2025年2月28日金曜日

トランプ氏の米軍制服組トップ解任、元国防長官5人が非難(ロイター);「トランプ大統領の行動は、完全志願制の兵力を損ない、国家安全保障を弱体化させる」と主張」 / 米国防長官、解任対象拡大を示唆 軍制服組トップ人選に懸念(共同) / トランプ政権、米軍制服組トップと海軍作戦部長を解任 前例のない軍幹部の更迭(CNN) / トランプ氏、米軍制服組トップを解任 理由は不明、SNSで「感謝」(朝日) / 米国防総省が5400人解雇 リストラの波、安保に波及(日経) 

絶対ダメです! ⇒ 石破首相「25年8月の引き上げは予定通り実施するが、26、27年度に予定する2段階目以降の引き上げのあり方を再検討する。」 / 石破首相は耳を傾けて!高額療養費、負担増の非道 「治療断念」「子どもの習い事を削る」…相次ぐ悲鳴(毎日) / 石破首相、がんや白血病の治療薬を「名指し」して医療費逼迫を強調 患者側から「薬を使う患者を傷つけた」の声(東京) / 「国家的殺人未遂だ」 島根知事、高額療養費の見直し巡り政府批判(毎日);「丸山知事は「鬼のような改正案」とし生存権を保障した憲法25条を挙げて「治療を諦めざるをえない人が相当出てくるのは憲法違反だけではなくて刑法違反だ」と主張した。さらに「国民を死に追いやるような政策決定をした人たちは命に関わる仕事をしてはいけない。事務方は更迭でしょう」と批判した」

 



 

上大岡の「鮨あうん」さんで寿司ランチ 自宅近くのヤブツバキ 一気に開花したカワヅザクラ 2025-02-28

 2月28日(金)晴れ

今日は、上大岡の「鮨あうん」さんで寿司ランチ。

お聞きしたところ、昨年6月にお邪魔したことのある関内の「鮨駒」さんの弟子筋にあたるそうだ。

きっちり常連さん、リピーターが付いているお店とお見受けした。








▼自宅近くに咲くヤブツバキ

▼このところの暖かさで一気に開花した自宅近くのカワヅザクラ


トランプ氏は、卵をはじめとする食料品の価格を下げる事を上位の政権公約としていましたが、今年に入り卵の価格は41%も高騰しています。 NYCでは、1ダース11~12ドルまで跳ね上がり食料品店ではダース売りでは売れないので3個売り(2.99ドル)を始めています。 3個売りで何とか売れるようになりました。 街の人に聞きました。 私はもう一月卵を食べていません。 CNN This Morning

大杉栄とその時代年表(420) 〈子規没後の子規山脈⑤終〉 「司馬遼太郎は、明治的時代精神の代表的人物として、明るく多弁で、仕事を自分の命よりも尊重した感のある子規を好んだ。・・・・・司馬遼太郎は昭和五十六年、『ひとびとの跫音』という不思議な小説を刊行した。それは、子規関係者のその後の生の営みをえがいた静かな「歴史小説」であった。・・・・・ 司馬遼太郎が死んだのは西沢隆二の死の二十年後の平成八年(一九九六)二月、七十二歳であった。」(関川夏央、前掲書)  

 

司馬遼太郎

大杉栄とその時代年表(419) 〈子規没後の子規山脈④〉 「ともかく子規遺品は一度著作権継承者正岡忠三郎のものとなったのち、まとめて国会図書館に寄贈された。ひきつづき保存会の所有となった子規庵は、昭和二十七年十二月、東京都の文化史蹟に指定され、鼠骨没後の維持が約束された。鼠骨の努力は無とならなかったのである。 昭和二十八年早春、もはや自力では歩けない鼠骨は、車に乗せてもらい、子規、八重、律が眠る田端の天竜寺を訪れた。これを最後の外出とした鼠骨が八十歳で死んだのは、昭和二十九年八月十八日であった。」(関川夏央、前掲書) より続く

〈子規没後の子規山脈⑤〉

□司馬遼太郎

「司馬遼太郎は昭和四十三年(一九六八)から四十七年にかけて、大作『坂の上の雲」を書いた。・・・・・司馬遼太郎は、明治的時代精神の代表的人物として、明るく多弁で、仕事を自分の命よりも尊重した感のある子規を好んだ。

『坂の上の雲』の仕事を通じて、司馬遼太郎は秋山真之らの子孫や、正岡律の養子に入った正岡忠三郎を知った。

さらに忠三郎の仙台の二高時代の友、西沢隆二(筆名・ぬやまひろし)と知り合い、奇妙な友情を結んだ。忠三郎は養母の律と距離を置きたくて、府立一中四年修了であえて二高へ進み、大学も東大ではなく京大を選んだ。卒業後、阪急に就職したのもおなじ理由であった。

西沢隆二は元共産党員、戦前から戦後まで獄中にあった人である。戦後、徳田球一の義理の娘と結婚、党中枢にありながら詩人として知られたが、やがて除名された。

その西沢隆二が、昭和四十四年、『正岡子規全集』の刊行を発想したのは、阪急を退職後、六十七歳のとき卒中に倒れて病床にあった正岡家の継承者である忠三郎の余命があるうちに、子規関係の仕事を残させたいと願ったからである。

西沢隆二は司馬遼太郎に相談した。だが、全集となると生半可な仕事ではない。編集・校訂だけで大事業である。司馬遼太郎は困惑した。しかし、さまざまな偶然が重なった結果、講談社がその事業を引き受けることになった。

全二十二巻別巻三巻と予定された浩瀚な、かつ大正十三年から昭和九年までに合計三度出た子規全集・子規選集の決定版ともいうべき講談社版全集の編集委員は、松山出身で「常盤会寄宿舎」初代監督の子息である服部嘉香、それに久保田正文、和田茂樹、蒲池文雄の四人であった。・・・・・

監修に名を連ねたのは、正岡忠三郎、ぬやまひろし、司馬遼太郎、大岡昇平の四人であった。大岡昇平は、詩人富永太郎の二高時代の親友として正岡忠三郎を知っていたのである。講談社側の責任編集者は松井勲であった。

広汎な資料収集、高度な校訂を経て、これ以上は望めないというレベルに達した講談社版『子規全集』の第一回配本(第十一巻、随筆一)は昭和五十年四月。翌月、編集委員の長老、服部嘉香が八十九歳で他界した。

西沢隆二をとまどわせるほど周到な仕事ぶりをしめした松井勲は、『子規全集』が十四冊まで刊行された昭和五十一年七月二日に早世した。司馬遼太郎と同年生まれの松井勲の没年は五十三であった。そのあとを引き継いだ編集者・駒井昭二は、松井勲が編集者の領域を超えて「研究者の領域に踏み込み」、その完全主義の精神をもって学者を助けた、というよりリードしつつ本をつくっていた、と回想した。

正岡忠三郎が七十四歳で死んだのは松井勲の死の二カ月後、昭和五十一年九月十日であった。西沢隆二は、正岡忠三郎の死の八日後、七十三歳で死んだ。まるで申し合わせたかのようであった。

司馬遼太郎は昭和五十六年、『ひとびとの跫音』という不思議な小説を刊行した。それは、子規関係者のその後の生の営みをえがいた静かな「歴史小説」であった。・・・・・

司馬遼太郎が死んだのは西沢隆二の死の二十年後の平成八年(一九九六)二月、七十二歳であった。」(関川夏央、前掲書)

□佐藤紅緑

「紅緑は十九歳の時、弘前中学校を四年で中退して郷党の先輩で遠縁に当たる羯南を頼って上京した。紅緑は後に子規から《敏捷にして馬の如し》(「明治二十九年の俳句界」)といわれたように奔放で波瀾に満ちた人生を送ることになる。新聞社も日本新聞社を振り出しに、五、六社を転々とし子親には心配のかけ通しで、よく叱られた。それでも紅緑は生涯子規を命の恩人として尊敬して、娘の愛子が父のことを書いた『花はくれないー小説佐藤紅緑』によると、話が子規のことに及ぶと先ず居住まいを正して、時には涙を浮かべながら語ったという。愛子は少女時代、行儀も悪く人の名は渾名で呼ぶか、それでなければ呼び捨てにしても平気な父が、子規のことになると「しきせんせい、しきせんせい」というのが不思議でならなかった。

これほど子規を慕っていた紅緑であったが、子規の臨終に立ち合うことは叶わなかった。ただ、九月十日の子規庵での最後の「蕪村句集」輪講会には、虚子、鳴雪、碧梧桐桶と共に出席できたのがせめてもの幸いだった。・・・

(略)

・・・子規が危篤の時、紅緑は東京にいて電報をくれていたら駆けつけることができたのにと思うと残念だった。しかしこれは紅緑が事情を知らなかったから出た愚痴で、その夜、当直だった虚子はもちろん、母八重も妹律でさえ、子規が息を引き取る瞬間には立ち会えなかったのである。

そうと分かると紅緑は葬儀万端を率先して助け、この終焉記をはじめその後何箱かの追想記を書いて子規を偲んでいる。

子規没後三十二年後の昭和九年九月、「日本及日本人」(子規居士三十三年記念号)にも紅緑は 「糸瓜棚の下にて」という思い出を書き最後に、

糸 瓜 息 や 墓 前 に 恥 る 事 多 し  紅緑

という句を添え子規に詫びた。

(略)

・・・紅緑が病床に臥すようになったのは、戦後の混乱も少し落ちつきかけた昭和二十四年の春先であった。前年の秋から虚子は戦後初の『定本虚子全集』全十二巻の刊行が創元社から始まったばかりで忙しい時だったが、その事を聞くとただちに長女真砂子を伴って紅線を見舞った。その日、紅緑は小康を得ていろいろ虚子と話ができ、涙を見せながら喜んだ。紅緑が七十六歳で没するのは、それから暫くたった六月三日のことであった。」(『子規断章』)

□物故者


「大正二年(一九二二)七月、左千夫が四十九歳で死んだ。大正四年二月には節、三十六歳。大正五年十二月には漱石が、まだ四十九歳の若さで死んだ。ついで六年五月、四方太、四十四歳。七年二月、秋山真之、五十歳。十一年七月、鴎外、六十歳。同年十月、蕨真、四十六歳。

(略)

加藤拓川が六十四歳で亡くなったのは大正十二年三月二十六日、子規没後二十一年である。」


「正岡八重が死んだのは昭和二年五月十二日、八十二歳、子規没後二十五年であった。」


「八重の死の前年、大正十五年二月には鳴雪が死んでいる。鳴雪は明治四十年、六十歳まで常盤会舎監をつとめ、あとを秋山真之の兄好古に託したのちは麻布笄(こうがい)町に自適して七十九歳で死んだ。碧梧桐と飄亭は、ともに昭和十二年に死んだ。碧梧桐六十四歳、飄亭六十六歳であった。中村楽天は昭和十四年、七十四歳で死んだ。

正岡律は昭和十六年五月二十四日に死んだ。子規没後三十九年、七十一歳であった。」


「あの戦闘的なまでに元気のよかった不折も、最後は帝国芸術院会員となって、昭和十八年六月、七十七歳で死んでいた。」


「昭和二十八年早春、もはや自力では歩けない鼠骨は、車に乗せてもらい、子規、八重、律が眠る田端の天竜寺を訪れた。これを最後の外出とした鼠骨が八十歳で死んだのは、昭和二十九年八月十八日であった。

・・・佐藤肋骨は戦中、昭和十九年、七十二歳で死んでいる。昭和戦前に少年小説の大家となった佐藤紅緑は、昭和二十四年、七十五歳で死んだ。・・・・・三井甲之は、昭和二十八年、七十歳で死に、美校教授となり文化勲章を受章した香取秀真は、鼠骨に先立つこと七カ月の昭和二十九年一月、八十歳で死んだ。

それより以前の昭和二十八年九月、折口信夫(釈超空)が六十六歳で死んでいる。」


「講談社版『子規全集』の第一回配本(第十一巻、随筆一)は昭和五十年四月。翌月、編集委員の長老、服部嘉香が八十九歳で他界した。

・・・松井勲は、『子規全集』が十四冊まで刊行された昭和五十一年七月二日に早世した。司馬遼太郎と同年生まれの松井勲の没年は五十三であった。・・・・・。

正岡忠三郎が七十四歳で死んだのは松井勲の死の二カ月後、昭和五十一年九月十日であった。西沢隆二は、正岡忠三郎の死の八日後、七十三歳で死んだ。・・・。

(略)

司馬遼太郎が死んだのは西沢隆二の死の二十年後の平成八年(一九九六)二月、七十二歳であった。」

(関川夏央、前掲書)


つづく


「テスラ買うな」全米でデモ イーロン・マスク氏の政治発言に抗議(日経); 連邦職員の削減策やドイツ極右政党をマスク氏が支持したことに反発。最近の調査でアメリカ人の半数以上がマスク氏に否定的な見方をしています。

 

2025年2月27日木曜日

横浜(南区) 平戸永谷川プロムナードの河津桜 全体評価は2分咲きくらいか? 但し、数ヶ所見頃もあり 2025-02-27

 2月27日(木)晴れ

横浜港南区、平戸永谷川プロムナードの河津桜。

全体的にはまだまだ見頃の状態ではないけれど(全体的な評価は、多分、二分咲きくらいか?)、下の写真にある数か所は十分鑑賞に値するレベルだった。

平戸永谷川プロムナードのうち、戸塚区側から環状2号沿いのヤマダデンキを過ぎたところまでの状況。

メジロ多数、ヒヨドリも多数。


















アップル 株主総会でDEIの廃止案を否決 多様性重視の姿勢強調(NHK);「保守系のシンクタンクがDEIの取り組みについて、「企業に訴訟や風評、財務面でのリスクをもたらす」として廃止すべきだとする株主提案を行いました。 これに対し、アップルは「すでに確立された法令順守のしくみがあり、企業の事業運営などの能力を不適切に制限しようとするものだ」として反対する考えを示し、採決の結果、この提案を否決したということです。」

EUは米国を「だますため」に設立された トランプ氏(afpbb);「欧州連合(EU)は米国を「だます」ために設立されたとの認識を示し、新たな関税の詳細を説明する中で、長年の米国のパートナーであるEUに対する敵意をあらわにした。」    

 

アメリカ連邦下院議会でクロケット議員(民主党)が共和党議員たちに「『ロシアがウクライナを侵略したんですよ』少なくともその点だけ同意できませんか? 事実が大事です。ロシアがウクライナを侵略したと言える勇気ある人は?」共和党、沈黙。トランプに逆らえない。 / リンチ議員(民主党)が共和党議員に呼びかけた「大統領が『ウクライナが戦争を始めた』と言っている……手を挙げて『いいえ、大統領、それは嘘です。誤りです』と言える共和党員はいないんですか」        

 

共和党のマーク・アルフォード下院議員が、トランプにクビを切られて激怒する元連邦職員の有権者たちに「神には計画があります。あなた方もすぐに次の仕事を見つけて家族を養うことができるはずです」と語ってなだめようとしている。

大杉栄とその時代年表(419) 〈子規没後の子規山脈④〉 「ともかく子規遺品は一度著作権継承者正岡忠三郎のものとなったのち、まとめて国会図書館に寄贈された。ひきつづき保存会の所有となった子規庵は、昭和二十七年十二月、東京都の文化史蹟に指定され、鼠骨没後の維持が約束された。鼠骨の努力は無とならなかったのである。 昭和二十八年早春、もはや自力では歩けない鼠骨は、車に乗せてもらい、子規、八重、律が眠る田端の天竜寺を訪れた。これを最後の外出とした鼠骨が八十歳で死んだのは、昭和二十九年八月十八日であった。」(関川夏央、前掲書)

 


大杉栄とその時代年表(418) 〈子規没後の子規山脈③〉 「御互の世は御互に物騒になった。物騒の極子規はとうとう骨になった。その骨も今は腐れつつある。子規の骨が腐れつつある今日に至って、よもや、漱石が教師をやめて新聞屋になろうとは思わなかったろう。漱石が教師をやめて、寒い京都へ遊びに来たと聞いたら、円山へ登った時を思い出しはせぬかと云うだろう。新聞屋になって、糺の森の奥に、哲学者と、禅居士と、若い坊主頭と、古い坊主頭と、いっしょに、ひっそり閑と暮しておると聞いたら、それはと驚くだろう。やっぱり気取っているんだと冷笑するかも知れぬ。子規は冷笑が好きな男であった。」(漱石「京に着ける夕」) より続く


〈子規没後の子規山脈④〉

□伊藤左千夫

「子規の短歌の仕事を受継いだ伊藤左千夫の身辺も変転した。

左千夫は明治三十六年六月、歌謡「馬酔木」を創刊したが、四十一年一月をもって廃刊した。この時期の左千夫は小説に集中し、また急速に仏教に傾斜した。明治三十八年九月からは子規の命日につどう「十九日会」をつくつたが、それは歌会ではなく、趣味と信仰を語りあう会であった。

「馬酔木」廃刊の翌月からは歌誌「アカネ」が三井甲之(こうし)を中心に発刊された。

三井甲之は子規のもっとも晩年の弟子で、子規が没したときは十九歳、まだ東京帝大国文科の学生であった。左千夫が、自分の見込んだ甲之と間もなく疎遠となったのは、左千夫が鴎外主宰の観潮楼歌会に招かれ、かつて子規と対立した与謝野鉄幹、佐佐木信綱と同席したことを甲之が「アカネ」誌上ではげしく攻撃したためであった。

甲之と「アカネ」を見限った左千夫は、下総に帰った子規門の蕨真が明治四十一年十月に創刊した「阿羅々木」に加わり、明治四十二年秋には発行元を東京の左千夫宅に移して「アララギ」と改名した。子規門でこの雑誌に残ったのは、左千夫、蕨真、長塚節、森田義郎だけであった。しかしやがて島木赤彦、斎藤茂吉、古泉千樫(ちから)、中村憲吉、土屋文明ら、有望な若い歌人たちがつどった。

左千夫自身の歌は、搾乳業が壊滅的打撃を受けた明治四十三年八月の大洪水や、あいつぐ近親の不幸に見舞われた末に、晩年悲愁の色を濃くしてゆく。」(関川夏央、前掲書)


□新聞「日本」

「この間、子規の故郷というべき新聞「日本」も事実上消滅している。

子規の死の翌年、明治三十六年六月から三十七年一月までヨーロッパ視察旅行に出た陸羯南は、その旅途結核を発病した。弱小ながら政論紙の立場を崩さなかった「日本」だが、日露戦争前後からさらに売行が落ちたうえに自らも病床について万策尽きた感のある羯南は、明治三十九年六月、新聞を売却した。

だが、新社主の編集方針に強く反発した社員らは、明治三十九年十二月、連袂退社、明治四十年一月、三宅雪嶺が主宰し、南方熊楠が常連執筆者であった雑誌「日本人」に合流、誌名を「日本及日本人」と改めた。羯南はその年の九月、鎌倉で死んだ。五十歳であった。」(関川夏央、前掲書)


□子規庵保存会

「三十三歳から共立女子職業学校で三年間学んで母校の事務員となり、ついで本科の裁縫教員となっていた正岡律は、明治四十四年には四十一歳になっていた。

子規死後も正岡家には「ホトトギス」から月十円の援助がつづけられ、さらに子規旧友十人が一円ずつ拠出して月に十円、これと律の給料が子規遺族の暮らしを支えていた。だが、不景気なのに物価は上昇する日露戦争後の社会で、暮らしは楽ではない。律は、これ以上は子規庵を維持しかねるから東京をたたんで松山へ帰ろうかと思う、と鼠骨に相談をかけた。

明治四十四年八月四日、鼠骨が発案した江戸川べりでの旧友の会合には、子規十年忌を前に、子規庵と子規遺族のために善後策を練る狙いがあった。」(関川夏央、前掲書)


「明治四十四年(一九一一)は子規没後九年である。

その年の八月四日、子規旧知の者たちが親睦と相談を兼ねての納涼会を催した。行先は東京郊外葛飾、江戸川に面した柴又の旗亭川甚で、肝煎の寒川鼠骨が声をかけたのは、内藤鳴雪、中村不折、伊藤左千夫、五百木飄亭、坂本四方太、河東碧梧桐、高浜虚子、香取秀真の八人であった。

しかし、あいにくその日は朝から強い風雨の悪天候だ。・・・・・この時期、鼠骨は子規庵に近い上根岸の、かつて浅井忠のアトリエだった家に住まいしていた。浅井忠はすでに明治四十年十二月、五十一歳で死んでいる。・・・・・

午前十時、虚子がずぶ濡れの姿で鼠骨宅にきた。・・・・・

このとき鼠骨も虚子も師匠の年齢を追い越して、三十七歳の男盛りである。ふたりで子規没後のあれこれを語りながらビールを飲むうち、左千夫がきた。子規より年長であった左千夫は四十七歳、長老格鳴雪の六十四歳につぐ年かさである。

雨が小やみになったので左千夫が不折を迎えに行き、鼠骨と虚子は、これも近くに住む碧梧桐宅へ行った。連れ立って日暮里駅へ向かう碧虚両人の、わだかまりなく談笑する姿が鼠骨にはうれしい。

というのは、子規没後一年の明治三十六年、碧梧桐の「温泉百句」を虚子が批判していたからだ。それまでは雑誌の編集方針をめぐっての違和であったが、俳句そのものも相容れぬことを示した最初の事件であった。」(関川夏央、前掲書)


「・・・子規庵を捨てて、律と八重が松山に帰るのを可とする説は、やはり出なかった。・・・・・子規庵保存会設立の合意を見た。

保存会は川甚につどった九名を発起人とし、地主の前田家と交渉して土地を譲ってもらう、先方が応じない場合は近所に土地をもとめて旧庵と同形の家を新築して遺物をおさめ、家族に住んでもらうと決めた。

二千五百円内外と見込んだ経費は、寄附を広くつのって当てることとした。一口一円、十円以上の寄附者には「俳句分類」の肉筆稿一枚進呈する。・・・・・

「ホトトギス」誌上に告知した寄附金は順調に集った。歌碑建立を目的としたそれ以前の寄附分を繰り入れると三千円に達した。

飄亭が、かねがね親交のあった近衛家に前田家との仲介を頼み、鳴雪と碧梧桐が前田家家令と交渉した。しかし前田家は明治四十五年夏、根岸一帯は祖先伝来の土地であるから一部分でも売却はできない、と回答してきた。ただし土地は永久貸与するとした。

保存会は寄附金を銀行預金して基金とし、その利子分月十四円五十銭を遺族への補助にまわすことにした。以後、子規庵保存と遭族の心配は、鼠骨の担当となった。」(関川夏央、前掲書)

「大正十二年二月十三日、子規旧友が日本橋亀島町の料亭に集った。死んだ左千夫、四方太にかわって、紅緑、中村楽天、佐藤肋骨が加わって十人、肋骨は日清戦争で負傷、隻脚(せつきやく)となったがのちに陸軍少将となる人である。

このときの話題の中心は、やはり正岡家の経済であった。律が共立の教職を前年に退いたのは、老齢の八重を置いて外出できなくなったからである。律は家で裁縫塾をひらいて暮らしを立てるというが、それでは不足だ。そこで旧友会一同が一人毎月五円ずつ援助することに決した。ただし、楽天のみが貧窮を理由にはずれた。

九人分で月に四十五円、虚子の「ホトトギス」からの十円を加えると五十五円になるが、時は第一次世界大戦バブル経済後の物価高である。現在の価値にして二十万円以下では、律の裁縫塾の月謝を加えても苦しい。

それから半年余りのち、関東大震災が襲った。子規庵は倒壊・焼失を免れた。だがなにしろ三十年あまり前に移築した古家である、だいぶガタがきた。旧友会の面々もみな大小の被害をこうむり、申し合わせた援助金を出すのがむずかしくなった。鼠骨は会にはかって、それまでの月ごとの利子分に加え、月四十円を基本金から取崩して援助することにした。

だがこの年末、事態は大きくかわる。前田家が根岸の土地すべてを売却して駒場に移ることになったのである。

永代貸与の約定は反古にされた。子規庵を買うなら、棟つづさの隣家とその土地も買わなくてはならない。前田家との交渉に肋骨があたった結果、古家の代金は免除となったが、隣家立退料千二百円は避けられない。その分は近衛家の若当主文麿に援助してもらう話を鼠骨がつけた。だが土地は全部で百坪、一万二千六百円という。

その資金を捻出する手段は、多く子規遺稿に頼った。「俳句分類」の原稿がまだ六十枚ほど残っていたので、表装したものを一枚五十五円で頒布した。法隆寺「柿くへば」の歌碑拓本を五円、秀真作の銅印を二円から十円で売りに出すとよく売れ、合計六千円になった。これに子規庵保存会基金を崩して加えた。

不足分は震災前から話のあった『子規全集』十五巻の印税を一時保存会が借用して埋めることにしたのは、出版界の隆盛が幸いしたのである。全集編集委員には碧梧桐、虚子、秀真、鼠骨の四人が名を運ねたが、実務作業は鼠骨と若い宵曲(しようきよく)柴田泰助が献身的に行った。

・・・・・柴田宵曲は、このとき二十七歳であった。同年夏から鼠骨が主宰した榎本其角「五元集」輪講につらなって記録をとり、その誠実な仕事ぶりが見込まれた。この席で宵曲は二十七歳年長の三田村鳶魚(えんぎよ)を知り、昭和二十七年(一九五二)、鳶魚が八十二歳で没するまで彼の江戸風俗研究の仕事に並みなみならぬ力を貸す。その生前を知らぬ弟子として子規山脈に連なった宵曲は、後半生を子規の文業整理にささげることになった。"

やがて戦争。

米軍機による大空襲で子規庵が全焼したのは昭和二十年三月十日未明であった。鼠骨の住む家も焼亡したが、大金を投じて頑丈に建てた子規資料のための保存庫だけは焼け残った。しかしすぐに扉を開くと高温の内部に新鮮な空気が供給されて発火する。六日待ってあけてみると内部も無事であった。

焼け出された鼠骨は、その日子規庵そばの書道美術館に移った。それは中村不折旧居である。あの戦闘的なまでに元気のよかった不折も、最後は帝国芸術院会員となって、昭和十八年六月、七十七歳で死んでいた。

昭和二十一年九月、鼠骨は保存庫の前に六畳と三畳だけの簡易住宅を建てる。盗難を心配したのである。子規庵を旧のごとく再建する工事は昭和二十四年九月にはじまり、翌年六月に完成した。その費用は、改造社販『子規選集』六巻の印税からまかなわれた。このとき鼠骨、七十六歳。

昭和二十五年はじめ、正岡忠三郎が鼠骨を訪ねてきた。すでに四十七歳となっていた忠三郎は、『仰臥漫録』ほか、子規の自筆稿が古書市場に流出した事情を質しにきたのである。話合いはこじれ、忠三郎は鼠骨を告訴する。しかし子規の著作権切れまで残すところ一年の昭和二十六年夏、和解に至る。

問題は子規庵再建費用の捻出にあったようだ。・・・・・

ともかく子規遺品は一度著作権継承者正岡忠三郎のものとなったのち、まとめて国会図書館に寄贈された。ひきつづき保存会の所有となった子規庵は、昭和二十七年十二月、東京都の文化史蹟に指定され、鼠骨没後の維持が約束された。鼠骨の努力は無とならなかったのである。

昭和二十八年早春、もはや自力では歩けない鼠骨は、車に乗せてもらい、子規、八重、律が眠る田端の天竜寺を訪れた。これを最後の外出とした鼠骨が八十歳で死んだのは、昭和二十九年八月十八日であった。」(関川夏央、前掲書)


つづく


横浜、大倉山公園梅林の梅が満開 2025-02-26

2月26日(水)晴れ

横浜、大倉山公園梅林の梅が満開。
ここには、46種類、約220本の梅の木があるとのこと。

お目当ての紅枝垂れのボリュームが少なく、残念だった。今年は、去年より花の数が少ないねという人がいたり、まだまだこれからどんどん増えるんだという人がいたりで、よく分からない。

ざっくりとした印象でやや無責任だが、全体的に老木が必死に頑張って咲いているという感じが強い。 












2025年2月26日水曜日

「ヘイト本」置かない書店の最終章 清風堂書店で2代が記した足跡(朝日 有料記事);《「本屋はそれ自体がメディアの一つ。平積みしているだけで良い本、信頼できる情報だと思ってもらえる」》 《不確かな情報すら急速に拡大する世の中だからこそ書店の役割がある、とも感じる》

「閲覧注意!」レベル(イスラエルが殺害したパレスチナの人々への冒涜!吐き気がする) ⇒ トランプ大統領、AI生成のガザ動画をシェア...リゾート地化された「トランプ・ガザ」ホテルが登場(ニューズウィーク日本版); <ドナルド・トランプ氏が、ガザ地区をリゾート風の観光地として再建し、「トランプ・ガザ」ホテルが立ち並ぶ様子を描いた動画をオンラインでシェアした> / トランプ氏のSNSにガザの未来予想映像 自身の金色の巨大像(テレ朝) / 「ドナルド・トランが、ガザに対する彼のビジョンを描きだす常軌を逸したAI生成ビデオを公開。そこには、イーロン・マスク、ネタニヤフ、そして彼自身が出演している」



 

大統領取材できるのは選ばれたメディアだけ 米ホワイトハウスが慣行を変更(AFPBB) / AP通信と対立のトランプ政権 他の大手メディアとも対決姿勢 大統領の代表取材「政権側が指名」 保守系動画配信者やポッドキャスターなど念頭か(TBS);「何十年もの間、ワシントンを拠点とする記者によるホワイトハウス記者会が、大統領に質問できる記者を決める権限を独占してきました。今後、大統領に代表取材する記者はホワイトハウスの報道担当が決定します」  

 

関西生コン訴訟、前執行委員長ら2人に無罪判決 京都地裁「恐喝行為あったと言えない」(京都新聞) / 関西生コン、労組幹部らに無罪 京都地裁、会社組合への恐喝罪(共同)    

トランプ氏、米永住権「ゴールドカード」構想 500万ドル支払いで(朝日); トランプ米大統領は25日、500万ドル(約7億5千万円)を支払えば、米国の永住権を得られる「ゴールドカード」の発行を始める考えを明らかにした。

マスク氏の政府効率化省職員3分の1が辞職、改革に抗議(AFPBB) / イーロン・マスク氏率いる「政府効率化省」所属の職員21人、政府の取り組みに抗議し辞職(日テレ);「辞表には、「自分たちの専門的な技術が、重要な公共サービスを解体するために使われることを拒否する」などと記載されていたということです」

リベラルニュース局MSNBC、人気キャスターのジョイ・リードをいきなり解雇。週末番組のマイノリティ・キャスターたち(黒人、アジア系)も切られたらしい。 / あのNBCですらこうなることに驚愕。とはいえ解雇されたキャスターが最終回に「民主主義の危機にどう抗うか」と銘打って堂々放送できるところがやはり米国。現場スタッフ皆で闘ってるのだろう。個々人の民主主義フィジカルが強い。

 

大杉栄とその時代年表(418) 〈子規没後の子規山脈③〉 「御互の世は御互に物騒になった。物騒の極子規はとうとう骨になった。その骨も今は腐れつつある。子規の骨が腐れつつある今日に至って、よもや、漱石が教師をやめて新聞屋になろうとは思わなかったろう。漱石が教師をやめて、寒い京都へ遊びに来たと聞いたら、円山へ登った時を思い出しはせぬかと云うだろう。新聞屋になって、糺の森の奥に、哲学者と、禅居士と、若い坊主頭と、古い坊主頭と、いっしょに、ひっそり閑と暮しておると聞いたら、それはと驚くだろう。やっぱり気取っているんだと冷笑するかも知れぬ。子規は冷笑が好きな男であった。」(漱石「京に着ける夕」)  

 

河東碧梧桐

大杉栄とその時代年表(417) 〈子規没後の子規山脈②〉 「次に其男がこんな事を云ひ出した。子規は果物が大変好きだった。且ついくらでも食へる男だった。ある時大きな樽柿を十六食った事がある。それで何ともなかった。自分杯は到底子規の真似は出来ない。 - 三四郎は笑って聞いてゐた。けれども子規の話丈には興味がある様な気がした。」(漱石『三四郎』) より続く

〈子規没後の子規山脈③〉

□漱石「京に着ける夕」と子規との思い出


「明治四十年四月、朝日新聞社に入社した漱石は入社第一作ともいうべき「京に着ける夕」を四月九日から三日間、大阪朝日に連載した。おそらく新聞社から要請されたのは、一か月程遅れて東京朝日に掲載したような「入社の辞」であったにちがいない。しかし漱石の書いたのは「入社の辞」から程遠いエッセーであった。」(『子規断章』)


夏目漱石「京に着ける夕」(青空文庫)


始めて京都に来たのは十五六年の昔である。その時は正岡子規といっしょであった。麩屋町の柊屋(ひいらぎや)とか云う家へ着いて、子規と共に京都の夜を見物に出たとき、始めて余の目に映ったのは、この赤いぜんざいの大提灯である。この大提灯を見て、余は何故(なにゆえ)かこれが京都だなと感じたぎり、明治四十年の今日に至るまでけっして動かない。ぜんざいは京都で、京都はぜんざいであるとは余が当時に受けた第一印象でまた最後の印象である。子規は死んだ。余はいまだに、ぜんざいを食った事がない。実はぜんざいの何物たるかをさえ弁(わきま)えぬ。汁粉(しるこ)であるか煮小豆(ゆであずき)であるか眼前に髣髴する材料もないのに、あの赤い下品な肉太な字を見ると、京都を稲妻の迅(すみや)かなる閃(ひらめ)きのうちに思い出す。同時に――ああ子規は死んでしまった。糸瓜(へちま)のごとく干枯(ひから)びて死んでしまった。――提灯はいまだに暗い軒下にぶらぶらしている。余は寒い首を縮ちぢめて京都を南から北へ抜ける。

 (略)

 子規と来たときはかように寒くはなかった。子規はセル、余はフランネルの制服を着て得意に人通りの多い所を歩行(ある)いた事を記憶している。その時子規はどこからか夏蜜柑を買うて来て、これを一つ食えと云って余に渡した。余は夏蜜柑の皮を剥むいて、一房ひとふさごとに裂いては噛かみ、裂いては噛んで、あてどもなくさまようていると、いつの間まにやら幅一間ぐらいの小路(しょうじに)出た。この小路の左右に並ぶ家には門並(かどなみ)方一尺ばかりの穴を戸にあけてある。そうしてその穴の中から、もしもしと云う声がする。始めは偶然だと思うていたが行くほどに、穴のあるほどに、申し合せたように、左右の穴からもしもしと云う。知らぬ顔をして行き過ぎると穴から手を出して捕えそうに烈しい呼び方をする。子規を顧りみて何だと聞くと妓楼だと答えた。余は夏蜜柑を食いながら、目分量で一間幅の道路を中央から等分して、その等分した線の上を、綱渡りをする気分で、不偏不党に練って行った。穴から手を出して制服の尻でも捕まえられては容易ならんと思ったからである。子規は笑っていた。膝掛をとられて顫ふるえている今の余を見たら、子規はまた笑うであろう。しかし死んだものは笑いたくても、顫えているものは笑われたくても、相談にはならん。

 (略)

 子規と来て、ぜんざいと京都を同じものと思ったのはもう十五六年の昔になる。夏の夜よの月円(まる)きに乗じて、清水の堂を徘徊して、明(あきら)かならぬ夜の色をゆかしきもののように、遠く眼(まなこ)を微茫(びぼう)の底に放って、幾点の紅灯(こうとう)に夢のごとく柔やわらかなる空想を縦(ほしい)ままに酔(え)わしめたるは、制服の釦の真鍮と知りつつも、黄金と強いたる時代である。真鍮は真鍮と悟ったとき、われらは制服を捨てて赤裸(まるはだか)のまま世の中へ飛び出した。子規は血を嘔(は)いて新聞屋となる、余は尻を端折(はしょ)って西国へ出奔する。御互の世は御互に物騒になった。物騒の極(きよく)子規はとうとう骨になった。その骨も今は腐れつつある。子規の骨が腐れつつある今日に至って、よもや、漱石が教師をやめて新聞屋になろうとは思わなかったろう。漱石が教師をやめて、寒い京都へ遊びに来たと聞いたら、円山へ登った時を思い出しはせぬかと云うだろう。新聞屋になって、糺(ただす)の森(もり)の奥に、哲学者と、禅居士と、若い坊主頭と、古い坊主頭と、いっしょに、ひっそり閑(かん)と暮しておると聞いたら、それはと驚くだろう。やっぱり気取っているんだと冷笑するかも知れぬ。子規は冷笑が好きな男であった。

(後略)」

□虚子と碧梧桐

子親没後、虚子が「ホトトギス」を受け継ぎ、碧梧桐は新聞「日本」の選者を継承した。この事が、虚子と碧梧桐の俳句上の対立の元となったといわれる事があるが、妥当な棲み分けであった。「ホトトギス」は、虚子が子規と図って兄に資金援助を乞い松山から東京に移したものだ。一方、碧梧桐は明治二十八年、子規の日清戦争従軍中「日本」俳句欄の代選をしており、一時は日本新聞社の記者だったこともある。・・・

(略)

ところで虚子と碧梧桐の対立は周知のように、


温泉の宿に馬の子飼へり蝿の声


など「温泉百旬」を碧梧桐が明治三十六年九月の「ホトトギス」に発表しだのに対して、虚子が翌月号で《「馬の子」といぶとむしろ可愛らしく無邪気な感じがして「蝿の声」の調和が悪い》と批評したのに端を発している。この二人の「温泉百句」論争は日本の俳壇史に残る程有名なもので諸説紛々だが、加藤加藤楸邨いうように《この碧虚の論争そのものはさしたることでなさそうに見えるが、子規没後の俳句界が、中軸をなす支えを失って、大きく碧・虚二派に分れてゆく契機をなすものと言ってよい》(『日本の詩歌』)というあたりが妥当な評価であろう。

やがて碧梧桐は小沢碧童、大須賀乙字らと句会「俳三昧」を起こして碧派を作り、明治三十九年からは大規模ないわゆる全国三千里の旅を企て、新傾向俳句運動を推し進める。一方、虚子は「ホトトギス」発刊十周年を迎えた明治四十年から、漱石の刺戦もあり創作活動に力を入れ、「風流戯法」「斑鳩物語」「俳譜師」「続俳譜師」などを次々に世に問うのである。

ところで俳壇に大旋風を巻き起こした新傾向俳句も、荻原井泉水の離脱などがあって次第に分裂、対立を繰り返すようになった。虚子はここ数年、小説家としての活動が忙しく、国民新聞や毎日新聞の読者を喜ばせたが、肝心の「ホトトギス」の方は部数が減るばかりである。そこで虚子は意を決して、小説よりも俳句に力を注ぐことにし、明治四十五年(大正元年)七月から雑詠欄を再開した。・・・

(略)

・・・やがて新傾向俳句も凋落し俳壇を引退した碧梧桐は失意のうちに、腸チフスのため昭和十二年一百一日、六十五歳で急逝した。」(『子規断章』)

「(虚子と)碧梧桐とは俳句の立場での対立は終生解けぬままだったが、日常の交際までいっさい絶ったわけではない。・・・・・

大正五年に『碧梧桐句集』を出す時には虚子は自分の経営する俳書堂から出しているし、大正六年、内藤鳴雪の古希祝賀能が催された時は「自然居士」で虚子がシテ、碧梧桐がワキと仲よく演じている。碧梧桐も昭和十一年に虚子がヨーロッパに外遊する時には横浜港まで見送って、虚子に外遊中の注意をこまごま与えた。碧梧桐は大正九年末から一年ほどかけてヨーロッパ、アメリカを回っているので外遊については先輩だった。また子規の三十三回忌では、碧梧桐は虚子を立てて自分より先に焼香させるという気くばりも忘れなかった。

子沢山だった虚子に較べて、碧梧桐は子宝に恵まれず義兄、青木月斗の三女美夫子を養女に迎えたが女学校時代に亡くすなど、家庭的には不幸だった。また俳句の世界でも一時は新傾向俳句を率いて時代の寵児となったが、やがて凋落し昭和七年には六十歳で俳壇を引退するなど、決して幸福とはいえなかった。

しかし没する前年の昭和十一年十二月には、昔の門弟たちの援助もあって念願の自分の家を持つことができた。その喜びも束の間、翌年一月二十二日、新居披露の祝宴を盛大におこなった翌日、腸チフスにかかり入院、三十日には危篤に陥った。このことをラジオのニュースで知った虚子はただちに病院へ駆けつけた。まだ意識があって、ふたことみこと言葉を交わすことができたが、翌二月一日、碧梧桐は六十五歳の生涯を閉じた。

虚子は三月発行の「ホトトギス」に、「碧棺桶とはよく親しみよく争ひたり」と前書きして、

たとふれば独楽のはぢける如くなり

と詠んでその死を悼んだ。」(『子規断章』)

「ところで虚子に文化勲章が授与されたのは昭和二十九年十一月三日、八十歳の時であった。これは昭和十二年に新たに創設された芸術院会員に推されたとはいえ、虚子の成し遂げた業績からいっていささか遅過ぎた感がないでもない。同じ十二年に創設された文化勲章も既に十七年もたち、歌人では佐佐木信綱、斎藤茂吉、詩人では土井晩翠が受章しているのに、俳人からは一人も受章者が出ていない。・・・・・

(略)

虚子はこの受章に力づけられたかのように、翌昭和三十年四月から朝日新聞の「朝日俳壇」の選者となり、同時に「虚子俳話」の連載も開始した。現在の「朝日俳壇」は四人の選者による共選だが、虚子はひとりでおびただしい応募句の選をし句評も書いた。これは遥か以前に、子規が新聞「日本」でやっていた通りであった。

虚子が鎌倉の虚子庵で、脳幹出血がもとで八十五歳で浸したのは昭和三十四年四月八日午後四時である。それは子規没後五十七年後のことで、もはや生前の子規を知る者は極めて稀であった。」(『子規断章』)


つづく


2025年2月25日火曜日

江ノ島の河津桜が満開になった 飛び回るメジロ 江の島大橋からの富士山 咲き始めた大船駅前の玉縄桜 2025-02-25

2月25日(火)晴れ

江ノ島の河津桜が満開になった。

三浦海岸とか大崎公園とかも満開・見頃の便りがようやく届くようになってきた。

大船駅前の玉縄桜も、こちらも、ようやく咲き始めた。

鎌倉、若宮大路の玉縄桜も咲き始めたようだ。

例年よりも2~3週間の遅れではないでしょうか。





▼数えきれないほどのメジロが飛び回っていた。
時々、ヒヨドリが意地悪をして追い回すけれど、多勢に無勢の有様だった。



▼江島神社



▼江の島大橋から片瀬漁港越しに富士山

▼咲き始めた大船駅前の玉縄桜