2025年2月27日木曜日

大杉栄とその時代年表(419) 〈子規没後の子規山脈④〉 「ともかく子規遺品は一度著作権継承者正岡忠三郎のものとなったのち、まとめて国会図書館に寄贈された。ひきつづき保存会の所有となった子規庵は、昭和二十七年十二月、東京都の文化史蹟に指定され、鼠骨没後の維持が約束された。鼠骨の努力は無とならなかったのである。 昭和二十八年早春、もはや自力では歩けない鼠骨は、車に乗せてもらい、子規、八重、律が眠る田端の天竜寺を訪れた。これを最後の外出とした鼠骨が八十歳で死んだのは、昭和二十九年八月十八日であった。」(関川夏央、前掲書)

 


大杉栄とその時代年表(418) 〈子規没後の子規山脈③〉 「御互の世は御互に物騒になった。物騒の極子規はとうとう骨になった。その骨も今は腐れつつある。子規の骨が腐れつつある今日に至って、よもや、漱石が教師をやめて新聞屋になろうとは思わなかったろう。漱石が教師をやめて、寒い京都へ遊びに来たと聞いたら、円山へ登った時を思い出しはせぬかと云うだろう。新聞屋になって、糺の森の奥に、哲学者と、禅居士と、若い坊主頭と、古い坊主頭と、いっしょに、ひっそり閑と暮しておると聞いたら、それはと驚くだろう。やっぱり気取っているんだと冷笑するかも知れぬ。子規は冷笑が好きな男であった。」(漱石「京に着ける夕」) より続く


〈子規没後の子規山脈④〉

□伊藤左千夫

「子規の短歌の仕事を受継いだ伊藤左千夫の身辺も変転した。

左千夫は明治三十六年六月、歌謡「馬酔木」を創刊したが、四十一年一月をもって廃刊した。この時期の左千夫は小説に集中し、また急速に仏教に傾斜した。明治三十八年九月からは子規の命日につどう「十九日会」をつくつたが、それは歌会ではなく、趣味と信仰を語りあう会であった。

「馬酔木」廃刊の翌月からは歌誌「アカネ」が三井甲之(こうし)を中心に発刊された。

三井甲之は子規のもっとも晩年の弟子で、子規が没したときは十九歳、まだ東京帝大国文科の学生であった。左千夫が、自分の見込んだ甲之と間もなく疎遠となったのは、左千夫が鴎外主宰の観潮楼歌会に招かれ、かつて子規と対立した与謝野鉄幹、佐佐木信綱と同席したことを甲之が「アカネ」誌上ではげしく攻撃したためであった。

甲之と「アカネ」を見限った左千夫は、下総に帰った子規門の蕨真が明治四十一年十月に創刊した「阿羅々木」に加わり、明治四十二年秋には発行元を東京の左千夫宅に移して「アララギ」と改名した。子規門でこの雑誌に残ったのは、左千夫、蕨真、長塚節、森田義郎だけであった。しかしやがて島木赤彦、斎藤茂吉、古泉千樫(ちから)、中村憲吉、土屋文明ら、有望な若い歌人たちがつどった。

左千夫自身の歌は、搾乳業が壊滅的打撃を受けた明治四十三年八月の大洪水や、あいつぐ近親の不幸に見舞われた末に、晩年悲愁の色を濃くしてゆく。」(関川夏央、前掲書)


□新聞「日本」

「この間、子規の故郷というべき新聞「日本」も事実上消滅している。

子規の死の翌年、明治三十六年六月から三十七年一月までヨーロッパ視察旅行に出た陸羯南は、その旅途結核を発病した。弱小ながら政論紙の立場を崩さなかった「日本」だが、日露戦争前後からさらに売行が落ちたうえに自らも病床について万策尽きた感のある羯南は、明治三十九年六月、新聞を売却した。

だが、新社主の編集方針に強く反発した社員らは、明治三十九年十二月、連袂退社、明治四十年一月、三宅雪嶺が主宰し、南方熊楠が常連執筆者であった雑誌「日本人」に合流、誌名を「日本及日本人」と改めた。羯南はその年の九月、鎌倉で死んだ。五十歳であった。」(関川夏央、前掲書)


□子規庵保存会

「三十三歳から共立女子職業学校で三年間学んで母校の事務員となり、ついで本科の裁縫教員となっていた正岡律は、明治四十四年には四十一歳になっていた。

子規死後も正岡家には「ホトトギス」から月十円の援助がつづけられ、さらに子規旧友十人が一円ずつ拠出して月に十円、これと律の給料が子規遺族の暮らしを支えていた。だが、不景気なのに物価は上昇する日露戦争後の社会で、暮らしは楽ではない。律は、これ以上は子規庵を維持しかねるから東京をたたんで松山へ帰ろうかと思う、と鼠骨に相談をかけた。

明治四十四年八月四日、鼠骨が発案した江戸川べりでの旧友の会合には、子規十年忌を前に、子規庵と子規遺族のために善後策を練る狙いがあった。」(関川夏央、前掲書)


「明治四十四年(一九一一)は子規没後九年である。

その年の八月四日、子規旧知の者たちが親睦と相談を兼ねての納涼会を催した。行先は東京郊外葛飾、江戸川に面した柴又の旗亭川甚で、肝煎の寒川鼠骨が声をかけたのは、内藤鳴雪、中村不折、伊藤左千夫、五百木飄亭、坂本四方太、河東碧梧桐、高浜虚子、香取秀真の八人であった。

しかし、あいにくその日は朝から強い風雨の悪天候だ。・・・・・この時期、鼠骨は子規庵に近い上根岸の、かつて浅井忠のアトリエだった家に住まいしていた。浅井忠はすでに明治四十年十二月、五十一歳で死んでいる。・・・・・

午前十時、虚子がずぶ濡れの姿で鼠骨宅にきた。・・・・・

このとき鼠骨も虚子も師匠の年齢を追い越して、三十七歳の男盛りである。ふたりで子規没後のあれこれを語りながらビールを飲むうち、左千夫がきた。子規より年長であった左千夫は四十七歳、長老格鳴雪の六十四歳につぐ年かさである。

雨が小やみになったので左千夫が不折を迎えに行き、鼠骨と虚子は、これも近くに住む碧梧桐宅へ行った。連れ立って日暮里駅へ向かう碧虚両人の、わだかまりなく談笑する姿が鼠骨にはうれしい。

というのは、子規没後一年の明治三十六年、碧梧桐の「温泉百句」を虚子が批判していたからだ。それまでは雑誌の編集方針をめぐっての違和であったが、俳句そのものも相容れぬことを示した最初の事件であった。」(関川夏央、前掲書)


「・・・子規庵を捨てて、律と八重が松山に帰るのを可とする説は、やはり出なかった。・・・・・子規庵保存会設立の合意を見た。

保存会は川甚につどった九名を発起人とし、地主の前田家と交渉して土地を譲ってもらう、先方が応じない場合は近所に土地をもとめて旧庵と同形の家を新築して遺物をおさめ、家族に住んでもらうと決めた。

二千五百円内外と見込んだ経費は、寄附を広くつのって当てることとした。一口一円、十円以上の寄附者には「俳句分類」の肉筆稿一枚進呈する。・・・・・

「ホトトギス」誌上に告知した寄附金は順調に集った。歌碑建立を目的としたそれ以前の寄附分を繰り入れると三千円に達した。

飄亭が、かねがね親交のあった近衛家に前田家との仲介を頼み、鳴雪と碧梧桐が前田家家令と交渉した。しかし前田家は明治四十五年夏、根岸一帯は祖先伝来の土地であるから一部分でも売却はできない、と回答してきた。ただし土地は永久貸与するとした。

保存会は寄附金を銀行預金して基金とし、その利子分月十四円五十銭を遺族への補助にまわすことにした。以後、子規庵保存と遭族の心配は、鼠骨の担当となった。」(関川夏央、前掲書)

「大正十二年二月十三日、子規旧友が日本橋亀島町の料亭に集った。死んだ左千夫、四方太にかわって、紅緑、中村楽天、佐藤肋骨が加わって十人、肋骨は日清戦争で負傷、隻脚(せつきやく)となったがのちに陸軍少将となる人である。

このときの話題の中心は、やはり正岡家の経済であった。律が共立の教職を前年に退いたのは、老齢の八重を置いて外出できなくなったからである。律は家で裁縫塾をひらいて暮らしを立てるというが、それでは不足だ。そこで旧友会一同が一人毎月五円ずつ援助することに決した。ただし、楽天のみが貧窮を理由にはずれた。

九人分で月に四十五円、虚子の「ホトトギス」からの十円を加えると五十五円になるが、時は第一次世界大戦バブル経済後の物価高である。現在の価値にして二十万円以下では、律の裁縫塾の月謝を加えても苦しい。

それから半年余りのち、関東大震災が襲った。子規庵は倒壊・焼失を免れた。だがなにしろ三十年あまり前に移築した古家である、だいぶガタがきた。旧友会の面々もみな大小の被害をこうむり、申し合わせた援助金を出すのがむずかしくなった。鼠骨は会にはかって、それまでの月ごとの利子分に加え、月四十円を基本金から取崩して援助することにした。

だがこの年末、事態は大きくかわる。前田家が根岸の土地すべてを売却して駒場に移ることになったのである。

永代貸与の約定は反古にされた。子規庵を買うなら、棟つづさの隣家とその土地も買わなくてはならない。前田家との交渉に肋骨があたった結果、古家の代金は免除となったが、隣家立退料千二百円は避けられない。その分は近衛家の若当主文麿に援助してもらう話を鼠骨がつけた。だが土地は全部で百坪、一万二千六百円という。

その資金を捻出する手段は、多く子規遺稿に頼った。「俳句分類」の原稿がまだ六十枚ほど残っていたので、表装したものを一枚五十五円で頒布した。法隆寺「柿くへば」の歌碑拓本を五円、秀真作の銅印を二円から十円で売りに出すとよく売れ、合計六千円になった。これに子規庵保存会基金を崩して加えた。

不足分は震災前から話のあった『子規全集』十五巻の印税を一時保存会が借用して埋めることにしたのは、出版界の隆盛が幸いしたのである。全集編集委員には碧梧桐、虚子、秀真、鼠骨の四人が名を運ねたが、実務作業は鼠骨と若い宵曲(しようきよく)柴田泰助が献身的に行った。

・・・・・柴田宵曲は、このとき二十七歳であった。同年夏から鼠骨が主宰した榎本其角「五元集」輪講につらなって記録をとり、その誠実な仕事ぶりが見込まれた。この席で宵曲は二十七歳年長の三田村鳶魚(えんぎよ)を知り、昭和二十七年(一九五二)、鳶魚が八十二歳で没するまで彼の江戸風俗研究の仕事に並みなみならぬ力を貸す。その生前を知らぬ弟子として子規山脈に連なった宵曲は、後半生を子規の文業整理にささげることになった。"

やがて戦争。

米軍機による大空襲で子規庵が全焼したのは昭和二十年三月十日未明であった。鼠骨の住む家も焼亡したが、大金を投じて頑丈に建てた子規資料のための保存庫だけは焼け残った。しかしすぐに扉を開くと高温の内部に新鮮な空気が供給されて発火する。六日待ってあけてみると内部も無事であった。

焼け出された鼠骨は、その日子規庵そばの書道美術館に移った。それは中村不折旧居である。あの戦闘的なまでに元気のよかった不折も、最後は帝国芸術院会員となって、昭和十八年六月、七十七歳で死んでいた。

昭和二十一年九月、鼠骨は保存庫の前に六畳と三畳だけの簡易住宅を建てる。盗難を心配したのである。子規庵を旧のごとく再建する工事は昭和二十四年九月にはじまり、翌年六月に完成した。その費用は、改造社販『子規選集』六巻の印税からまかなわれた。このとき鼠骨、七十六歳。

昭和二十五年はじめ、正岡忠三郎が鼠骨を訪ねてきた。すでに四十七歳となっていた忠三郎は、『仰臥漫録』ほか、子規の自筆稿が古書市場に流出した事情を質しにきたのである。話合いはこじれ、忠三郎は鼠骨を告訴する。しかし子規の著作権切れまで残すところ一年の昭和二十六年夏、和解に至る。

問題は子規庵再建費用の捻出にあったようだ。・・・・・

ともかく子規遺品は一度著作権継承者正岡忠三郎のものとなったのち、まとめて国会図書館に寄贈された。ひきつづき保存会の所有となった子規庵は、昭和二十七年十二月、東京都の文化史蹟に指定され、鼠骨没後の維持が約束された。鼠骨の努力は無とならなかったのである。

昭和二十八年早春、もはや自力では歩けない鼠骨は、車に乗せてもらい、子規、八重、律が眠る田端の天竜寺を訪れた。これを最後の外出とした鼠骨が八十歳で死んだのは、昭和二十九年八月十八日であった。」(関川夏央、前掲書)


つづく


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