ず」の執筆、諸家への追悼詩文の依頼など、異常とも思えるほどの情熱をそそいだ。そして、菊判百九十六ページの『古白遺稿』が刊行されたその日に、蕪理がたたったのか子規は高熱を発して、一時、虚脱状態に陥り周囲をはらはらさせた。

『古白遺稿』には諸家の悼句が四十句ほど寄せられているが、漱石、虚子のは次のようなものであった。

恩 ひ 出 す は 古 白 と 申 す 春 の 人       漱石

君 帰 ら ず 何 処(いづこ) の 花 を 見 て 往 た か

       私(ひそか)に思ふに古白未だ死せず

永 き 日 を 君 あ く び で も し て 居 る か    虚子


子規は少年時代の古白を敬遠して遠ざけていたが、成人してからは、「古白と最も親しかりし予」というくらい身近な存在になっていた。

子規の古白に対する態度は、従弟や師弟という以上のものがあった。しかし、その間の事情を、碧梧桐は「不幸な古白に対して、肉親の愛といふより、文学の友として、自分は聊か冷淡であつた、といぶやうな一種の悔恨を感じていた」(子規の回想』)といい、また、小島信夫も「幼少の頃からナイフで友人を傷つけるようなところがあったこの詩人は、子規と激しさの点で似ているがために、子規は、つきはなした」(『私の作家評伝』)ともいっている。

二人のいうような悔恨の念があったかどうかは別として、その後の子規はいつか自分も、古白のように死の誘惑に勝てないのではないかと思うようになる。

死の前年、明治三十四年十月十三日の『仰臥漫録』には、「土筆摘む」の項でもふれたが、鬼気迫るような内容が書かれている。公表を目的としない日記だったので、この記述には子規の赤裸々な感情がこめられていると見ていい。ここでは要点だけ書くと、その日、妹と母を外出させた子規は、またしても自殺熱がむらむらとおこってきたのである。寝たまま、枕元の硯箱を見ると四、五本の筆にまじって、小刀と二寸ばかりの千枚通しの錐が見える。次の間に行けば剃刀もある。しかし、今の子規には次の間まで這って行くことはできない。そこで、手に取ることのできる小刀や錐を使って自殺することも考えてみるが、死に至るまでの苦しみを考えると、とても実行する気にはなれず、子規は誰ひとりいない病床でしゃくり上げて泣き出すのである。それから、死の誘惑を払いのけるがのように枕元の小刀と錐をスケッチし、「古白曰来」(古白来(キタ)レト曰(イ)フ)の四文字を書き添えた。

それから三週間ほどたった明治三十四年十一月六日、子規はロンドンの漱石に悲痛な手紙を書く。


僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヤウナ次第ダ、(略)


病室で居ても立ってもおられないほど苦しい時、子規には手招きしている古白の幻影が見えるのである。」


この項おわり


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