2014年4月21日月曜日

堀田善衛『ゴヤ』(30)「王立サンタ・パルバラ・タピスリー工場」(3) 「アイデアはバイユーのものだが、描いたのはおれだ」

江戸城(皇居)東御苑 2014-04-17
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スペイン・アカデミイの独裁者ラファエル・メングスの政治的使命:
この芸術上の後進国に文化を植えつけること
「ところで二流の大芸術家というものは、ほとんどの場合、その芸術的使命が終ったところから、政治的使命を帯びはじめる。学者もまたそういうものである。
メングスの政治的使命は、この芸術上の後進国に文化を植えつけることにあった。」

当時、この国にはろくな文学はなく、歌劇は存在しなかった
(モーツアルトがその最盛期に達し、ハイドンもすでに出発し、ベートーヴェンさえが仕事にかかろうとしているのに‥‥)
「この国には、当時、ろくな文学もなければ、一八世紀は歌劇の世紀であったのに、歌劇はまるで存在しなかった。イタリアから輸入して来なければならなかった。ゲーテの「イフゲニア」による歌劇はグルックによって一七七九年につくられ、モーツアルトの「後宮よりの誘拐」は八一年、そうして同じくスペインの伝承である『ドン・ジョヴァンニ』(ドン・ファン説話)でさえが同じく外国人であるモーツアルトによって歌劇にされてしまった。まして『セビリアの理髪師』や『フィガロの結婚』lなどが書かれて逆輸入されて来たとき、スペイン人たちはどういう顔をしたものであったろうか。芝居はどうかと言えば、ドン・ラモン・デ・ラ・クルースが、マドリードの生活情景を、諷刺的な、まことに生き生きした筆致で描いていたが、スペイン語そのものが、英語あるいはフランス語でのデクラメーンヨンには不向きであったこともあって、役者どもは滅多矢鱈に我鳴りたてるばかりであった。劇場の施設もまことにお粗末であった。おまけに役者たちは、おのおのライバル役者を弥次りたおすとりまきを雇って、劇場内は喧騒をさわめた。これでは、たとえばラシーヌの古典劇なども演じようがなかったであろう。山一つ向うのボルドーでは近代劇場建築の模範である、ヴィクトル・ルイ設計のものが一七八〇年にすでに完成していた。音楽にいたっては、かくまでに才能のある国民なのに、マドリードに当時交響楽団があったことを聞かない。モーツアルトがその最盛期に達し、ハイドンもすでに出発し、ベートーヴェンさえが仕事にかかろうとしているのに‥‥。」

タピスリー工場も技術が落ちて来た。カルロス三世は、メングスの助けをかりてこれに新たな血を注入しようとした
「タピスリー工場も、・・・技術が落ちて来た。・・・
カルロス三世は、メングスの助けをかりてこれに新たな血を注入しようとした。彼の王妃もナポリ時代から大の芸術ファンであった。・・・それに新宮殿が完成して、その空白の大壁面や廻廊を、新しい意匠を盛ったものでどうにかしなければならなかった。」

1776年7月18日、ラファエル・メングスは王室式部長官に任じられ、サンタ・バルバラのタピスリー工場の再編成に着手
「一七七六年の七月一八日にラファエル・メングスは王室の式部長官に任じられる。かくて彼は、・・・王の側近となって美術行政の独裁者になる。・・・彼はまずサンタ・バルバラのタピスリー工場の再編成に手をつける。」"
"タピスリーの新趣向:それはスペインの日常生活風景、但し、それは民衆の真の姿ではない
「この新任式部長官は、マリアーノ・マエーリァとフランシスコ・バイユーの二人の腹心をえらんで、新趣向の実施にあたらせた。すなわちタピスリーの下絵(カルトン)のテーマとして、・・・より身近かなスペインそのものにおける日常生活風景を選ぶことにしたのである。・・・
・・・
民衆がその真の姿をこれらの連中の眼前に、ぬっとつきつける以前に、”幸福な”民衆は、まずまことに牧歌的な芝居を、王や王子、あるいは大貴族たちの居間や寝室の壁で演じさせられる次第である。この幸福さ加減が、退屈連中が見た足許の現実と称せられるものであった。それが第一段階である。」

”幸福な”民衆の内部には”内部に巣食う鰐”がいる
「しかしこの”幸福な”民衆が、その内部に”内部に巣食う鰐”、すなわち野獣性をも裏腹にもつものであることを、身に浸みて知るためには、フランスにあってはフランス革命を、スペインにあつては反ナポレオン・独立戦争を経なければならない。・・・」

ゴヤ夫婦は、ヘロニモ通りに一軒の家を借りて独立した
「・・・バイユーはそういうものを自分で描き、好機を見てまずは自分の弟のラモン、ついでは妹ホセーファのつれあいのゴヤをメングスに紹介をした。・・・
・・・
このカルトンの仕事が義兄の紹介で舞い込むまであたりのところは、ゴヤ夫婦はバイユーのマドリードの家に同居していたものと考えられる。そうしてこの仕事が恒常的にあるようになってから、ヘロニモ通りに一軒の家を借りて独立してホセーファといっしょに住むようになった。・・・
はじめは、・・・収入は不確定であった。」

画題は王自身が決め、画家の自由は全くない
「このタピスリーなるものは、宮廷の壁にかけるものであったから、何々の部屋のどの壁、とはじめから指定された場所に、大きさもテーマも指定された上で織られるものであった。画題は、少なくとも規則としては、王自身がきめるものであった。画家の自由は、ほとんどまったくなかった。
その手続きは次のようなものである。まず画題が下しおかれて、画家は油絵による下描きを提出して宮廷画家たちで構成された委員会の審査をうける。まず部分部分を暗色の画用紙にクレヨンか、チョークで写生をし、全体の構成の参考にする。かくてはじめてセビーリァの赤土を下地に塗り込んだカンバスに油でカルトンそのものを描くということになる。この際、些少の変更も許されない。・・・」

爆笑ものの第一作:ゴヤの戸惑い
「第一作の、鳥網の下から、はいつくばって顔を出した、英国ポインターらしい犬自体が、まったく途方にくれている。烏龍に入った、オトリのフクロウの背中を見て、犬は、おれは何をしたらいいのだろう、と頭をかしげている有様がなんとも滑稽である。籠に入った鳥は、これを追っていいものかどうか‥‥・。とびかかったりしたら、御主人様に叱られるのではなかろうか……。そうして籠のなかのフクロウ自体が、白昼の野ッ原におかれて、まったく茫然自失してまるい目をいっそうまるくしてきょとんとしている。・・・
前後の事情を知った上でこのカルトンに、プラド美術館の地下室でお目にかかった人は、おそらく爆笑を禁じえないであろう。」"
"「それはまた、このときのゴヤ自身の在り様であったろう。獲物、すなわち宮廷の仕事は目の前にある。しかし、そいつをいったいどうやってとっつかまえたらいいものか……。ゴヤの犬は、顔を正面に向けたものはどれもこれも、おれはいったいどうしたらいいのか、と戸惑っている。あるポインター犬は、まるでセント・バーナードのような顔をしている。それはまったく愉快なほどのものである。
第一回目に提出されたものは、狩猟をテーマとした五点であった。委員会は、さいわいにもこれを受け入れてくれた。」

1774年のミランダ伯爵の半身肖像
「・・・、一七七四年と制作年がはっきり入っている一枚の肖像画に眼をうつしたい。それはマドリード政界の大物の一人、ミランダ伯爵の半身肖像である。
一七七四年といえば、われわれの主人公がサラゴーサ及びその近辺での仕事を終えて上京した年である。彼はまだまだ無名の画家であり、宮廷を中心とする政界などに知人などはいない筈である。いったいどういう〝コネ〞があって、ミランダ伯爵などという著名な政治家が彼の前にモデルとして立ってくれたものか、そこのところがよくわからない。そうしてこの肖像画は、彼のそれまでの仕事振りとも、爾後の画風ともまったく異なるものである。
顔と首から下げた勲章と、心臓の上につけたもう一つの勲章と、右肩からかけられた綬だけがむやみに丁寧に描かれていて、量塊によって動感を与えて行く、彼独自の手法がまったく使われていない。むしろ線に、輪郭を描くことにひどくこだわっているのである。眼も生きてはいない。それに、とにかく勲章と綬ばかりが目立って、これが如何なる人物であるかなどという、性格を深く見抜かせる描法ではまったくない。・・・」

「ということは、ここでわれわれの主人公が、いかにマドリードの画法に、今日の好尚にあわせるべく非常な努力をしている、ということであろう。」

”この子も夭折”という記録は、20人目まで続く
「はじめての子供が、一七七五年一二月一五日に洗礼を受けている。この子は育たなかった。・・・ホセーファからの子供の生れっぶりを記録によって書いておきたい。ホセーファはたいへんてある。

一七七五年一二月一五日、エウロビオ・ラモン受洗、この子は夭折。
一七七七年一月二二日、ビセンテ・アナスタシオ受洗、この子も夭折。
一七七九年一〇月九日、マリア・デル・ピラール受洗、この子も夭折。
一七八〇年八月二二日、フランシスコ・デ・パウラ受洗、この子も夭折。
一七八二年四月一四円、エルメネヒルダ受洗、この子も夭折。
一七八四年一二月三日、フランシスコ・ハピエール受洗、この男の子だけがやっと育った。」

「・・・二年に一人のベースは四〇年間もつづく。
この、”この子も夭折”という記録は、二〇人目までつづくのである。たた一人、フランシスコ・ハピエールを除いては。
ということは、後年この不幸な父親画家が幼児を描くについての、真に涙ぐましいほどの配慮と丹念さが何に由来するものであるかを物語っているであろう。・・・」

この、若き日の怪物は、いまはほとんど危機的なまでに、時代の好尚にあわせるべく時勢粧のための努力をつづけている
「この、若き日の怪物は、いまはほとんど危機的なまでに、時代の好尚にあわせるべく時勢粧のための努力をつづけている。この男はインテリではない。さしたる教養もなければ、本などというものもまだあまりのぞいたこともない。反省、などということばにもあまり縁がない。審美のための力も、まだまだ彼の頭蓋の奥の暗闇にひそんていて取り出されるための暇がない。」

要するにいまは、生活が問題なのだ
「要するにいまは、生活が問題なのだ。そうしてこの生活の問題にこそ、つまりは生活上の諸難題にぶつかってはじめて、その人の根源的な性格と育ち方のありようが表に出て来ることも当然自然な次第である。義兄のバーユーの注意や勧告などは、画家としての世渡りのためだけに耳を傾けていたらしい。ほどほどに聞きおいたに近いことを匂わせた手紙を、平然として親友のサバテールに書き送っている。バイユーなどに負けてたまるか、と。」

「アイデアはバイユーのものだが、描いたのはおれだ」
「われわれの使う原稿用紙はどの大きさの、紙に油絵具で描いた「婦人の化粧室」という絵がサラゴーサにある。これについて、
「アイデアはバイユーのものだが、描いたのはおれだ」
と彼はサバテールに書いている。おそらくバイユーの手になる、より大きなカンバスがあったものであろう。彼はこれをおそらく誰のためでもなく、自分自身のために、自分で自分の才能を確認するために描いた。どっちが才能ある画家か、と。
自己の才能を確認するためとはいうものの、なんという非礼かつ野蛮なやり方てあろうか。」
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