〈子規没後の子規山脈⑤〉
□司馬遼太郎
「司馬遼太郎は昭和四十三年(一九六八)から四十七年にかけて、大作『坂の上の雲」を書いた。・・・・・司馬遼太郎は、明治的時代精神の代表的人物として、明るく多弁で、仕事を自分の命よりも尊重した感のある子規を好んだ。
『坂の上の雲』の仕事を通じて、司馬遼太郎は秋山真之らの子孫や、正岡律の養子に入った正岡忠三郎を知った。
さらに忠三郎の仙台の二高時代の友、西沢隆二(筆名・ぬやまひろし)と知り合い、奇妙な友情を結んだ。忠三郎は養母の律と距離を置きたくて、府立一中四年修了であえて二高へ進み、大学も東大ではなく京大を選んだ。卒業後、阪急に就職したのもおなじ理由であった。
西沢隆二は元共産党員、戦前から戦後まで獄中にあった人である。戦後、徳田球一の義理の娘と結婚、党中枢にありながら詩人として知られたが、やがて除名された。
その西沢隆二が、昭和四十四年、『正岡子規全集』の刊行を発想したのは、阪急を退職後、六十七歳のとき卒中に倒れて病床にあった正岡家の継承者である忠三郎の余命があるうちに、子規関係の仕事を残させたいと願ったからである。
西沢隆二は司馬遼太郎に相談した。だが、全集となると生半可な仕事ではない。編集・校訂だけで大事業である。司馬遼太郎は困惑した。しかし、さまざまな偶然が重なった結果、講談社がその事業を引き受けることになった。
全二十二巻別巻三巻と予定された浩瀚な、かつ大正十三年から昭和九年までに合計三度出た子規全集・子規選集の決定版ともいうべき講談社版全集の編集委員は、松山出身で「常盤会寄宿舎」初代監督の子息である服部嘉香、それに久保田正文、和田茂樹、蒲池文雄の四人であった。・・・・・
監修に名を連ねたのは、正岡忠三郎、ぬやまひろし、司馬遼太郎、大岡昇平の四人であった。大岡昇平は、詩人富永太郎の二高時代の親友として正岡忠三郎を知っていたのである。講談社側の責任編集者は松井勲であった。
広汎な資料収集、高度な校訂を経て、これ以上は望めないというレベルに達した講談社版『子規全集』の第一回配本(第十一巻、随筆一)は昭和五十年四月。翌月、編集委員の長老、服部嘉香が八十九歳で他界した。
西沢隆二をとまどわせるほど周到な仕事ぶりをしめした松井勲は、『子規全集』が十四冊まで刊行された昭和五十一年七月二日に早世した。司馬遼太郎と同年生まれの松井勲の没年は五十三であった。そのあとを引き継いだ編集者・駒井昭二は、松井勲が編集者の領域を超えて「研究者の領域に踏み込み」、その完全主義の精神をもって学者を助けた、というよりリードしつつ本をつくっていた、と回想した。
正岡忠三郎が七十四歳で死んだのは松井勲の死の二カ月後、昭和五十一年九月十日であった。西沢隆二は、正岡忠三郎の死の八日後、七十三歳で死んだ。まるで申し合わせたかのようであった。
司馬遼太郎は昭和五十六年、『ひとびとの跫音』という不思議な小説を刊行した。それは、子規関係者のその後の生の営みをえがいた静かな「歴史小説」であった。・・・・・
司馬遼太郎が死んだのは西沢隆二の死の二十年後の平成八年(一九九六)二月、七十二歳であった。」(関川夏央、前掲書)
□佐藤紅緑
「紅緑は十九歳の時、弘前中学校を四年で中退して郷党の先輩で遠縁に当たる羯南を頼って上京した。紅緑は後に子規から《敏捷にして馬の如し》(「明治二十九年の俳句界」)といわれたように奔放で波瀾に満ちた人生を送ることになる。新聞社も日本新聞社を振り出しに、五、六社を転々とし子親には心配のかけ通しで、よく叱られた。それでも紅緑は生涯子規を命の恩人として尊敬して、娘の愛子が父のことを書いた『花はくれないー小説佐藤紅緑』によると、話が子規のことに及ぶと先ず居住まいを正して、時には涙を浮かべながら語ったという。愛子は少女時代、行儀も悪く人の名は渾名で呼ぶか、それでなければ呼び捨てにしても平気な父が、子規のことになると「しきせんせい、しきせんせい」というのが不思議でならなかった。
これほど子規を慕っていた紅緑であったが、子規の臨終に立ち合うことは叶わなかった。ただ、九月十日の子規庵での最後の「蕪村句集」輪講会には、虚子、鳴雪、碧梧桐桶と共に出席できたのがせめてもの幸いだった。・・・
(略)
・・・子規が危篤の時、紅緑は東京にいて電報をくれていたら駆けつけることができたのにと思うと残念だった。しかしこれは紅緑が事情を知らなかったから出た愚痴で、その夜、当直だった虚子はもちろん、母八重も妹律でさえ、子規が息を引き取る瞬間には立ち会えなかったのである。
そうと分かると紅緑は葬儀万端を率先して助け、この終焉記をはじめその後何箱かの追想記を書いて子規を偲んでいる。
子規没後三十二年後の昭和九年九月、「日本及日本人」(子規居士三十三年記念号)にも紅緑は 「糸瓜棚の下にて」という思い出を書き最後に、
糸 瓜 息 や 墓 前 に 恥 る 事 多 し 紅緑
という句を添え子規に詫びた。
(略)
・・・紅緑が病床に臥すようになったのは、戦後の混乱も少し落ちつきかけた昭和二十四年の春先であった。前年の秋から虚子は戦後初の『定本虚子全集』全十二巻の刊行が創元社から始まったばかりで忙しい時だったが、その事を聞くとただちに長女真砂子を伴って紅線を見舞った。その日、紅緑は小康を得ていろいろ虚子と話ができ、涙を見せながら喜んだ。紅緑が七十六歳で没するのは、それから暫くたった六月三日のことであった。」(『子規断章』)
□物故者
「大正二年(一九二二)七月、左千夫が四十九歳で死んだ。大正四年二月には節、三十六歳。大正五年十二月には漱石が、まだ四十九歳の若さで死んだ。ついで六年五月、四方太、四十四歳。七年二月、秋山真之、五十歳。十一年七月、鴎外、六十歳。同年十月、蕨真、四十六歳。
(略)
加藤拓川が六十四歳で亡くなったのは大正十二年三月二十六日、子規没後二十一年である。」
「正岡八重が死んだのは昭和二年五月十二日、八十二歳、子規没後二十五年であった。」
「八重の死の前年、大正十五年二月には鳴雪が死んでいる。鳴雪は明治四十年、六十歳まで常盤会舎監をつとめ、あとを秋山真之の兄好古に託したのちは麻布笄(こうがい)町に自適して七十九歳で死んだ。碧梧桐と飄亭は、ともに昭和十二年に死んだ。碧梧桐六十四歳、飄亭六十六歳であった。中村楽天は昭和十四年、七十四歳で死んだ。
正岡律は昭和十六年五月二十四日に死んだ。子規没後三十九年、七十一歳であった。」
「あの戦闘的なまでに元気のよかった不折も、最後は帝国芸術院会員となって、昭和十八年六月、七十七歳で死んでいた。」
「昭和二十八年早春、もはや自力では歩けない鼠骨は、車に乗せてもらい、子規、八重、律が眠る田端の天竜寺を訪れた。これを最後の外出とした鼠骨が八十歳で死んだのは、昭和二十九年八月十八日であった。
・・・佐藤肋骨は戦中、昭和十九年、七十二歳で死んでいる。昭和戦前に少年小説の大家となった佐藤紅緑は、昭和二十四年、七十五歳で死んだ。・・・・・三井甲之は、昭和二十八年、七十歳で死に、美校教授となり文化勲章を受章した香取秀真は、鼠骨に先立つこと七カ月の昭和二十九年一月、八十歳で死んだ。
それより以前の昭和二十八年九月、折口信夫(釈超空)が六十六歳で死んでいる。」
「講談社版『子規全集』の第一回配本(第十一巻、随筆一)は昭和五十年四月。翌月、編集委員の長老、服部嘉香が八十九歳で他界した。
・・・松井勲は、『子規全集』が十四冊まで刊行された昭和五十一年七月二日に早世した。司馬遼太郎と同年生まれの松井勲の没年は五十三であった。・・・・・。
正岡忠三郎が七十四歳で死んだのは松井勲の死の二カ月後、昭和五十一年九月十日であった。西沢隆二は、正岡忠三郎の死の八日後、七十三歳で死んだ。・・・。
(略)
司馬遼太郎が死んだのは西沢隆二の死の二十年後の平成八年(一九九六)二月、七十二歳であった。」
(関川夏央、前掲書)
つづく
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