2026年1月23日金曜日

円相場 1ドル=159円台 日銀 植田総裁会見中 円売る動き加速(NHK)

 

衆院選で公認された自民「裏金議員」 不記載額、処分内容は?(朝日) / 「みそぎは済んだ」自民が裏金関与の37人公認 「政治とカネ」へのユルさに野党は「誠実さがない」と批判(東京) / 【リスト】衆院選で公認された自民党の「裏金議員(裏金候補)」選挙区別一覧 2026年:時事ドットコム  



 

高市政権の借金依存、石破政権と比べたら…「財政規律に配慮」と主張しながら国債発行額「6兆円」増えていた(東京) / 海外投資家、日本国債「100%売り」 財政不安と成長期待ない交ぜに(日経) / 日本国債急落、トレーディング現場は「狂乱」-財政懸念が突然広がる(Bloomberg) / 財政目標「25〜26年度に黒字」達成できず 政府試算、改善は高成長頼み(日経) / 海外投資家の「高市離れ」がはじまった…解散表明で「日本売り」を招いた高市首相の"危ない発言"(プレジデント) / ロイターが「日本の首相は自らが招いた財政の罠に陥っている」と報道 / 長期金利急騰、選挙前の高市氏に厳しい現実(WSJ); 本音はやる気のない減税ポピュリズムなのに、「世界的な債券売りに発展」 / バンガード運用責任者、日本の超長期債買い停止-衆院解散発表前に(Bloomberg) / 高市首相を短命トラス氏と比較 ドイツ紙、債券市場「狂乱」(共同通信)  / 【社説】日本に向かう「債券自警団」 長期金利の急騰、日本は経済政策を改めるべきとの警鐘に(WSJ) / 超長期金利が大幅低下、財務相発言で需給対応期待-日銀オペ増額観測(Bloomberg)


ロイターが「日本の首相は自らが招いた財政の罠に陥っている」と報道。

高市早苗は自らを「鉄の女」マーガレット・サッチャーに例えることを好むが、政権掌握以来、この日本の首相は英国史上最短の任期で退陣したリズ・トラスに喩えられることが多くなった。今や債務拡大による成長と減税の支持を求める彼女の突然の総選挙は債券市場の混乱を引き起こした。政治的基盤が危機に瀕する中、有権者への支出拡大の訴えを今さら撤回することはできない。そしてトラスと同様、これは完全に自ら招いた罠である。

 

日本でもっとも悪名高い極右の差別主義者の亡霊をよみがえらせるのか! これが、高市早苗の「決して右傾化などではなく、普通の国になるだけ」の実態! → 「こんな国民なめた話はないよ‼」自民、杉田水脈氏公認にネット騒然「何たる暴挙」「記事を見て目を疑った」(中日スポーツ) / 自民、衆院大阪5区で杉田水脈氏を擁立へ(共同) ← 差別発言で法務局から「人権侵犯」認定され、裏金1564万円、性暴力被害者への誹謗中傷(杉田氏敗訴)、そのほかデマと差別発言のオンパレード代表

 




 

ダボスの世界経済フォーラム そこでガザの不動産売買で盛り上がっている。 パレスチナ人抜きで。/ 平和評議会のイベントで、トランプ大統領の娘婿ジャレッド・クシュナーがガザに関する企画を発表。 公職についてもいない、正式な権限も正当性もないクシュナーが、トランプにへつらうゴロツキ国家群とガザのリゾート開発を進めるということ。

米紙「大統領職で私腹肥やす」 約2200億円利益と批判(共同); 米紙ニューヨーク・タイムズ電子版は20日、社説で、トランプ大統領と一族がトップの地位を利用して少なくとも計14億ドル(約2200億円)の利益を得ているとして「大統領職を使って私腹を肥やしている」と批判

大杉栄とその時代年表(744) 1907(明治40)年8月1日~3日 大韓帝国の軍隊解散 武装解除を拒んだ将兵の一部は丁未義兵など各地で蜂起 民間人も参加して武力による抗日運動(義兵闘争)が続く

 

義兵たち。1907年。
デイリー・メール記者のカナダ人ジャーナリスト、フレデリック・アーサー・マッケンジー)により撮影。

大杉栄とその時代年表(743) 1907(明治40)年7月28日~31日 新詩社同人吉井勇 吉井勇は名家の出である。祖父友美(前名は幸輔)は、鹿児島出身で、維新の時に西郷隆盛や大久保利通とともに国事に奔走し、明治24年、数え64歳で死んだ時は伯爵、枢密顧問官であった。

1907(明治40)年

8月

韓国、間島に統監府派出所。清国、撤去要求。

8月

鈴木文治「日韓協約の成立」(「新人」)。断乎併合主張

8月

国木田独歩(36)、結核と診断され転地をすすめられる。

9月、茨城県湊町に愛人看護婦奥井君子と向う。

11月、諸雑誌新年号に大量の原稿を書くため帰京。

この年2月経営した独歩社が破産し越年資金が必要。病状は悪化する。

この月(8月)、独歩は新聞「日本」に連載小説「暴風」を書き出し、14回まで書いたが、途中で何度も休載した。話の筋はまだ少しも展開していなかったが、真夏の東京の暑さが身体にこたえて、どうしても書き続けられなくなった。

独歩社に籍を置いていた窪田空穂が、絶えず咳をする独歩を見かねて、咽喉科では日本一と言たれていた菊池という医者の診察を受けさせたところ、医師は、大分重い病気だという面持ちで、悪いのは咽喉ばかりでないと言って、内科の木村という博士を紹介した。その木村医師は、両方の肺尖が惑いから今のうちに十分静養しなければいけない、と言った。已む無く独歩は独歩は、「日本」の小説を中絶した。

その少し前、独歩は「近事画報」以来特に親交のあった画家小杉未醒に手紙を書き、転地先のことを相談した。小杉は自分のパトロンで杉田恭助という金持ちの別荘を紹介してくれた。別荘は平磯海岸の浜町牛久保というところにあった。

(『日本文壇史』より)

8月

国光生命保険相互会社創立。東京。資本金20万円。

8月

桐生織物同業組合、賃業規定を設く。

8月

長谷川利行(16歳)、耐久中学の雑誌『三一会会報』4号(8月発行)に「快楽と悲哀」を掲載。


「 - 故に悲哀の裏には快楽潜み、快楽の陰には悲哀の伴うものなり、(略)彼の偉人傑士と世に尊崇せらるる者の多くは能く忍び難きに忍び、耐え難きに耐え、如何なる悲哀に遭遇すとも、決して屈撓せず、以って有終の快楽を購ひ得たるに非ずや、然るに今人の情として其の多くは目前の快楽を得むが為めに働きて自己の力尽き、根涸れ尚能く得る能わざるときには失望落膽して毫も当時の意気を覚むる能はず懊悩煩悶するなり、鳴呼彼の徒、口を開けば処世難を叫び、或は平等説を唱え、又は社会主義を鼓吹せむとす、されど所詮は蜜の如き甘き快楽をのみ揃へむとするなり、(略)」(「快楽と悲哀」)


「同級生間の噂では、全くの高踏派、水彩画は群を抜いて上手、短歌も作るとのことで、一見旧知の如しで、それからは全く心置きなく話し合うやうになりました。・・・長谷川君は、近くの広村の下宿から通学してゐました。小生は寄宿舎生活で、当時の舎費としての生活費は一ケ月四円五十銭から五円までと云ふ時代でした。その寄宿舎は、松林と芦荻の入りまじつたジャングルの中でした。・・・二年が終り三年になりましたが、甲乙二組に別れたままで、同じ教室ではなかつたので、学習の英漢数等の成績は私にはわかりませんでした。ただ一年に二回ほどある学業成績発表の折りの利行君の水彩画は、全く群をぬきん出て秀抜で、一級上の守野綱一君の書と好一対でした。長谷川君は全くの高踏派で、俗人はハナも引つかけないと云ふ風で、当時若山牧水ばりの短歌をつくつてゐた小生ぐらいが、辛うじて話してもらえる位でした」(薗悌次郎「思ひの記」)。

8月

ペルシア大臣アターベク・アザームが暗殺され、新設議会マジュリスを出し抜くことを画策中の反動的新国王、モハンマド・アリーは大打撃を受ける。ナシール・ウッムルクの下に自由主義的な内閣が成立。

8月

モロッコのフェズで市民のアブドル・アジーズ廃位運動起こる。


8月1日

韓国、大韓帝国の軍隊解散

午前8時、朝鮮軍各部隊将校、朝鮮駐剳軍司令官長谷川好道官邸に集められ、軍部大臣李乗武より朝鮮軍解散の詔勅読上げ。

午前10時、一般兵士約2千が漢城訓練院に集められ、軍部協弁韓鎮昌が軍隊解散命令を告げる。

武装解除を拒んだ将兵の一部は丁未義兵など各地で蜂起し、武力による抗日運動(義兵闘争)に参加した。旧大韓帝国軍の蜂起は各地で続き、義兵化した民間人などによる抵抗活動も行われ、抵抗は日韓併合後の1914年頃に鎮圧されるまで続く。

丁未義兵闘争

漢城侍衛第1連隊第1大隊長朴昇煥は、訓練院への召集に応じず、呼び出しに来た日本人将校の見守る中で拳銃自決。大隊兵士たちは、武器庫に殺到し蜂起。日本軍は典洞の兵営を包囲。

第2大隊(隊長呉義善)も蜂起、合流。訓練院からの兵士も合流し兵は600。西小門一帯で日本軍と交戦。弾薬尽きた兵士は、軍服を脱ぎ民家に逃込む。執拗な探索。

この日、参尉南相應(27)ら射殺68・深傷100余・捕縛500余。日本軍戦死(梶原中尉ら)100余。これを契機に将兵蜂起。

江華島分遣隊兵士600余、池弘允・延基羽・柳明啓ら将官に指揮され蜂起。江華郡守で一進会幹部鄭景洙を殺害、駐在所襲撃(日本人巡査1名殺害)。江華島全域を制圧し漢城進出を画策。

一三道倡義大将李麟栄ら義兵決起この月、江原道原州から義兵500を率いてきた李九載・李殷瓉に共鳴し参加。

12月、京畿道楊州に1万人集結、上京めざす。

1909年6月、李麟栄捕らえられ処刑(42歳)。

この年1907年8月~1910年迄の義兵・日本軍の闘争回数2819回、義兵数14万余、義兵戦死17688・負傷3800・捕縛7824。朝鮮駐剳軍司令部編「朝鮮暴徒討伐誌」付表。

この頃、安重根(28)、鎮南浦での商いに失敗、山岳ゲリラに加わる。


8月1日

各派合同で社会主義夏季講習会(各派合同の最後)。東京九段下ユニヴァサリスト教会。~10日迄。

田添鉄二「社会主義史」、西川光二郎「同盟罷工の話」、片山潜「労働組合論」、幸徳秋水「法律論、道徳論」、堺利彦「社会の起源」、山川均「社会主義の経済学」。聴講者80余。新見忠雄(20)ら参加。

両派(議会主義・直接行動)対立、先鋭化。


8月1日

(漱石)

「八月一日 (木) または二日(金)、野上豊一郎来る。

(大阪朝日新聞社主催叡山大講演会始る。八月十七日(土)まで、第一期・第二期・第三期に分れ、八月六日(火)、十二日 (月)休む。)

八月二日(金)、野間真綱に結婚祝いとして、為替で十円送金する。何か買って貰いたいと伝える。

八月三日 (土)、高須質淳平来る。小宮豊隆は、恋煩いになるかもしれぬと云う。」(荒正人、前掲書)


8月1日

『青年に訴ふ』(大杉栄訳、幸徳秋水序、平民書房)の広告が『家庭雑誌』に近刊予告として掲載。「弊書房今行政庁の発売頒布を禁ぜざりし部分検事の告発せざりし部分を取りて刊行したり」

8月1日

京都・阪鶴・北越の三鉄道を国有。

8月1日

樺太における最初の電話、大泊に開通

8月1日

宮本常一、生まれる

8月1日

ロバート・ベーデン=パウエル、イギリスのブラウンシー島でスカウトの最初のキャンプブラウンシー島実験キャンプを実施(~8月9日)。

8月2日

韓国、江華島分遣隊蜂起。 池弘允の挙兵、日本軍中隊全滅。

8月2日

啄木(21)、 老母迎えのため玄海丸に乗船、3日朝青森に到着、父母の滞在する野辺地の常光寺に赴く。伯父葛原対月と対面、同寺に一泊する。

8月4日早朝、母と野辺地を出発、青森より石狩丸で函館に帰る。その後小樽より妹光子、脚気転地のため来り、一家五人となる。

8月3日

独露両国の皇帝・外相、バグダッド鉄道に関して会談。


つづく

大船フラワーセンターのアイスチューリップ‘  鉢植えばかりだけど、今が見頃 2026-01-22

1月22日(木)

大船フラワーセンターのアイスチューリップ‘

鉢植えばかりだけど、今が見頃。





2026年1月22日木曜日

トランプ大統領による新たな関税、侮辱、そして侵攻の脅威がダボスで反発を引き起こし、多くの米国同盟国やパートナーからの反応は厳しいものだ:トランプのアメリカは正気を失ったように見える。(WSJ) / BBCニュース - トランプ氏の演説、異なる主張や誤った説明を連発 ダヴォス会議 / 狂気じみたドナルド・トランプがグリーンランドをアイスランドと混同し、静まり返った群衆が恐怖の眼差しで見守る中、米国の大統領が自身を辱め、ひどく呂律が回らず、明らかに混乱した様子で。 / トランプ「たいてい彼らはこう言う。『彼はひどい独裁者タイプの人間だ』って。私は独裁者だ。だが、時には独裁者が必要なこともある。」 / 「大統領の演説は感動的と絶賛の声が」 というレビット報道官の投稿を引ツイして、 「うん、みんな言葉を失ってるよ」とニューサム

 

「解散の大義なんて後から貨車で積んでくるくらい来ますよ、いっぱい、後からね 支持率が高い時に解散するのは当然の常識でしょうね」(麻生太郎)

【随時更新】再稼働した柏崎刈羽原発6号機の原子炉停止へ、東電が夜に会見(新潟日報);「21日午後7時ごろ再稼働したが、22日未明に制御棒の操作監視装置で警報が出たため、制御棒の引き抜き作業を停止していた。」 / 17日 制御棒引き抜き試験で警報設定ミス判明 20日 30年の間誰も気付かず&計88ペア間違えていたと判明  21日 たった1日で「修正・動作確認を終えた」と豪語し再稼働  22日未明 再稼働5時間後、制御棒引き抜き警報。原因掴めず再停止      

大杉栄とその時代年表(743) 1907(明治40)年7月28日~31日 新詩社同人吉井勇 吉井勇は名家の出である。祖父友美(前名は幸輔)は、鹿児島出身で、維新の時に西郷隆盛や大久保利通とともに国事に奔走し、明治24年、数え64歳で死んだ時は伯爵、枢密顧問官であった。

 

吉井勇

大杉栄とその時代年表(742) 1907(明治40)年7月27日~28日 鉄幹以外は全て学生。太田正雄と北原白秋と平野万里が数え23歳、吉井勇は22歳。 旅行の紀行文は「東京二六新報」に掲載する約束があって、5人がかわるがわる無署名で執筆。「五足の靴」と題されて、8月7日から連載。 より続く

新詩社の九州旅行(つづき)


〈上田敏と吉利支丹文化の研究〉

上田敏の業績は多方面にわたっていたが、その中に、吉利支舟の神父たちの手で和訳された古い文献の研究があった。この種の文献についての先駆的研究には、イギリス人アーネスト・サトウの研究や村上直次郎博士の研究があった。

明治36年10月、上田敏はこれ等の業績に基づいて、樗牛会で「外国文学の研究」という題で講演した。彼は吉利支丹版のローマ字訳や和文訳の文献を紹介し、日本語の名詞の中にはポルトガル語の影響がかなりあり、紅殻(べんがら)、金平糖、更紗、莫大小(めりやす)等がそれに当ることを指摘した

この講演は雑誌「時代思潮」や「中央公論」に掲載され、明治40年3月に上田敏が出版した「文芸講話」(金尾文淵堂)に収められていた。

上田敏は、古い吉利支丹文献にある日本語の古雅な感じを尊重し、それを仕事の中で生かしていた。彼が明治38年9月号の「明星」に発表し、間もなく出た「海潮音」に載せたフランスのトルーバドールの詩人オーバネルの短詩の訳がそうであった。


小鳥でさへも巣は恋し、

まして青空、わが国よ。

うまれの里の波羅葦増雲(バライソウ)。


上田はこの訳詩に評をつけて、「故国の訳に波羅葦増雲とあるは、文禄慶長年間、葡萄牙(ポルトガル)語より転じて一時、ねが日本語化したる基督教法に所謂天国の意なり」と書いた。この短い訳詩の典雅澄明をイメージは、一度それを読んだものに忘れがたい印象を与えた。若い詩人たちは、「海潮音」の中からその詩的イメージを汲みとることに熱中していた。上田敏が明治39年から出した雑誌「芸苑」に依頼されて詩を発表していた三木露風や北原白秋もまた、籍は「明星」に置いていたが、詩想の源泉として多くのものを上田敏の業績から汲んでいた。バテレン、パライソウ、アルスというような語彙が次第に彼の内部に沈潜して、発酵しはじめていた。

明治39年はキリシタン文化研究の上に記念すべき年であった。この年4月、上野の帝室博物館において、嘉永以前(即ちベリー到来以前)の西洋輸入品及び参考品の特別展覧会が開かれた。その陳列品には、南蛮の古鐘、真鍮の踏絵、法王保羅五世肖像、支倉六右衛門像、ごぶらん織地、葡萄牙人上陸図屏風、慶長五年長崎版の「どちりな・くりすたん」等の品々が陳列ざれた。

この展覧会については、富士川游(ふじがわゆう)、村上直次郎等が新聞、雑誌に解説を書き、新村出(東京帝大文科大学助教授、31歳)は、特に深い感銘を受けた。彼は言語学の専攻で上田万年(かずとし)に就いて日本音韻史を研究した少壮学者で、近く外遊して、新設の京都帝大文科大学に就任することに決定していた。彼の学者としての関心は、この時期から次第にこの新しい分野に集中されるようになった。

この展覧会と前後して、日本の吉利支丹文化研究の先駆者である駐支イギリス公使アーネスト・サトウが旅行の途次日本に立ち寄り、上田敏を含む同好の学者たちがその歓迎会を開いた。そういうことが続き、この年、新しい学問分野としてのキリシタン文化研究の重要さが、日本の智識階級の間に印象づけられた。

そういう雰囲気の中で上田敏は、明治39年12月、野口米次郎の編輯するあやめ会の詞華集「豊旗雲(とよはたぐも)」に「踏絵」を発表した。

それは、「真鍮の角(かく)なる版(いた)に/ビルゼンの像あり、/諸(もろもろ)の弟子之(これ)を環(めぐ)る。/母なるをとめ、/わが児のむすめ、/帰命頂礼(きみようちゃうらい)、サンタ、マリヤ。」という詩句ではじまり、「代々(よよ)に聞く名こそ異なれ、/神はなほ此世を/知ろす、たゞひとり、覚束(おぼつか)な、/今の求道者、/『識(し)らざる神』の/証(あかし)にと死する勇(ゆう)ありや。」という詩句で終る。


〈「明星」同人の九州旅行の目的を九州西南部の南蛮遺跡深訪に変更する〉

「明星」同人太田正雄は、同人たちが九州旅行を計画したのを知り、長崎、平戸などに残っているにちかいないキリシタンバテレンの遺跡遺物を見聞する好機と考え、その一行に参加することを申し出て、容れられた。鉄幹は、彼の意見を受け容れて、九州一周という旅程を改め、九州西南部の南蛮遺跡探訪ということに目的を変更した。

太田正雄は旅行の準備として、上野の図書館に通い、特に天草騒動についての数種の書物を漁り、抜き書きをした。

7月下旬に出た「明星」8月号には、九州旅行のメンバーに新しく太田正雄が加えられ、出発は早めて7月下旬とし、旅行目的を「九州西南部南蛮遺跡探訪」ということにして、改めて社告が掲載された。

太田の提案にすぐ反応したのは北原白秋で、彼の生地柳川は天草半島の対岸にあり、彼が少年時代に使っていた言葉には、西洋の系統と思われるのかいくつかあることに気がついた。即ち、長男のことをトンカジョン、次男をチンカジョン、令嬢をゴンシャンと言った。日曜日をドンタクと言った。自分の幼少時代に意味も分らず使っていた言葉に、北原白秋は古いユキゾチスムを見出し、彼自身の郷里が新しい詩の題材の源泉であるという自覚を抱きはじめた。


〈吉井勇〉

吉井勇は名家の出である。祖父友美(前名は幸輔)は、鹿児島出身で、維新の時に西郷隆盛や大久保利通とともに国事に奔走し、明治24年、数え64歳で死んだ時は伯爵、枢密顧問官であった。幸輔の子で勇の父である幸蔵は、少年時代から欧米に留学し、そこで成人したので、英仏独の諸外国語をよくし、帰朝してから海軍兵学校に入り、海軍少佐まで昇進したが、明治28年、台湾鎮定のときに負傷して軍職を退いた。勇は幸蔵と妻静子との間に、明治19年10月8日、東京市芝区高輪南町五十九番地の大きな邸宅で生れた。芝の伊皿子(いさらご)坂の上にあった御田小学校に学び、学友に落合太郎、2、3級下には小泉信三、阿部章蔵(水上滝太郎)などがいた。その後、日比谷の東京府立第一中学校に入った。同級に辰野隆、谷崎潤一郎、土岐善麿などがいたが、孤独癖のある勇はそれ等の学友と交際をしなかった。彼は3年から4年になるときに落第したのを機会に芝区新銭座の攻玉舎(こうぎょくしゃ)中学校に転じた。彼の父幸蔵は水難救済会の会長で、会の斡事に佐佐木信綱の主宰する竹柏園(ちくはくえん)の歌人石榑千亦(いしくれちまた)かいた。

吉井家では友美も幸蔵も歌を詠んでいたので、勇もまた小学生時代から、この石榑千亦について和歌を作った。勇は明治38年4月に攻玉舎中学校を卒業した頃、肋膜を病んで、平塚の杏雲堂病院に入院し、その後鎌倉に転地した。この時期に彼は最も歌に熱中し、「明星」派の歌風に心酔した。彼は鉄幹に、社友に加えてほしい、歌を学びたいという手紙を書いた。折り返し返事があって、それには「歌とは禅の如きものに御座候」という言葉があった。彼は入社以来、毎月のように歌を載せてもらった。当時彼は独歩の作品を愛読し、「武蔵野」にあるような自然を詠んだものが多かった。

彼は新詩社で毎月1回催される例会には欠かさず出た。そこで彼は平野万里、北原白秋、茅野暮雨などと知り合った。その会には森鴎外が、陸軍省からの帰りに軍服のまま出席することもあり、また文壇の先輩なる上田敏、戸川秋骨、平田禿木、生田長江なども加わることがあった。

明治39年8月、鉄幹は、北原白秋、茅野暮雨、吉井勇等を伴って伊勢、紀伊、京阪地方の旅をした。名古屋から伊勢に入り、鳥羽から小さな船で紀州の木の本に渡り、山越えをして熊野の本宮に参詣をし、熊野川を下って新宮に出た。その川の両岸の高い断崖には幾百匹となく猿の遊んでいるのが見られた。その時の旅行で多くの歌が作られ、新しい体験も得たので、明治40年の九州の旅にも勇は進んで加わった。彼はこの年4月に早稲田大学文学部高等予科に入学していたが、ほとんど出席することがなかった。


7月29日

韓国、伊藤統監、在韓記者会との懇親会で演説。

「日本は韓国併合の必要なし。合併は厄介(外国の反対・批判)。韓国には自治が必要だが、日本の統監の指導がなければ健全な自治は困難」と述べる。

伊藤の保護国経営策:

イギリスのエジプト経営を担ったクローマー提督の事業を範としたといわれる、日本の監理・指導・保護による韓国「自治」振興政策。

①司法制度整備:東大教授・法政大学総理事梅謙次郎を政府法律顧問に招聘、法典調査局を設置して法典編纂のほか法官養成、裁判所・監獄を新設。法治国家の体裁を整え不平等条約撤廃をめざす。

②中央銀行設立:1905年以来、第一銀行が韓国中央銀行業務を行っていたが、これを廃止、1909年、韓国銀行設立。

③教育振興。東京高等師範学校教授三土忠造を学部参与官として教科書編纂、識字率向上のため普通学校(小学校)初め各種学校を振興。

④殖産興業:1908年、東洋拓殖会社(総裁:陸軍中将宇佐川一正)設立。日本の経済侵略に道を開くもの。

7月29日

谷中堤内地権者、東京救済会の勧告に従い土地収用補償金額裁決不服訴訟を提起。

7月29日

米国・カナダの移民事情調査、石井菊太郎通商局長出発。

7月30日

第1回日露協約調印

両国の領土保全・権利の尊重、清国の領土保全、清国に対する機会均等の承認。

秘密条項:

①鉄道・電信に関し満州における勢力範囲画定(ハルピン・長春・吉林の中間で満州を南北に分割)。

②ロシアの外蒙古の特殊権益・日本の韓国との「政事上利害共通の関係」を相互承認。8月15日公示。

日露戦争後の国際情勢変化:

英露仏3国協商体制。日本も6月10日「日仏協約」締結(極東でのドイツ勢力牽制)。また、8月31日「英露協約」締結。日本は、ロシアと協調して大陸の既得権益を確保、ロシアは北満州経営を安定させバルカン・中近東進出を企図。

7月30日

フィリピン初の議会選挙。議席数はナショナリスタ党(国民党)32、進歩党16、無所属20。

7月31日

韓国、夜、軍隊解散詔勅発布。伊藤統監起草。

7月31日

福田英子長男竜麿、満州の実父大井憲太郎の許へ出発。

7月31日

米、ドミニカ共和国サントドミンゴから撤兵するとともに税関管理権を還付.


つづく


高市早苗は具体的政策を示さず、自分への白紙委任を求めている(人気のあるうちにやっちゃえ!) → 「怖い」「何するつもり?」高市首相が掲げる“国論を二分するような大胆な政策”にネット困惑のワケ(女性自身) / 高市早苗「(予算成立後に)政府が提出しようとしている法律案 これはかなり『賛否の分かれる大きなもの』 だからこそ国会が始まる前に国民の皆様の信を問いたい」 / 「これから国会で議論をするが、その前に私を選んでください白紙委任状をくださいと。あまりにも国会をないがしろにしている。」(玉川徹) / 「要するに「勝ったら国民生活に大きな影響がある大変なことをやるけど、それが何かは事前に言わない。私を信頼して自民党に入れて」という話だよね。まともな政治家のやることではない。」(津田大介)  

 



 高市早苗は最後の質問をメモを見て答えた後、初めて自分の言葉で語り出した

気になるのはこの部分


「(予算成立後に)政府が提出しようとしている法律案

これはかなり『賛否の分かれる大きなもの』

だからこそ国会が始まる前に国民の皆様の信を問いたい」


高市政権はどんな恐ろしい法律を通そうとしているのか?






 

2026年1月21日水曜日

絶望と孤独が、どんなふうに人間を偏らせ、狭い視野に陥らせるのか。そうした観点がないと、くみ取るべき教訓も十分得られないのではないか。(江川紹子) / 「家族の不遇背負わなければ」 裁判員、被告おもんぱかる―安倍氏銃撃(時事) / 鈴木エイトさん、無期懲役に「重すぎる」 判決前に山上被告と接見(朝日):「重すぎる。事件を彼1人に背負わせていいのか、とすごく感じた」 / 「更生の道絶つ」「裁判員に伝わらず」 山上被告判決受け傍聴人―安倍元首相銃撃事件(時事); 鈴木エイトさんは、「被告は公判で安倍氏に対して明確な憤りを述べておらず、なぜ狙ったのかを(裁判員に)理解してもらえなかった」と振り返る。  一方で「全て被告一人の責任にされ、生い立ちなどがほぼ考慮されていない」と指摘。「社会問題の被害者が更生する道を絶つ判決だった」と述べた。   


(江川さんのコメントの抜粋)

*当時、政治権力と旧統一教会は密着していた。

*宗教2世の窮状に社会やメディアの目も向いていなかった。

*模索などせず、狭い視野のまま、決めたことに突き進んでしまう姿は、生い立ちと関係があるように思う。

*なぜ安倍氏の殺害に至ったのか。被告自身が整理できておらず、なんとか整理をして他人にわかってもらおうという気力も感じられない。

*こうした被告の心理状態について、専門家を証人に呼ぶなどして、審理を尽くしてほしかった。

*公判前に、弁護側の情状鑑定の請求が地裁に退けられたというが、するべきだった。

*絶望と孤独が、どんなふうに人間を偏らせ、狭い視野に陥らせるのか。そうした観点がないと、くみ取るべき教訓も十分得られないのではないか。


 

【衝撃】全ページ真っ黒…!高市総理に3000万円寄付した「謎の宗教法人」疑惑の決算報告書(週刊現代); • 「3000万円」という巨額の原資はどこから湧いたのか?  • 高額献金の上限規制はクリアしているのか?  • 不動産業者のような不自然かつ頻繁な土地取引の裏に何があるのか?


 【衝撃】これ、高市総理に3000万円寄付した謎の宗教法人の決算報告書です。

タップして縦に並べて見てください。あまりにも真っ黒すぎます…。

高市総理を支援する謎の宗教法人「神奈我良(かむながら)」

その実態に迫るべく、ジャーナリストの河野嘉誠氏(@Os01cs

が奈良県庁に情報公開請求して出てきたのが、この「完全なのり弁」資料でした。


• 「3000万円」という巨額の原資はどこから湧いたのか?

• 高額献金の上限規制はクリアしているのか?

• 不動産業者のような不自然かつ頻繁な土地取引の裏に何があるのか?


検証しようにも、これでは国家ぐるみの隠蔽と言わざるを得ません。

この「黒塗り」の先に何があるのか。河野氏の独走スクープ、必読です。




楽天・三木谷浩史社長が警告「高市首相バラマキで悪性インフレが加速する」「1ドル=180円まで進むかもしれない」(週刊文春)

 

大杉栄とその時代年表(742) 1907(明治40)年7月27日~28日 鉄幹以外は全て学生。太田正雄と北原白秋と平野万里が数え23歳、吉井勇は22歳。 旅行の紀行文は「東京二六新報」に掲載する約束があって、5人がかわるがわる無署名で執筆。「五足の靴」と題されて、8月7日から連載。

 

木下杢太郎(太田正雄)

大杉栄とその時代年表(741) 1907(明治40)年7月26日 茅野蕭々(25歳、東京帝国大学独逸文学科2年生)と増田雅子(28歳、「明星」第一期同人、新詩社を代表する女流歌人)、結婚。 茅野儀太郎、安倍能成、岩波茂雄の交友

1907(明治40)年

7月27日

(漱石)

「七月二十七日(土)、暑くなる。


最高気温は、七月二十七日(土)二十八・九度、二十八日(日)二十九・四度、二十九日(月)二十九・七庇。七月三十日(火)から八月十四日(水)まで、三十度前後の日続く。」(荒正人、前掲書)

7月28日

日露、通商航海条約・漁業協約調印。

7月28日

新詩社の九州旅行。

鉄幹以外は全て学生。太田正雄と北原白秋と平野万里が数え23歳、吉井勇は22歳。

旅行の紀行文は「東京二六新報」に掲載する約束があって、5人がかわるがわる無署名で執筆。「五足の靴」と題されて、8月7日から連載。

7月28日、東京を出発。

30日、厳島神社に参詣し、下関の川卯という旅館に泊る。

31日、福岡に着き、西公園の吉原という茶屋で「明星」読者による福岡県文学同好会主催の歓迎会。参加者26名。記念写真では、平野万里と太田正雄は霜降りの学生服、北原白秋と吉井勇は黒の学生服、鉄幹は黒の背広を着ている。この日は中洲の川丈という宿に宿泊。

翌8月1日、博多湾のあたりを見物し、海水浴。蒙古軍の来襲、倭寇の根拠地なる博多柳町の遊廊等についても紀行文は触れている。

8月2日、柳川の北原白秋の生家に着く。

「築後の柳河まで来た。海を控へて水田と川の多い土地だ。北原氏に宿る。即ち我等が一人なるH生の家だ。H家は東京から客人を連れて長男が帰ると云ふので、室内の装飾やら、寝具の新調やら、非常な騒ぎをして歓待の準備が頗る整頓してゐる。それに我等に面会のため他郡から出掛けて泊り込む者もあるので、台所では祭礼の日のやうな混雑だ。裏の幾十間と続く酒倉では、多くの倉男が眠むたげな調子で唄ひながら、渋を採るため青柿を呑気に臼で春く。宛ら母屋の騒ぎとは別世界だ」

当時北原家は衰運に向ってはいたものの、筑後で屈指の酒造家であった。特にこの家では「県下八女郡の米の精良なるを選んで、之を四十度も舂(つ)き臼げた上で製した」「潮」というのか知られた酒であった。

翌日、一行は酒倉で色々と説明を聞き、そこを出て運河沿いの沖端やそれに続く柳川の本道を歩いた。そこは昔の城下の気分の残った廃市の感じがあった。町の真中に真直ぐに続く掘割の両側には柳が植わっていた。そして上方風の店が掘割に向って並び、夕方には人々が縁台を堀ばたに持ち出して団扇を使っていた。その掘割を小舟で下って町外れに出ると、脚か真菰(まこも)の生え繁った沼の間に自ら水路があった。舟は橋の下を通り、橋のほとりに灯の明るくついた家があった。

一行がまた戻って来ると、北原が「ばあやさん」と呼ぶ老女中が、浴衣を出して皆に着せてくれた。このばあやさんは、白秋について東京へ行っていた女中で、太田や吉井にも顔馴染みであった。

8月3日、雨の中、予定どおり佐賀に向う。筑後川を渡ったところで古風な鉄道馬車に乗り、それで佐賀まで揺られて行った。見ると、その馬車は数年前まで品川と新宿の間を走り、よく脱線することで知られていた鉄道馬車であった。吉井勇は通学の途次によく乗ったものだと言った。

佐賀では平地にある佐賀城址を一巡し、書店に入って新刊雑誌などを買った。北原は「早稲田文学」を読み、それがすっかり独歩や藤村の亜流である旅情的自然派の作品で埋められているのを見て、それを揶揄する戯詩を作った。

「明星」派のロマンチシズムは早稲田派の素朴な田舎臭さと対立していたので、北原も吉井も学籍は早稲田にありながら、「早稲田文学」系統の単調なリアリズムには同調し得なかった

8月4日、一行は、松浦佐用姫や虹の松原で知られた肥前の唐津に着き、名護屋城址を訪れた。ここでー行は講演をした。太田正雄は喋っているうちに、「弁士簡単に」と弥次られた。-行は海路平戸へ出るコースを取り、船に乗るために佐世保へ出て1泊した。

8月6日、佐世保を出て、玄界灘を通り、午後2時に平戸に着き、その地に残っている阿蘭陀塀、阿蘭陀井戸、阿蘭陀灯台などを見た。ボウプラ(南瓜)、コブノエ(蜘蛛の巣)、トっチンギョウ(木の梢)など西洋語らしい言葉の残っているのも知った。

8月9日、2日ほど滞在した長崎を去って天草島へ向った。雨の中を東海岸の茂木まで2里の山道を乗合馬車に揺られた。そこから船で天草に渡った。富岡港で上陸し、富岡城址を見た。そこから天草の西海岸に沿って、荒磯伝いに大江に向って歩き、大江村で汚い木賃宿についた。 

8月11日、大江村の天主堂に15年も住んでいる仏蘭西人のパーテル神父に逢った。神父は天草言葉を上手に使った。そこから牛深港に出て、三角港を経て島原に向った。そこで有馬城址を見て、そこからまた海に出て、熊本県の長洲の町に入り、8月15日、熊本に着いた。

これで九州西南部の南蛮文化の遺跡歴訪は終ったが、そのあと更に、16日阿蘇山に登り、17日熊本に戻って江津湖に遊び、18日は三池炭現を見学した。

8月21日、一行は再び柳川の北原家に落ちついて休養をとった。

このあと白秋は暫く自家に留り、平野万里は京都まで直行した。

鉄幹は太田正雄と吉井勇を伴って周防の徳山に下車し、彼の中兄赤松照幢が住職をしている徳応寺に立ち寄った。そこは鉄幹が数え17歳から3年間兄照幢の経営する徳山女学校の教師をしたところである。彼はそこの第1回卒業生の浅田信子という3歳年上の女性と3年後の明治25年東京で同棲し、2人の間に女の子が生れた。その子は40日で死に、鉄幹は信子とも別れた。その後、鉄幹は徳山女学校の第3回卒業生の林滝野と結婚した。鉄幹は太田、吉井の2人を伴って徳応寺に2日滞在後、京都に寄って3日ほど遊んで、8月31日に帰京した。

帰京してから、旅の費用を計算すると、約33日間の旅で1人35円の費用であった。35円は中等学校教員の月給に相当する額であった。


〈「明星」同人太田正雄(東京帝大医科大学学生、23歳)〉

明治18年、伊豆の伊東の近く、静岡県賀茂郡湯川村に、太物雑貨類の卸小売商をしている太田惣五郎と妻いとの三男として生れた。4歳のとき父を喪い、長姉よしとその夫惣兵衛に育てられた。13歳のとき上京して、本郷区西片町にある三姉たけの嫁ぎ先で判事をしていた斎藤十一郎方に寄寓し、独逸協会中学校に学う。この中学校は、東大の医科や法科に進む目的を持つ少年がドイツ語を学ぶために集る学校で、一高の入学率の高いことで知られていた。

数え17歳の頃から、次兄の円三と白山御殿町に建てられた太田家の住宅に住み、その頃からさまざまな文章を書きはじめ、自ら「地下一尺」という総題をつけた。それは詩、文、戯曲、感想、批評、紀行等を含むもので、それを彼は「地下一尺」第一、第二と編輯して保有した。彼はまた中学生時代に水彩画を三宅克己に学び、それに熱中して画家になろうと考えた。しかし斎藤家に嫁いでいた三姉たけが、弟に説いて医科に入ることを薦めたので、彼は独逸協会中学校を卒業すると第一高等学校第三部に入学した。第三部はドイツ語を主とし医科に進むコースである。

そこへ入ってからも彼は文科系のコースへ移ろうと思ったが、ドイツ語教授の岩元禎に転科を思いとどまらせた。明治39年、医科大学に進んだが、そのときもまた、独逸文学科へ進みたいと思ったが、家人の反対により志を果さなかった。この年から文集「地下一尺」に木下杢太郎というペンネームを用いた。翌明治40年にはこの「文集」は第20編に達していた。医科大学第1学年終りに近づいた明治40年3月、彼は「京都医科大学なる友人に与ふる書」というー文を竹下数太郎なるペンネームで「読売新聞医事附録」に掲載した。また同じ月から長田秀雄の紹介で「明星」に投稿し、以後毎月投稿を続けていた。彼は医科大学の先輩で文学者である森鴎外を尊敬し、ひそかに鴎外のあとを追っていた。しかしまだ鴎外に逢ったことはなかった。また彼は、明治38年に上田敏が出した訳詩集「海潮音」の熱心な読者であり、それ以後の上田敏の詩人として、翻訳家として、また学者としての仕事から目を離さなかった。


この項、つづく

よくもまあ、こんな見え透いた嘘を、シャーシャーと言えるものだ!(総理不適格) → 後藤謙次さん「実現に向けた検討を加速というのは、霞が関 用語で言えば、事実上やらない、それに等しいわけですね…」 / 消費税減税、首相発言が一転 「即効性ない」→「悲願」と積極姿勢に(日経) / 高市総理「私自身の悲願」2年限定の飲食料品の消費税0% 今後設置の「国民会議」で検討を加速(TBS) / 「食料品消費税ゼロ」で先手を打たれた高市政権 同日リークが物語る焦りと、埋没する第三極(大濱崎卓真) / 食料品の消費税率、「時限的にゼロ」案 高市政権の衆院選公約に浮上(毎日) ← 高市、レジシステム改修が難しいとかシノゴノ言って消費税減税を否定してきたのに、選挙前になるとコレか! 




2026年1月20日火曜日

《大義なき、自己保身解散》  [社説]大義みえない高市首相の衆院解散(日経) / 高市早苗首相の衆院選勝敗ライン、3議席増で達成 かすむ解散の大義(日経) / (社説)大義なき冒頭解散 国民より首相の「自己都合」優先(朝日) / <社説>首相が解散表明 大義なき権力の乱用だ(東京) / 「高市さんは働く前に解散か」 物価高に苦しむ市民から失望の声(毎日) / 「高市首相の自己保身だ」 能登地震の被災者、衆院解散表明にため息(毎日) / 旧統一教会との関係、迂回献金疑惑や中国問題への対応のまずさ等、国民が聞きたい事は何も言わず / 「高市早苗が内閣総理大臣でよいのかどうかいま主権者たる国民の皆様に決めていただく。」 ← 日本は議院内閣制をとっているんだよ! / 「国民不在、選挙目当ての政治、永田町の論理に終止符を打ちたい」 / 自民、裏金関与議員の比例重複認める方針 前回衆院選から対応転換(朝日)    




 

大杉栄とその時代年表(741) 1907(明治40)年7月26日 茅野蕭々(25歳、東京帝国大学独逸文学科2年生)と増田雅子(28歳、「明星」第一期同人、新詩社を代表する女流歌人)、結婚。 茅野儀太郎、安倍能成、岩波茂雄の交友

 

増田(茅野)雅子

1907(明治40)年

7月26日

大阪市立大阪盲唖学校設立。

7月26日

4月10日に師団新設用地買収費に関し、坪当たり20銭の補償を要求して郡役所に屯集した京都府紀伊郡深草村の小作人、再び屯集。

7月26日

帝国製麻株式会社設立。日本製麻と北海道製麻との合併。

7月26日

この日付け漱石の三重吉宛手紙

「『虞美人草』はだらだら小説七顛八倒虞美人草と名づけて未だ執筆中」

7月26日

苜蓿社の主宰者であった大島経男、恋愛結婚の破綻から靖和女学校教師の職を辞して故郷日高国下下方村に帰る

7月26日

茅野蕭々と増田雅子、結婚。


「明星」同人暮雨茅野儀太郎が、3歳上の増田雅子に惹かれるようになったのは、明治37年、雅子が与謝野晶子、山川登美子と共著の歌集「恋衣」の出版を計画している頃のであったが、その頃はまだ「あてやかなる笑ひ様、あどけなき人なり」と日記に書く程度であった。

茅野儀太郎が新詩社に加たったのは明治34年、19歳で諏訪中学の生徒の頃。

増田雅子はその前年、明治33年11月、「明星」創刊の半年後に参加していた。それはその年の夏、大阪の浜寺の集会で与謝野鉄幹が鳳晶子、山川登美子と逢ってから間もなくのことであった。それ故増田雅子は、晶子、登美子とともに「明星」第一期の同人として、新詩社を代表する女流歌人であった。

増田雅子は明治13(1880)年5月6日、大阪市東区道修町一丁目四十二番屋敷に、薬種問屋増田宇兵衛の二女として生れ、まさと命名された。生家は富裕な商家。雅子は5歳のとき母さとを喪い、13歳のとき継母ふじを迎えた。その間に堂島女学校、本願寺系の相愛高等女学校に学んだが、16歳のとき退学し、明治33年、21歳のとき、新詩社に加わった。彼女は山川登美子より1歳年下、与謝野晶子より2歳年下であった。"

茅野儀太郎は明治16年3月18日、長野県諏訪郡上諏訪町四千百九十二番地に、茅野猶太郎の子として生れた。姉2人、妹1人、弟1人があった。父の職業は時計屋であった。明治35年、諏訪中学校を卒業し、その年の9月第一高等学校に入学した。同級生に、野上豊一郎、斎藤茂吉、小宮豊隆、藤村操、安倍能成らがいて、1年上級に安倍次郎、岩波茂雄、吹田順助、上野直昭、荻原藤吉、2年上級には、小山内薫、森田草平、生田弘治らがいた。入学して間もなくの学期試験の成績は、茅野は一番だった。

〈茅野儀太郎と安倍能成〉

茅野が2年生になった明治36年5月22日、同級生の藤村操が日光の華厳滝から投身自殺したことは、これ等の一高生たちに深刻な影響を与えた。藤村操の叔父の那珂通世(みちよ)と共に遺骸の引取りに行った級友の安倍能成は、人生問題に煩悶して、2年から3年になるとき落第した。彼は人生についての解決を求めて牛込余丁町の綱島梁川に私淑し、しばしばその病床を訪ねるようになった。

明治37年、安倍は校友会雑誌編輯委員に選ばれた。委員の中には茅野健太郎、魚住影雄などがいた。前年までの委員、阿部次郎、穂積重遠、吹田順助らは卒業して東京帝大へ進んだ。

安倍が委員に選ばれたのは、前年彼が藤村操の追悼文を校友会雑誌に載せ、級友に愛読されたのか理由であった。安倍は明るい包容力のある性格で、その大柄な身体と顎と額の出張った目と眉の近い冥想的な容貌は学友たちに親しまれていた。茅野が選ばれたのは、「明星」にものを書いている新詩社の同人であることが学友に知られていたからである。

新旧の委員の懇親会が医科大学の鉄門近くの牛肉屋豊国で行われた。前期委員の吹田順助は、上田敏の従弟であった。吹田順助の母かうは、幕末の儒者乙骨耐軒の末女で、その兄で、耐軒の次男絅二(けいじ)が上田家を継ぎ、その家の娘孝子との間に敏を設けた。茅野は吹田に請われて「明星」に載せた歌を吟唱して、出席者の注目を浴びた。

この明治37年8月の「明星」で茅野の歌が大変よく出来ていたのに鉄幹が感心して、茅野には断らず暮雨(ぼう)という号を蕭々と変えて出した。茅野は以後常に蕭々という号を使った。

安倍は茅野と親しくなり行き来した。茅野は寮を出て、小石川区の久堅町に家を借りて妹と2人で住んでいた。やがて安倍はその妹を知るようになった。茅野の兄弟たちの中で、一番上の姉が早く亡くなり、二番目の姉が父の店の支店に嫁いでいたが、明治38年4月この姉が恋愛事件を起して自殺した。それは茅野が第一高等学校3年の終りに近い頃であった。

〈安倍能成と岩波茂雄〉

明治38年、安倍能成は煩悶していた。彼は数え22歳で茅野より1歳年下だった。安倍は前年落第したので、この夏に3年生になった。前々年の明治36年、藤村操が自殺したあと、安倍の1級上にいた岩波茂雄が、人生問題に悩んだ揚句、7月の進級試験を放棄した。岩波はそのとき信州の野尻湖にある琵琶島という小島に一人で住んでいた。対岸の野尻村から石田才吉という少年が時々食糧を運んで来てくれた。岩波の母うたは、息子がそのまま学業を放棄するのを心配してこの島へ来て、やっと彼の気特を転換させた。岩波はそのとき落第して2年生になった安倍や茅野と同級になり、安倍との間に親しい交際が始まった。翌明治37年、3年生になる進級試験に安倍が落ちたとき、岩波はまた落ちた。岩波は同学年で2度落第したので退学になった。

明治38年の夏休み、安倍は郷里松山へ帰らず、前々年の夏岩波が籠った琵琶島へ行った。彼は、その無人の小島に1ヵ月を過し、帰りに諏訪にある茅野の家を訪ねた。彼はの家に2,3日泊った。茅野は、自分の好きな女の人が木曽福島にいるから帰りに是非逢ってやってくれと言った。その人を詠んだ歌として茅野は、

「天なるや青雲うかぶ国なるや見て別れしは神の世なるや」というのを示した。

安倍は諏訪からの帰りに、木曽福島に出、茅野の紹介状をもってその女性を訪ねた。しかしその女性は安倍には少しも魅力的な女とは思われなかった。

翌明治39年春、茅野の妹が自殺した。妹は東京で茅野と同居していたが、恋人があり、その青年が肺を病んでいた。それに同情してその青年と一緒に房州の海へ投身自殺した。茅野は、明治39年6月号の「明星」に「妹よ」という小話を発表した。

その頃、茅野は安倍に向って、自分の姉も妹も恋愛問題で自殺した、と語った。そう語る茅野には、彼自身の中にも、いつ何事を引き起すか分らぬような押えられている激情があった。

茅野は、木曽福島の女性に失恋したか、または増田雅子を愛して容れられないかして、失恋苦を味わっていた。

増田雅子は茅野とちがって明るい魅力のある女性であった。明治37年4月、彼女は上京して、日本女子大学国文科に入っていた。ちょうどそのとき、夫山川駐七郎と明治35年に死別して実家に戻っていた山川登美子が上京して、同じ日本女子大学の英文科に入った。相識の間であったので2人は親密に交際した。登美子はこのとき数え26歳、雅子は25歳であった。その年の秋頃から、晶子、登美子、雅子と三人の合著の歌集「恋衣」を出す計画が出来て、その広告が「明星」11月号に出たとき、その題のためか、又は「明星」派に対する世間の白眼視のためか、学校当局は2人を停学処分にした。しかし鉄幹が講義しそれは解決した。

11月13日、茅野は千駄ヶ谷の新詩社へ行った日記の終りに「恋ごろもの出版、女子大学の方にて何か妨害せしとか、わからぬ人の多き世や、与謝野師の力にて出版することとはなりしとぞ」と書いた。

12月16日の茅野の日記。

「霜いたく置きて塞き朝なり。登校、安倍と運動場を散歩しつ、友は云へらく、君の寂しみは何処より来るや、回想せよ、回想せよ、客観に眺めよ、さらば価値を生ずべさぞと。吾もしか思へり、否、吾殆どこれを知る。吾は吾が身を投げ出して捧げうる人なきに堪へぬなり。あゝ孤懐に堪へずとはまことかゝることを云ふなるべし。(略)」

明治40年増田雅子は28歳。山川登美子は38年11月から腎臓を病み、やがて肺を悪くして、翌年夏には京都の義兄武久寅次郎のもとで療養生活に入っていた。茅野は数え25歳で東京帝国大学独逸文学科2年生で、その頃から雅子に対する恋は激しくなった。この頃、巌谷小波の弟子の生田葵山(きざん)が増田雅子に惚れているという噂がしきりであった。生田は気どったところのある青年作家で、「新小説」や「文芸界」に時々作品を発表していた。39年「大阪新報」に連載した小説「富美千姫」を左久良書房から出したが、発売禁止となった。明治四十年生田葵山は数え32歳であった。

その頃のある日茅野が、自分は恋に絶望したから旅に出ると言ったので、安倍は中央線の起点である飯田町の駅まで彼を送って行った。そのとき茅野は涙に顔を濡らし声を挙げて泣いた。安倍は彼の姉や妹のことを考えて、茅野は生きて再び帰ることがないのではないか、と思った。

だが、5月16日、雅子は茅野との結婚を承諾した。

7月26日、2人の結婚式は、諏訪と大阪の真中という意味で名古屋で挙げられた。馬場孤蝶が媒酌人となった。2人は結婚して新宿の郊外、内村鑑三の近くの柏木に住んだ。


つづく


2026年1月19日月曜日

〈高市総理、解散を表明も〉足を引っぱる萩生田氏…流出した旧統一教会文書に決定的な“貢献”と記載、安倍氏銃撃後も「どうか耐えてください」と教会を激励か | 集英社オンライン

「総理のクーデター」物価高や給食費より追及逃れ優先か なぜいま解散?高市総理が憧れる“安倍流”の影【報道特集】;「恣意的な解散をガンガン行ってきた国があまりない。裏をかいて解散をするやり方は本当に日本だけ」 / 「解散について『総理はウソをついてもいい』なんて、社会常識からしてそんな事は絶対有りません!」と日下部正樹キャスター / 高市総理が解散を選んだ背景で「1番大きいのは日中関係。レアアースに中国側の輸出規制が入ってきて国会で追及され厳しい予算委員会を想像しただけで自分にとっては不利な状況になると」(後藤謙次氏)   

 



 

大杉栄とその時代年表(740) 1907(明治40)年7月20日~25日 第3次日韓協約(丁未七条約)調印 渡韓の林外相・伊藤統監が原案作成。同時に李完用首相との間で(秘密)覚書。 韓国内政を統監監視下に(法令の制定・高等官吏の任免は統監の承認が必要)。 司法、行政、警察権の「次官政治」(大審院長・大審院検事総長・各部次官に日本人採用)、 軍隊解散(1万5200人、うち漢城に9600余)等。

 

純宗(前列左より2人目)と訪韓時の日本皇太子嘉仁親王一行(1907年)

大杉栄とその時代年表(739) 1907(明治40)年7月13日~19日 1907年7月15日(清朝の旧暦では6月6日)早朝、紹興軒亭口の刑死場で斬首、処刑された。31歳の若さであった。 秋瑾の遺句は「秋風秋雨、人を愁殺す」である。その後、多くの人に歌われた。 女性革命家であった秋瑾の処刑は、清当局が想像もしないほど大きな反響を呼び、その後の中国革命運動の精神的支柱の一つとなった。

1907(明治40)年

7月20日

韓国、午前10時、李完用に命じ旧帝・新帝欠席のまま譲位式挙行

夜、日本軍歩兵1個大隊、王宮侵入。譲位反対の宮内府大臣朴泳孝・内大臣兼侍従院卿李道宰逮捕(譲位式に侍衛隊に乱入させ諸大臣殺害を計画するが、事前に察知される)。9月3日、済州島に配流。

高宗は宮号「徳寿宮」を贈られ「徳寿宮高宗李太皇帝」となり(これまでの王宮慶運宮を徳寿宮と改称)、徳寿宮内に隠棲(実は幽閉)。

皇位を譲られた純宗は、皇后とともに徳寿宮を出て離宮であった昌徳宮(この時から正宮となる)に移る(11月)。

韓国内、騒乱続く。

政府軍侍衛隊兵士40人群集に加わる。日本人警官3人殺害。

姜泰鉉・宋栄根ら同友会会員らは決死隊を組織、警察署・駐在所・交番を襲撃。李完用邸・「国民新聞」社など焼打ち。

7月20日

福岡県の田川郡豊国炭鉱、大(ガス)爆発事故発生、365人が死亡。<明治期最大の炭鉱災害>

7月20日

この日付け漱石の野間真綱宛手紙

「小説はまだ書きおわらず。気の長いこと驚ろくべし。胃はよろしからず。旅行が致したし」


「七月二十日(土)、雨。胃の調子よくないが、旅行はしたいと思う。」(荒正人、前掲書)

7月21日

清国、軍諮処設置。

7月21日

日露、満州の鉄道接続につき条約署名。

7月21日

兵庫県灘五郷の酒樽職工300人、賃上げ要求し同盟罷業。

7月21日

大杉栄の堺利彦宛書簡(「監獄だより」七月七日付)が週刊『社会新聞』に掲載

7月22日

(漱石)

「七月二十二日(月)、来客の絶え間がない。鈴木三重吉、明日から房州に行くとのことである。謡をうたいたくなる。

七月二十三日(火)、野間真綱宛手紙に、「夫婦は親しきを以て原則とし親しからざるを以て常態とす。」と書く。

七月二十四日(水)、二十五日(木)、二十六日(金)頃、涼しい日続く。


最高気温、七月二十三日(火)三十度、二十四日(水)二十二・八度、二十五日(木)二十三度、二十六日(金)二十四・八度である。」(荒正人、前掲書)


7月23日

第1回満鉄社債400万ポンド、ロンドンで発行。

7月23日

ベルギーのレオポルド2世、ブリュージュ近郊のセーブルッケ新港の開港式。

7月24日

第3次日韓協約(丁未七条約)調印

渡韓の林外相・伊藤統監が原案作成。同時に李完用首相との間で(秘密)覚書。

韓国内政を統監監視下に(法令の制定・高等官吏の任免は統監の承認が必要)。

司法、行政、警察権の「次官政治」(大審院長・大審院検事総長・各部次官に日本人採用)、

軍隊解散(1万5200人、うち漢城に9600余)等。

送り込まれた日本人官吏:

宮内府次官小宮三保松、内部次官木内重四郎、法部次官倉富勇三郎、度支部次官荒井賢太郎、学部次官俵孫一、農商工部次官岡喜七郎、警視総監丸山重俊(西大門刑務所建設)、警務局長松井茂、総税務司署永浜盛三など。

7月24日

伊藤博文統監の要請により、歩兵第12旅団を朝鮮に増派。

9月26日、さらに臨時派遣騎兵隊4中隊を派遣。

7月24日

川上音二郎夫妻ら7人、パリ向け横浜発

7月24日

私立明治専門学校設立認可(福岡)。1909年7月開校。唯一の4年制工業専門学校。九州工業大学の前身。

7月24日

啄木、宮崎郁雨(大四郎)、並木翡翠(武雄、旧姓加藤)、吉野白村、岩崎白鯨(正)、西村彦次郎と大島流人(経男)送別の記念写真をとる。

7月25

第3次日韓協約公示。


つづく

2026年1月18日日曜日

「当然合憲」公明・西田氏、安保関連法巡り「新党は賛同する人が参加」 立民は違憲掲げる(産経); 西田氏は、「中道改革連合」を巡り、集団的自衛権の限定行使を可能とする安全保障関連法について「当然合憲だ。基本政策に書く。それに賛同する人が参加するのが新党だ」と語った。 / 中道は「右翼ポピュリズムに対抗」する上で意義…法政大・山口二郎教授が語る立憲民主と公明の「新党」(東京) / 本当にファッショ化を懸念してるなら「人民戦線」であって「中道連合」はのんきすぎるだろ。さらに右に引きずられるよ(中野晃一)。   

高市早苗首相との意思疎通「なし」 自民党幹事長、衆院解散巡り(日経) / 首相との意思疎通できてなかった - 自民幹事長、衆院解散巡り認める(共同) / 「麻生副総裁の立腹は相当なもの」 高市首相が仕掛けた“奇襲解散”に党幹部から反発が起きている理由(デイリー新潮) ; 【高市総裁、自ら任命した鈴木幹事長を「最弱の幹事長」と酷評 自民党関係者が曝露】 >「高市首相は鈴木幹事長のことを軽んじている。鈴木氏の義兄である麻生太郎副総裁(85)の名代といった程度に見なし、かねて“最弱の幹事長だ”とさえ評してきました」    

円安は投機より日本の「実力低下」反映 為替介入だけに頼るな(日経) / 「責任ある積極財政」信じぬ債券市場 熱狂の株式市場と異なる評価軸(日経); アルゼンチン、トルコ、日本。為替下落率の不動のトップスリーだ。 「本来、国内金利が上昇すれば、内外金利差が縮小して円が買われやすくなる」。「米国の長期金利との差は24年末の約3.5%から直近では1.9%台まで縮小」した。それでも円が買われないのは「金利の質」が悪いからだ。 「見た目の金利は上がっているものの、リスク懸念に由来する上乗せ金利が拡大しているだけ、国債への信頼が下がっている」




 

大杉栄とその時代年表(739) 1907(明治40)年7月13日~19日 1907年7月15日(清朝の旧暦では6月6日)早朝、紹興軒亭口の刑死場で斬首、処刑された。31歳の若さであった。 秋瑾の遺句は「秋風秋雨、人を愁殺す」である。その後、多くの人に歌われた。 女性革命家であった秋瑾の処刑は、清当局が想像もしないほど大きな反響を呼び、その後の中国革命運動の精神的支柱の一つとなった。

 


大杉栄とその時代年表(738) 1907(明治40)年7月5日~12日 「韓国皇帝陛下が日韓協約を無視し、我政府を介することなく別に国際的行動を試みんとし玉いたる事実は則ち存す。此事実が重大なり。本来韓国皇帝は国際上の無能力者なり。此を以て日韓協約あり、此を以て統監あり。統監は日本に於て天皇に直隷し、韓国に於て直接管理指導の任に当る。而して猶今度の事あらしむるは何ぞや」(社説「伊藤統監の責」(「東京朝日」) )

1907(明治40)年

7月13日

呉・越地方での蜂起を計画を暴いた清朝政府、浙江紹興で首謀者女性革命家の秋瑾(32)を逮捕。15日処刑

〈Wikipediaより〉

日本での孫文らの革命運動の高まりを警戒する清朝政府の要請と、大陸における利権確保に動いた日本政府により、中国革命運動に対する取締りが強化され、1905年(明治38年)11月、清国留学生に対する取締規定が厳格化された。

秋瑾は、これに抗議して全員総引揚げを主張し12月に帰国した。

帰国前、中国留学生会館で開かれた浙江同郷会の集会での秋瑾の様子について、魯迅の弟周作人は著書『魯迅の故家』で次の様に書く。


「留学生はこぞって反対運動を起こし、秋瑾が先頭になって全員帰国を主張した。年輩の留学生は、取締りという言葉は決してそう悪い意味でないことを知っていたから、賛成しない人が多かったが、この人たちは留学生会館で秋瑾に死刑を宣告された。魯迅や許寿裳もその中に入っていた。魯迅は彼女が一ふりの短刀をテーブルの上になげつけて、威嚇したことも目撃している」。

秋瑾は、帰国後、少女時代を過ごした紹興に住み、1907年正月には大通学堂を開校し代表者となる。この大通学堂は、光復会の幹部を訓練し組織化するために設立された革命拠点である。秋瑾はまた、浙江省各地の会党と連携して「光復軍」を結成し、武装蜂起に向けた準備を進めた。更に、1907年1月14日には秋瑾らが中心となって、上海において『中国女報』を創刊している。

1907年5月、徐錫麟が安徽省安慶で武装蜂起を計画。秋瑾も浙江で呼応すべく準備を進めた。しかし、打ち合わせた日時の食い違いから、7月6日、先に徐錫麟が、安慶で蜂起し清朝政府の安徽巡撫の恩銘を刺殺したものの、鎮圧・処刑されてしまう。

当局は秋瑾の浙江での蜂起計画も察知。同志らは秋瑾に一時避難するよう勧めたが、秋瑾は大通学堂に留まった。

7月13日、学堂を包囲する清軍に秋瑾も逮捕。

2日後の1907年7月15日(清朝の旧暦では6月6日)早朝、紹興軒亭口の刑死場で斬首、処刑された。31歳の若さであった。

秋瑾の遺句は「秋風秋雨、人を愁殺す」である。その後、多くの人に歌われた。

女性革命家であった秋瑾の処刑は、清当局が想像もしないほど大きな反響を呼び、その後の中国革命運動の精神的支柱の一つとなった。


7月13日

侍従長徳大寺実則、対韓処理に関する天皇の意思を伊藤博文と西園寺公望首相に伝達。

7月19日韓国皇帝光武帝(高宗)、皇太子李坧に譲位の詔勅を発する。以後、各地で排日暴動発生。

7月13日

堀保子と堺利彦が大杉栄の面会に現れる。この頃、大杉栄が獄中でイタリア語を独学していた。

7月14

対外強硬派衆議院議員河野広中・小川平吉・国家主義団体玄洋社頭山満ら6人、朝鮮合併か委任かの断行迫る建言書を政府提出。<韓国併合論の台頭>

7月14

(漱石)

「七月十四日(日)、午前中、寺田寅彦来て、今日の『読売新聞』に「単軌鉄道」(モノレール)のことが出ていたと残念がる。『東京朝日新聞』のために同じ主題の原稿を書いていたからである。渋川柳次郎(玄耳)宛葉書で寺田寅彦の原稿掲載を見合わせるように伝える。松根豊次郎(東洋城)来て、謡を四、五番謡う。松枝東洋城から高浜虚子が松山市に帰ったことを知る。松山市にいた時、弓をひいた垜(あずち)がまだ残っていることを聞き、今昔の感に堪えぬ。道後温泉にも行きたいと思う。

七月十五日(月)、寺田寅彦の科学記事を『東京朝日新聞』に掲載するように取り計う。(四十一年十一月十八日(水)まで続く)

夜、松枝豊次郎(東洋城)と『俊寛』を謡う。寺田寅彦・鈴木三重吉・野上豊一郎来る」(荒正人、前掲書)

7月15

林菫外相、韓国に向け出発。18日、漢城入京。

7月15

広島県矢野川氾濫し、被害甚大

7月中旬

石川啄木、函館・弥生小学校の無断欠勤始る。

7月16

韓国、李完用首相、皇帝に譲位奏請。皇帝は拒否。17日にも。

7月16

この日付けの漱石の高浜虚子宛て手紙

「『虞美人草』はいやになった。早く女を殺してしまいたい。熱くてうるさくって馬鹿気ている。これインスピレーションの言なり」

7月16

山川均、獄中の大杉栄、石川三四郎、大脇直壽宛に葉書を書く。

7月17

鉄道及び炭坑授受に関する日露協定調印。

7月17

富山県下新川郡泊町の貧民婦女500人、米価騰貴のため地主に米輸出の差し止め要求。

7月18

韓国、第3回午前会議。

閣僚一同、皇帝に譲位奏請求。深夜、高宗は皇太子李坧の国政代理を容認(摂政を容認するが、自らの退位は表明せず)。

7月18

夕張炭坑同盟罷業。

7月18

(漱石)

「七月十八日(木)、行徳俊則立ち寄る。渋川柳次郎(玄耳)を紹介し、渋川は、毎朝八時までなら麹町区隼町四番地(現・千代田区隼町四番地) の自宅にいると伝える。上田敏来て、『文學諭』の批評をする。

七月十九日(金)、雨降り続き鬱陶しい。夜、散歩中に野間真綱来て、三省堂の件を名刺に書置いて帰る。比叡山で講話会をやりたいと云ってくる。(大阪朝日新聞社からか)多分行かぬ、暇あれば北の方に行きたいと思う。」(荒正人、前掲書)

7月19

韓国、午前3時、大韓政府、高宗譲位を発表。

大漢門前広場には5千人の群集。

日本軍官憲鎮圧。王宮占領、市内巡回。龍山の火薬庫制圧。南山山麓倭城台地に野砲6門設置。大漢門前広場の群集排除。日本人警官小出梅太郎巡査が投石で顔面に重傷を受けるや、日本官憲は群衆を銃撃。

夕方、侍衛隊第3大隊兵士40、2隊に分れ、1隊は鐘路巡査派出所を破壊、他の1隊は鐘路で警戒中の警部・巡査4人を射殺。


7月18

貧困者救済を目的とした東京慈恵会設立(東京市芝愛宕町)。理事徳川家達、大倉喜八郎、渋沢栄一ら、東京慈恵会医院設立。

7月19日

この日付け漱石の小宮豊隆宛て手紙

「虞美人草は毎日かいている。藤尾という女にそんな同情をもってはいけない。あれは嫌な女だ。詩的であるが大人しくない。徳義心が欠乏した女である。あいつを仕舞いに殺すのが一篇の主意である。うまく殺せなければ助けてやる。しかし助かればいよいよ藤尾なるものは駄目な人間になる。最後に哲学をつける。この哲学は一つのセオリーである。僕はこのセオリーを説明するために全篇をかいているのである。だから決してあんな女をいいと思っちゃいけない」


7月19日

東京府下西大久保の独歩の自宅で大久保文士会を開催。

独歩は、ある日遊びに来た吉江喬松に、色々な文士が大久保に住んでいるから、大久保文士会をやろう、と言った。吉江は病気の独歩を慰めるためにはいいことだと考え水野葉舟と相談した。大久保には適当な料理屋もないのを聞いて、独歩は、それでは自分の家で開こうと言い、すぐに日は7月19日、会費50銭で鰻丼と決めた。

当日集まった文士は、数え39歳の大町桂月、38歳の戸川秋骨、28歳の吉江喬松、25歳の水野葉舟、29歳の前田晃、24歳の片上伸などであった。

独歩の細君治子はそこに一度挨拶に顔を出しただけで、そのあとば女中とも見えない若い女である奥井君子が座の世話をした。

君子は、3年前に独歩の父専八が死ぬ頃の附添看護婦であったが、そのあとも手伝いのように国木田家に住み込んでいた。治子は君子を女中のつもりで扱っていたが、君子の態度が何となく圧迫的なものに思われて来て、やがて独歩と君子の関係に気づいた。治子はしっかりした女性だったので、君子をこの家から出すようにと厳しく独歩に交渉した。しかし独歩は治子の言うことをまともに取り上げなかった。治子はこの妻妾同居の生活に耐えられず、家を出ることを何度か考えたが、3人の子供のいることを考えると、その決心も鈍った。そのうち独歩の病が重くなると、君子を置くことが手助けとして必要にもなって来た。

(『日本文壇史』より)


7月19日

伊豆鉄道会社、豆相鉄道会社を合併。


つづく