1908(明治41)年
12月6日
「十二月六日。
(略)
午後一時、三秀舎へ行つて、少し直すところがあるので“赤痢”の原稿を持つて来た。門の前で、吉井君。入つて話してると、二時頃、女中が来て“先夜の方が”といふ。小奴だ。別室に通しておいて室に戻つてくると、吉井はすぐ帰つた。奴をつれて来て、夕方まで話す。突然平野君が来て半時間許りゐて帰つた。
それから小奴と二人、日本橋の宿へ電車で行つて、すぐまた出た。須田町から本郷三丁目まで、手をとつて歩いた。小奴は小声に唄をうたひ乍ら予にもたれて歩く。大都の巷を――。俥で鈴本へ行つて、九時共に帰宿、金田一君を呼んで、三人でビールを抜き、ソバを喰つた。
十二時に帰した。通りまで送つた。
十二月七日
(略)
日本橋から今日来てくれとの電話。予は先頃から電話をかけることをおぼえた。どうも変なものだ。
夕方一寸平野君。
飯がすむと日本橋へ行つた。(お待兼でムいます。)と女中が階子口で言つた。奴は八畳間に唯一人、(逸身氏は大坂に行つて了つたのだ。)寂し相に火鉢の前に坐つてゐた。イキな染分の荒い縞お召の衣服。
共に銀坐に散歩した。奴は造花を買つた。
それからまた宿に帰つて、スシを喰ひ乍ら悲しき身の上の相談――逸身の妾になれ、と勧めた。
十一時、言ひがたき哀愁を抱いて一人電車で帰つた。
十二月八日
(略)
電話、昴の用で来てくれと平野君から。
二人で平出君許へ行つて、ハガキ広告をやるその台帳のハガキを分類した。・・・・・
夕方三人で三秀舎にゆき、それから予の許に来ることにして、電車。菊坂町でビールをのみ、洋食二三皿を食つて帰宿、三人で色々“昴”の話。
(略) 」(啄木日記)
12月7日
内閣、公文書にインキの使用を認める。
12月8日
平賀譲、6月30日英国海軍大学校造船科卒業(3年の留学修了)し、仏伊の造船所視察などのあと、この日ロンドン出港。
12月8日
(漱石)
「十二月八日(火)、昼から夜にかけて、体不調である。
十二月十日(木) (推定)、午前四時過ぎ、鏡の枕許で女中が腰を抜かし、震え声で何か叫んでいる。火事と思い飛起きると、泥棒だという。鏡と共に(推定)次の部屋に行ってみると、箪笥が開放しになっている。台所口に出てみると雨戸が外れ空には寒月が輝いている。泥棒は騒がれて中途で逃げたのである。夜が明けてから警察に届ける。刑事が来る。帯ばかり十本盗まれたと判明する。(翌年夏頃になって、鏡の帯だけが質屋から発見され、二、三年後に、犯人は市が谷監獄あたりの監視だとわかる。(鏡))」(荒正人、前掲書)
12月9日
1908年12月9日付堺利彦(赤旗事件で入獄中)の妻・為子宛書簡
(宛先は妻の為子だが、内容は娘の真柄に宛てたもの)
○真柄よ、おまえは加藤のオバさんに可愛がられて居るだらう、お前には静岡のカアちゃんだの姉さんだの、東京のカアちゃんだの、保子のオバさんだの、勝ちやんだの、延岡のオヂさんだの、大杉のオヂさんだの、可愛がつて呉れる人が沢山あるのに、今度は又加藤のオバさんだのオヂさんだのが出来たのだからホントにいゝね、それに神奈川はいゝ処でせう、体の善くなったでせう
(「静岡のカアちゃん」は堺利彦のいとこの篠田良子、「勝ちやん」は真柄の乳母で為子の弟の常太郎と結婚した延岡かつ、「延岡のオヂさん」は常太郎)
5歳の真柄を抱えていては、為子が働くのはむずかしい。そこで、しばらく加藤時次郎夫妻に預かってもらうことになった。真柄は生母の美知子が没した後、堺のいとこに預けられ、堺が為子と再婚した後に引きとられたが、また加藤家に預けられた。
赤旗事件で夫が入獄すると、為子は着物などを売って溜まっていた家賃を払い、淀橋町柏木の下宿に引っ越す。そこには、堺と一緒に入獄した大杉栄の妻の堀保子も同居した。
真柄を加藤家に預かってもらうと、為子は知人が編集している『鉄道時報』の広告取りをしてわずかな収入を得た。さらに、髪結いが繁盛しているのを見てこれをやろうと思いつく。髪の結い方を十日くらいで教えてほしいとその髪結いに頼むが、相手にしてくれない。それでもあきらめずにじっと見ていると、とにかく客を取ってやってみればいいと勧められた。そこで、思い切って四谷伝馬町に家を見つけて髪結いの看板を出す。客を練習台に使うようなもので、料金は半額にした。
慣れてくると次第に客もつくようになり、為子はその合間に針仕事をし、広告取りの仕事もして、なんとかやっていけるようになる。その後、加藤家から真柄を引き取り、四谷伝馬町の家で夫の帰りを待ち続けた。秋水ら同志たちもしばしば為子を見舞った。
為子によれば、有楽町平民社時代からの支援者である逸見(へんみ)斧吉・菊枝夫妻と小泉三申がさまざまな支援をし、毎月の家賃を補助してくれたという。
堺は「日本社会主義運動史話」で逸見斧吉を「先々代が大庄屋で、天明の飢饉の時、悉く其の倉廩(そうりん)を開いて窮民を賑はし、一族にも勧告して之に倣はしめ、聴かざる者には親戚の交りを絶ったといふ美談が、その孫の青年に感化を及ぼしたのであった。金鵄ミルク逸見三陽堂の主人」と紹介している。
このように健気な妻の為子に、堺は獄中から心のこもった言葉を書き送っている。身辺雑記に加え、健康状態なども為子に心配をかけないようにユーモアたっぷりに書いている。
僕は今度四十歳になるのだ、モウ若い者とは云へない、初老という言葉さへある、然し僕は卅(さんじゆう)歳になつた時、漸く少し人間らしい者になつた心地がしたが、今度は又此頃ヤツト一人前の男になつた心地がする、孔子が『三十而立(じりつ)、四十不惑(ふわく)』と云つた心持がツクヅク思ひあはされる、今後又十年もしたら孔子が『五十にして天命を知る』と云った心持が少しは味はれるかも知れぬ、こんな風に考へると人生は何時迄も登り坂だ、前途は長い、楽みは多い、お互まだ是からが本統(ほんとう)に成熟する時節なんだ、手を引合てユツクリ行かうよ、尤も成熟してドンナ色が付くものか、ドンナ味が出るものか知らぬが、大体僕は楓の紅葉よりも銀杏の黄葉を愛する、熟柿よりもカチ粟を好む、薩摩芋よりも大根を望む、それは兎もあれ何でも一ツ面白い秋の夕日に照されて見たいものだナ(中略)
○君の職業はうまく行くか、世間の批評など意に介する勿れ、只大胆に忠実に勤勉に働き玉へ
当時、獄中から出せる書簡は2ヶ月に1通に制限され、外から届く手紙も同じだった。それだけに極小文字で、可能な限り多くの情報をつめこもうとした。文面は検閲されている。為子によれば、外部から獄中へ出す手紙は、1通でさえあれば長さは問われなかったので、「日々の手紙を巻紙にして次々に長く長く書いて出した」という。
堺の獄中書簡にはどれをとっても、差し入れを希望する大量の本のリストが書かれている。洋書がほとんどで、原題が英語やドイツ語で書かれている横に、日本語に訳した書名が小さく添えられている。
堺は千葉監獄にいる間にドイツ語を習得し、フランス語の勉強にも手をつけ、読むべき本を片端から読破するという計画を立てていた。第一高等中学校を中退後、堺はずっと独学で知識を身につけてきた。彼にとっての最良の教師は書籍だった。そのため、堺は本に関してだけは贅沢することを自分に許し、丸善で高価な洋書を購入することもあった。
獄中書簡はすべて妻の為子宛だが、娘の真柄や同志たちへのメッセージも書きこまれている。この手紙を見せてほしい、と相手の名前を挙げて頼んでいる場合もあれば、伝言してほしい、と書いていることもある。2ヶ月に1度の手紙は、獄中と外の世界とを結ぶかけがえのない通信手段だった。
〈黒岩比佐子『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』より〉
12月9日
独議会、工場労働法制定、13歳未満年少者の労働禁止

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