2011年6月5日日曜日

永禄4年(1561)8月1日~10月31日 宣教師ガスパル・ヴィレラの堺再訪 川中島4度目の激戦 家康の西三河平定 信長、美濃堂洞城を陥落 [信長28歳]

永禄4年(1561)8月
この月
・大友義鎮の将兵、毛利方の宗像氏貞を筑前白山城に攻める。
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宣教師ガスパル・ヴィレラ、再び堺訪問。1年間、日比野了珪宅に滞在して布教活動。成果少なく1年間で約40人。
日比屋了珪は、豊後にいるトルレスに「進物を添えて書状を送り、デウスの愛により、デウスの教えを説く者を派遣することを請」い、ヴィレラが再び堺に来る。
以後1年、ヴィレラは日比屋家に滞在し、昼はヴィレラ、夜は日本人ロレンソと交替で、精力的な布教活動を展開。
しかし堺での布教は容易ではない。
「堺の町は甚だ広大で、大きな商人が多数いる。この町はベニス市のごとく執政官によって治められている」、
「日本全国当堺の町より安全な所はなく、他の諸国において戦乱があっても、この町にはかつてなく、敗者も勝者も、この町に来住すれば皆平和に生活し、諸人相和し、他人に害を加える者はいない。
市街においてはかつて紛擾が起こったことがなく、敵味方の差別なく皆大きな愛情と礼儀をもって応待」するが、「当堺の人は土地富裕であるために大いに名誉を重んじ」、「世人の評判と信用が、かれらをデウスの教えの真理に従うことを躊躇させるのだ」と告白する者もいて、「この町の人は倣慢で信義を重んずるので、長く待つのでなければ効果を期待することができな」い。
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・宮ノ前事件。
肥前平戸の七郎ノ宮の門前、ポルトガル商人フェルナンデスら13人と日本人1人が綿布の取り合いでイザコザ。
そこに松浦家臣伊藤甚三郎が通りかかる。フェルナンデスらは伊藤に斬られると勘違いして襲いかかる。伊藤は13人を斬る。
後、宣教師コスメ・デ・トルレス、今後貿易は松浦家とは行わず大村家と行うと宣言。
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・畠山高政、河内金剛寺へ全3ヶ条の「禁制」下す(「金剛寺文書」)。
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8月2日
・朝廷、六角軍の禁中乱入を停止(「御湯殿上日記」)。
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8月2日
・徳川家康を竹千代時代に養育した隋念院、歿。
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8月3日
・木下藤吉郎(25)、織田家弓衆浅野又右衛門長勝の養女おね(実父杉原定利)の入婿となる。
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8月8日
・上杉謙信、1万3千の軍を率いて越後春日山を発つ。
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8月14日
・上杉政虎1万3千、信玄と雌雄を決すべく越後府中進発。善光寺に5千残し、8千で犀川渡り信濃海津城西の妻女山布陣。武田勢は海津城(高坂弾正昌信)。
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8月14日
・三好義賢(実休)、河内観心寺へ、臨時課役・闕所検断等は「先規」の如く免除、また、新儀以下の寺内・郷中に於ける諸公事取を免除(「観心寺文書」)。
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8月17日
・武田信玄1万7千、甲府進発。信濃川中島に出陣。
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8月17日
・「諸人の彼(本願寺宗主)に与うる金銀ははなはだ多く、日本の富の大部分は、この坊主の所有なり」(「耶蘇会士日本通信」。
ポルトガル宣教師ガスパル・ビレラがインドのイエズス会に送った報告書)。
本願寺の財力、寺内町の経済力・交易力。
2年前の永禄2(1559)年12月には、本願寺の献金により正親町天皇は即位式ができ、本願寺は門跡寺院に列せられている。
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8月19日
スコットランド女王メアリー・スチュワート(18)、夫フランソワ2世死去のため13年ぶりにフランスよりスコットランドに戻る
9月1日、エディンバラ城入り。父王庶子マリ伯ジェイムズ・ステュワート(異母兄、プロテスタント)とウィリアム・メイトランドを政治顧問とする。プロテスタント迫害なし。イングランド近海の通行をめぐって、エリザベス1世と行き違い。
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8月19日
・幕府、朝廷に内裏六町の町衆に将軍義輝邸の堀を掘らせる許可を請い、認められる。
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8月21日
・武田信玄、信州諸将を吸収し2万にふくれあがって塩崎に到着。
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8月21日
・毛利元就、隆元・小早川隆景を豊前門司城の救援に派遣。
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8月21日
・ロシア、イヴァン4世(雷帝)、2度目の結婚。
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8月24日
・武田信玄、信濃川中島に到着、雨宮の渡し付近に布陣。
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8月24日
・松平元康(20、家康)、今川氏真の属城三河長沢城を攻略。
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8月27日
・武田信玄、茶臼山に布陣し、海津城とで政虎の退路遮断。自らも背後に善光寺上杉勢を控える。
両軍対峙。
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8月27日
・フランス、「三部会」、新たに開催。
非聖職者、ポオントワーズに集結(王権に対する新たな援助金を悉く拒否、国庫の不足分は聖職者財産を没収して埋めろ)。
聖職者、ポワシーのドミニコ会女子修道院に集結。
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8月29日
・武田信玄、海津城に入城。
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9月
・毛利軍、大友方の香春岳を攻撃。
大友の城将志賀常陸介らは、城を捨て豊後へ退却。毛利側は数ヶ月で香春岳を奪回。
後、杉氏一門(大内義隆の守護代を勤めた杉興運の一門)の杉連緒が香春岳在城を命じられる。
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9月2日
・大友義鎮、豊前門司城(仁保隆康以下3千人)を、陸からは吉弘加兵衛尉1万5千で、海からはポルトガル船の砲撃で総攻撃。
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9月2日
・幕府、京都北野社人と洛中洛外土倉との酒麹役相論を裁許し、西京諸住へ安堵(「北野文書」)。
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9月9日
・武田信玄の軍議。山本勘助が「啄木鳥の戦法」を献策、採用。
夜、武田勢飯富虎昌のきつつきの戦法、1万3千で夜襲。8千の主力殲滅。
上杉政虎、真夜中密かに妻女山を下り、雨ノ宮の渡しから千曲川を渡って川中島に出る。
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9月9日
・フランス、ポワシーの「討論会」。
カトリックとユグノー教徒の代表、ポアシーで会見。
カトリーヌ・ド・メディシス、「信教の自由」と「国内の和解」を目指し新旧両派をポワシーに召集。
「討論会」は新旧両派の対立を深める(テオドール・ド・ベーズ対ロレーヌ枢機卿)。
カトリーヌ・ド・メディシス、周囲からの憎悪だけでなく教皇ピウス4世の怒りまでもかう
(教皇ピウス4世は、カトリーヌが勝手に公会議を召集し信仰に関する裁定を下そうとしていることに我慢ならない)。
カルヴァンは出席要請されるも欠席、腹心テオドール・ド・ベーズ派遣。
和解ならず。
年末には新教徒虐殺事件頻発。
宰相ミシェル・ロピタルは二教会併立と政教分離が和平の道と確信。
「良心は、力をもって左右することのできぬ…決してこれを抑圧したり犯したりしてはならぬ。もし、信仰でも、それが強いられれば、それはもはや信仰ではない。」(宰相ミシェル・ロピタル)。
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9月10日
川中島4度目の激戦
八幡原で両軍主力激突。
武田勢全滅の危機。副将武田信繁(37、信玄弟)・小笠原長詮・山本勘助、討死。譜代家臣宿老信濃柏鉢城城代両角虎定、討死。信玄負傷。
武田勢妻女山夜襲隊参戦で形勢逆転、上杉勢退却。
「信玄勝利」(「武田三代軍記」)。
「武田2万6千、手負い1,850、討死3,216。越後手負い1,979、討死3,116」(「川中島五箇度合戦之次第」)。
「武田方討死4,630、上杉方討死3,470」(「甲越信戦録」)。
真田昌幸(15)、信玄の近習として参戦。昌幸の初陣といわれる。
以降、善光寺平は武田氏の支配下に入る。
また、信越国境地域・西上野への侵攻が加速される。
永禄11年7月には上杉方の北信地域の最後の拠点飯山城(飯山市)も一時的に攻略される。
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9月11日
・北條氏政、太田康資に辛垣山・日尾・天神山の攻略を伝う
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9月13日
家康、西三河を平定
松平元康(20、家康)が東条城の吉良義昭を攻め、西三河を平定する。
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9月18日
・小早川隆景、赤間関に着陣。水軍500隻・小早川勢1万が着陣。
後、毛利隆元、8千を率い防府の大専坊に本陣をおく。
毛利氏方堀立壱岐守・杉彦三郎ら800、関門海峡を渡り門司城に入城。
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9月22日
・絵師・土佐光茂、正親町天皇筆の般若心経に金銀泥絵を描く。
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9月28日
信長、美濃堂洞城の斉藤方岸勘解由らを攻め、これを落とす
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10月1日
・武田信玄、碓氷郡松井田城(安中市松井田町)城主諏訪宰相宛て書状で、今度出陣するので「先約」に相違なきようにといい、もし事前に露見し在所を退去せざるを得ない場合は、信濃で300貫文与えると述べる。
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10月13日
・松永久秀、南都眉間寺を廃し、多聞山城を築く。4層の天守閣が作られる。
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10月21日
・フランス、僧侶、身分、国庫への財政的援助に同意するポワシー協定が成立。
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10月24日
・尼子義久、日御碕社小野政光に出雲の宇竜浦の支配権を安堵。
宇竜浦での北国船諸役は政光の処置に委任、唐船着岸のとき尼子氏御用の物を除き諸役については政光が指示、と定める。
永禄6年5月にも尼子氏老臣より政光に宛てて、北国船・北国船問職・唐船着岸について同様の指示をする。
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10月31日
・フランス、ギーズ兄弟、王弟アンリ(3世)誘拐計画、失敗(ギーズ兄弟、フランスがカルヴァン主義の国家になることを恐れ、アンリを人質に 取る計画)。
カトリーヌ・ド・メディチ、ギーズ兄弟を憎悪。
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「★織田信長インデックス」 をご参照下さい。
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