2026年5月6日水曜日

大杉栄とその時代年表(816) 1909(明治42)年1月2日~9日 「森先生の会だ。四時少しすぎに出かけた。門まで行つて与謝野氏と一緒、吉井君が一人来てゐた。やがて伊藤君、千樫君、初めての齋藤茂吉君、それから平野君、上田敏氏、おくれて太田君――今日パンの会もあつたのだ。 題は十一月からの兼題五、披露が済んで予が十九点、伊藤君が十八点、寛、高湛、勇の三人は十四点、その他――」(啄木日記)

 

観潮楼の復元模型

大杉栄とその時代年表(815) 1909(明治42)年1月1日 森田草平「煤煙」(「東京朝日新聞」~5月16日)事前に漱石から平塚明子(雷鳥)の父定二郎へ、草平は事件により中学教師の職を失い、もの書き以外に生きる道がなく、事件を題材に小説を書く許可を求める手紙。母光沢が断りに出かけるが、漱石に押し切られる。 新聞は12月1日より小説掲載予告を派手に宣伝。 12月中旬、明子は信州から帰郷し草平を訪問、不在のため絶縁の手紙を託す。 小説の反響は大きく、草平はスキャンダルを売り物に有名作家となる。小説中の明子の手紙は、約束に反し半分程が手を加えられており、やがて明子は「煤煙」に対する意見や自己の内面を表白する作品を公開し始める。 より続く

1909(明治42)年

1月2日

袁世凱失脚。

摂政王載澧、軍機大臣袁世凱、罷免。袁、河南に引退。(足疾を理由に強制帰郷)張之洞死去。この2人を失ったことにより、清国における議会選挙の夢打ち砕かれ、権力は満州族の手に渡る。

1910年、資政院(諮問議会)、国会即時開設の要求を決議し1913年に実現が約束される。

1月2日

米・コロンビア間に協約調印。コロンビア、パナマの独立を承認。1914年に結ばれた条約により、コロンビア、パナマに一部特権確保。米、パナマ独立承認の代償として2,500万ドル支払うことに合意。

1月2日

ロシア、この日、日本大使館で新年会。外国語学校露語科の卒業生14、5人も集まり、二葉亭に直接教えを受けたものも何人かいた。関係者全員が彼を囲んで「二葉亭先生万歳」をとなえた。この席で二葉亭は、シベリア鉄道と南満洲鉄道の相互乗入れ、および沿海州・日本航路の連絡交渉のため滞在していた満鉄の後藤新平の部下田中清次郎、大阪商船の末永一三、ロシア人の妻を持ち田中と末永の仕事を助ける有能な通訳夏秋亀一らと知りあい、心をひらいて歓談した。この日が二葉亭のロシア滞在中最良の日となった。

1月4日

清国、仏間に中越交界禁匪章程成立。

1月5日

福田英子「第三週年」(「世界婦人」第32号)。

1月5日

(漱石)

「一月五日(火)、狩野亨吉宛葉書に、「頂戴の時計今日より又鳴り出し申候御安神可被下候 以上」と書く。村上半太郎(霽月)宛葉書に、「謹んで賀正の辭/を呈し奉る/初日の出しだいに見ゆる/雲静か」(己酉正月五日となっている)」(荒正人、前掲書)

1月6日

杉村春子、誕生。

1月7日

韓国、伊藤統監、純宗皇帝に陪従して南部地方をデモンストレーション。~13日。

27日~2月3日、北部地方。

1月7日

(漱石)

「一月七日(木)、木曜会。西村誠三郎(濤蔭)来る。市川文丸(青森県三戸那是川村、現・青森県八戸市是川)から、油紙に包んだ山鳥を送られる。小包のなかに手紙同封され、借金は三月に上京の折に必ず返したいと書かれている。夕方、木曜会に集った五、六人と共に、山鳥の羹(あつもの)を食べる。一同帰った後で、市川文丸宛に山鳥の礼と先日用立てた金については心配無用と書く。伸六、一日中泣き続ける。小宮豊隆泊る。(「草平を訪問して『煤煙』を褒める。草平は、自分のハガキが『煤煙』に関する最初の批評だったと言って、喜んでゐた。先生〔夏日漱石〕のをまだ讀んでゐないのである。その由を教へる。」(「小宮豊隆日記」))

一月八日(金)、朝、小宮豊隆帰る。黒紋付で室生新来る。稽古初めに、『土車(つちぐるま)』を少し習う。鏡、産褥を離れる。伸六、泣き続ける。胃病むので、懐炉を抱いて寝る

一月九日(土)(推定)、曇。寒さ甚だしい。雪降る。胃の痛み大分薄らぐ。伸六、また泣き出す。到底仕事できぬ。余り寒いので、湯に入って元気つけようと思い、手拭いさげて玄関に行くと、客が来る。知人で、金を貸して欲しいとか身の上相談受ける。夕刻、風呂に行く。帰って部屋に戻っていると、鏡、蕎麦湯を持って来る。伸六、暫くして泣きやむ。二、三日前からお梅(女中)は病気で、医者に往診を依頼している。盲腸炎の疑いがある。(「火鉢」『永日小品』による)

一月十日(日)、前夜からの雪まだやまぬ。坂元三郎(雷鳥)から数日前に長い手紙貰ったので、その返事に、「雪が降るので火鉢を擁して此手紙をかく。夫から又原稿をかく。何でも夢十夜の様なものとの注文だから毎日一つ宛かいて大阪へ送る積りである。僕が原稿の催促を受けて書き出すと相撲が始って記事が不足しない様になる。社の方では気が利かないと思ってゐるだらう。」と書く。ついで、高須質淳平来て、金山の話・品川の話をして帰った後、桑原喜市何十年振りかで現れ、会津の奥に蛋白石の鉱区を持っていると話す。

一月十一日(月)、夜、飯田政良(青涼)から手紙来て、『町の湯』金に替えることのできる新聞か雑誌か本屋を紹介して欲しいと依頼される。(推定)同時に、坪内逍遥からも宜しく頼むと手紙届く。」(荒正人、前掲書)

1月8日

「一月八日 金曜 曇 寒

おそく起きた。咽が痛い。しきりに咳が出る。頭が半分いたい。

・・・・・午後四時頃、平出から昴の会議をやるとの電話。

すぐ行つた。平野吉井平出、アトから川上君、与謝野氏、栗山君、都合七人で九時ごろまでやつた。意見はすべて予の言ふことが通つた。平野は大分予が物をいふ度に不快な顔をしてゐた。

予は勝つた。編輯担任者はその号に全権をもつことにした。そして平野がやると言つてゐた短歌の添刪までもとりかへした。平野の言ふことは皆やぶれた。

(略)

そばをくつてかへる。少し熱が出た様だ。留守中に太田正雄君が来たとかで名刺があつた。今日帰京してすぐ来てくれのであらう。

(略)


一月九日 土曜 曇 夜雪 寒

十一時ごろに起きた。頭がいたく、のどが痛い。風邪がすこしも直らぬ。

太田君から電話。

(略)

一時頃に太田君が赤い顔をして元気よく入つて来た。旅中に沢山材料をえたと言つてよろこんでゐた。予は予の編輯する号は君と北原には蹂躙にまかせると言つた。三時まで話した。二号には(南蛮寺門前)といふ脚本を貰ふ約束。

森先生の会だ。四時少しすぎに出かけた。門まで行つて与謝野氏と一緒、吉井君が一人来てゐた。やがて伊藤君、千樫君、初めての齋藤茂吉君、それから平野君、上田敏氏、おくれて太田君――今日パンの会もあつたのだ。

題は十一月からの兼題五、披露が済んで予が十九点、伊藤君が十八点、寛、高湛、勇の三人は十四点、その他――

(略)」(啄木日記)

(*)「森先生の会」;鷗外主宰の観潮楼歌会

(*)「高湛」(たかしづ);鷗外


1月9日

文部省、学校主催の講演会、記念会、運動会など、華美、浮薄に流れないよう訓令。

1月9日

李王世子殿下、学習院中学部に入学

1月9日

森鴎外主催観潮楼歌会。啄木(23)、斎藤茂吉と会う。歌会で啄木最高19点を獲得

1月9日

漱石「文士と酒、煙草(談話筆記?)」〔一月九日『国民新聞』。アンケートに答えたもの〕

1月9日

モーリス・ラヴェルのピアノ曲『夜のガスパール』、パリで初演。

1月9日

カリフォルニア州に排日問題再発。


つづく

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