2011年6月12日日曜日

永禄4年(1561)11月2日~12月25日 武田信玄、北条氏康と呼応して西上野に本格的侵攻  [信長28歳]

永禄4年(1561)11月
この月
・音明城(那賀郡)主の福屋隆兼、反旗を翻し、支城の川上松山城に籠る。
毛利元就、隆兼の属城中ノ村・矢山城(邑智郡)を落とす。
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・北条氏康、武蔵松山城を攻撃。上杉政虎は直ちに兵を率いて出陣。
27日、政虎、武蔵生山で北条軍を破る。
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11月2日
・武田晴信(信玄)、北条氏康と呼応して西上野に本格的侵攻
この日、武田信玄、北佐久郡松原神社に願文。
信玄、上杉上野方倉賀野城攻撃。氏康3万、武蔵松山城包囲。
政虎の厩橋城外到着の報に信玄・氏康、兵を引く。
先の出陣で越後勢が帰国すると、武蔵忍の成田氏や下野唐沢山の佐野氏、常陸小田の小田氏らが北条方に寝返り、再び関東の地を北条勢が跋扈。
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11月4日
・三条西公条、正親町天皇に古今伝授を行う。
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11月5日
・大友義鎮勢、夜陰に乗じ豊前門司城から撤兵。
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11月6日
・小早川水軍は、先回りして待ち伏せ。
小早川隆景は、浦宗勝・野嶋氏・来島氏ら水軍衆を引き連れ、黒田原(京都郡勝山町)から国分寺原(京都郡豊津町)あたり一帯で待ち伏せ、撤退中の大友軍に打撃を与える。
大友側は如法寺・津崎氏らが救援。宇佐郡衆を率いる佐田隆居は奮戦、吉岡長増・臼杵鑑速らと合流し、2将の部隊の撤退を援護。
毛利軍は松山城と香春岳城ら北豊前の諸城を占領。
大友義鎮はこの敗戦を機に仏門に入り、宗麟と改名。足利義輝に黄金50両を贈り、毛利氏の約束非道を訴える。
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11月8日
・里見義弘、水軍を率いて北条領相模三浦に攻め寄せる。
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11月12日
・上杉政虎(謙信)、下野小山城を攻める。
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11月18日
・武田晴信(信玄)、上野高田城を攻略。
24日、碓氷峠を越え上野に侵攻、甘楽郡国峰城を攻略。一族の内紛により城を追われた小幡憲重・信実父子を復帰させる。
19日付け吾妻郡の鎌原氏宛て書状。
近日にも兵を「その筋(吾妻郡)へ遣わすく候」と述べる。
鎌原氏は隣接の三原荘羽尾氏との境界争いに関して信玄に支援を要請。鎌原氏は真田氏と同族の海野一族で、真田幸綱が信玄に取り次いだものと思われる。
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11月21日
・ポーランド・リヴォニア協定。
リヴォニア騎士団長ケトラー、ポーランド王ジグムント・アウグストの臣下となる。
(リヴォニアのドイツ騎士団の分枝は、解散。
リヴォニア、ポーランド領。エストニア、スウェーデン領。
クールラントの騎士団地方長官ゴッットハルト・ケラー、ポーランドのレーン高権下で世襲の公位を獲得 )
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11月24日
・京都勝軍山の六角勢と岸和田根来勢が総攻撃開始。
①京都戦線:
松永久秀、善戦。先手松山新太郎が勝軍地蔵山・神楽岡を攻め、六角義賢の部将永原重澄(戦死)・薬師寺兄弟・柳本兄弟らを討つ。近江衆2万総崩れ。
②岸和田戦線:
三好実休、苦戦、後退。
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11月27日
・上杉政虎(謙信)、上野厩橋城に入り。続いて北条氏康と武蔵松山で戦う。
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11月28日
・北條氏政、桜井左近等の武蔵生山での戦功を賞する。
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12月
・毛利隆元・隆景、門司より矢上へ向かう。
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・足利学校焼失。
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・武田晴信(信玄)、信濃の長窪・大門宿中に対し、伝馬規定を与える。まだ定型様式にはなっていない。    
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12月4日
・三好長慶、京都大山崎郷の徳政令を免除(「離宮八幡宮文書」)。
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12月5日
・蘆名盛氏、領内に徳政令を出す。
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12月7日
・武田晴信、北条氏と共に倉賀野城を攻める。
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12月21日
・武田晴信、大塚郷(藤岡市)を本領としていた小林監物が「今度最前へ降参」したので本領復帰を約束。この頃には、隣接する高山郷(藤岡市)の高山氏も帰属。
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12月25日
・根来衆、飯盛山麓の三箇城を急襲。城将三好政康弟政成討死、落城。
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「★織田信長インデックス」 をご参照下さい。
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