江戸城(皇居)二の丸庭園 2014-06-03
*1781年(安永10/天明元)
6月
・モーツアルト、「羊飼いの娘セリーヌ」によるクラヴィーアとヴァイオリンのための12の変奏曲ト長調(K.359(374a))、クレトニーのオペラ「サムニウム人の結婚」の合唱曲「愛の神」によるクラヴィーアのための8つの変奏曲へ長調(K.352(374c))作曲。
初夏、「ああ、私は恋人をなくした」によるクラヴィーアとヴァイオリンのための6つの変奏曲ト短調(K.360(374b))作曲。
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・米、独立戦争。フランス艦隊、トバゴを奪取。
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・米、独立戦争。ロードン卿、ナインティーシックスを救援。
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6月2日
・父レオポルトのモーツアルトへの手紙。
「ウィーン人は新しもの好きだから人気がいつまでも続くとは限らない」、大司教に対しては「自分も不愉快な言葉をぐっと飲み込まなければならないときがある」と言ってモーツァルトの気持ちを何とか変えようとする。
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6月8日
・モーツアルト、侍従アルコ伯爵に足蹴にされる。解雇処分決定
モーツアルトとアルコ伯爵との間での最後のやりとり。
アルコ伯爵は、父親の心配を引き合いに出し、彼がウィーンに来てのぼせ上がっていること、ヴィーンの人たちは新しものがり屋なので、すぐに飽きられてしまうなどと忠告する。
「当地では人の評判はほんとに短い間しか続かないんだ。初めはありとあらゆる賞讃の言葉を受け、しかもたいへん沢山お金も入るのは本当だよ。- でもどのくらい長続きするかね?」
だが、モーツアルトは耳をかさない。彼はアルコ伯爵が辞職願を大司教に渡さず、自分で握り潰したと聞いて激昂する。
「さて、ぼくが要らないといっても、それはもちろんぼくの望むところです。 - アルコ伯爵もぼくの請願書を受け取るか、ぼくに謁見を許してくれるとか、請願書を追送するようすすめるとか、あるいは事態をもっと放っておいて、もっとじっくり考えてみるようぼくを説得してみるとか、要するにしたいことがあったでしょうに。 - とんでもない。 - あの男はぼくを戸口に追い出し、ぼくの尻を足蹴にしたのです」(6月13日付)。
これが、6月8日のことで、この事件の結末。
事態は、父レオボルトが心配していた方向で落着。
伯爵のこの足蹴は、モーツァルトの心の中に、烈しい怒りとともに、もう一つ別の思いをかきたてたかのようであった。
足蹴の行為は6月9日付の手紙にまず出てくるばかりでなく、しばらく時を措いてからも現われてくる。彼の無念の思いは、次のようなかたちで表白される。
「アルコのことで、ぼくはひたすら自分の理性と心とに相談すべきであって、正当で公式なことを行ない、また過不足のないことをするのに貴婦人や身分の高い人たちを必要とはしません。心こそ人を高貴なものとするのです。それにたとえぼくが伯爵ではなかろうと、ぼくの身には多くの伯爵以上の名誉がおそらく備わっているのです。それに下男だろうが伯爵だろうがぼくを侮辱すれば、もうそれだけで無頼漢なのです。 - ぼくはまず初めに、彼がどんなにひどいことをしたのかほんとに筋立てて話を聞かせてやりますが - でも、最後には彼がぼくに尻を蹴飛ばされ、おまけに平手打ちをいくつか喰うのを覚悟してるよう、手紙で請け合ってやらなければなりません。誰でもぼくを侮辱すれば、ぼくは復讐してやらなければならないからです。」
この頃のウィーン:
ヨーゼフ2世即位。農奴制廃止・信教自由・修道院廃止・非カトリック信者のオーストリア移住許可など、啓蒙君主として君臨(仏では既に1779年に農奴制廃止)。
人口約20万。イタリア、ポーランド、ハンガリー、チェコ、ロシア、トルコ、プロシアなど国の人が流入する生き生きとした都会。異文化の人々が様々な服装で行き交い、石畳に馬車の音が響き、通りは狭く、汚物で臭く、治安も悪い。
モーツァルトのみならず、野心を抱く者には魅力的な町。
しかし、フランス革命の気配にはほど遠い宮廷を頂点とする階級社会。
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6月16日
・モーツアルトの父への手紙。
「今、生徒は一人だけです。ルンベック伯爵夫人で、12回のレッスンで6ドゥカーテンです。さしあたりこれで何とかやっていけます。」。
後、2人の弟子(トラットナー夫人、アウエルンハンマー嬢)が増え、月収も3倍になる。1回のレッスン料ではなく、定額の月謝としてもらった方がいいことを学ぶ。
ウィーンでの音楽活動:
「鳥籠を逃れ出た音楽家」モーツアルトが父に示した希望的観測を含むその予想や展望
①皇帝ヨーゼフ2世の好遇を受けること。
②オペラの作曲。
③予約演奏会など、機会あるごとに音楽会に出演し、自分の新作・旧作を紹介すること。クラヴィーア奏者としてその腕前を披露し、ヴィーンで活躍している錚々たるヴィルトゥオーソたちと腕を競い、肩を並べ、彼らを凌駕すること。
④オペラや音楽会用の多種多様な楽曲を調達することで、作曲家としても帝都で確実な地歩を築くこと。作品は音楽出版社から刊行されて、確実な収入を保証することになるだろう。
⑤こうした面でも、クラヴィーア音楽家としてのあり方が中心となるだろうこと。
⑥クラヴィーアを中心として、教授活動にも精を出す必要があること。
以上のような多面的な仕事から、かなり豊かな収入が期待された。
とすれば、ザルツブルクのような地方の小都市にあって、領主大司教の小宮廷に仕える安月給のしがない楽師に甘んじている必要は毛頭ない。たとえオーストリア帝国の宮廷音楽家という確固とした地位が与えられなくとも、音楽活動は思いのままにくりひろげられる。
ウィーンのオペラ/音楽劇の事情
18世紀初め、ヴィーンには公開の劇場はなく、音楽劇は、宮殿内部や大貴族の大邸宅に設置された劇場で上演されたり、庶民的な作品は広場や市場という公の空間で舞台にかけられていた。
マリア・テレジアの治世になると、宮廷劇場が建造され、劇音楽はいっそうのひろがりをもって行なわれるようになる。
ヴィーンは、フランスと異なり、イタリアとの関係は密接であり、イタリア・オペラはロンドンと並んで大盛況であった。そればかりではなく、フランスのオペラ・コミックも人気があり、原語で演じられることもあった。イタリアの悲歌劇オペラ・セーリアと喜歌劇オペラ・ブッファに、フランスのオペラ・コミック、加えて、ドイツ語の音楽劇ジングシュピールも早くから盛んで、ヴィーンの劇音楽は多彩なものであった。
ヨーゼフ2世は、母帝の没(1780年)後、あらゆる分野でさまざまな改革をすすめ、18世紀の絶対主義末期の典型的な傾向=啓蒙専制君主の象徴的存在であった。
ヨーゼフ2世は、フランスのコメディー・フランセーズの模範にならい国民劇場構想を実現し、ブルク劇場はこうした理念のもとに形づくられた。この劇場は永続的な施設を備え、劇団一座を常駐させ、定期的な公演活動と質量ともにすぐれたレパートリーを有し、18世紀最後の時期の主導的な芸術センターとなった。この宮廷劇場の活動が、市井の郊外劇場に生き生きとした刺戟を与え、強い競争心を呼びさましていった。
そうした郊外劇場として、のちにモーツァルトの生涯に深い関係をもって登場してくるシカネーダー一座のアウフ・デア・ヴィーデン劇場がある。
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6月20日
・モーツアルト、父より夏服他の荷物を受取る
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7月
・天明元年の上州絹一揆。
田沼政権が地元の一部の地主・商人の出願をいれて、武蔵・上野両国の47ヶ所の市場に絹糸貫目改所(あらためしよ)を設置し、その改所において市場で取引きされる絹1匹につき銀2分5厘、生糸は100匁に銀5分ずつの改料を買手から徴収することを許可したことが発端。
これでは主な買手である3都の呉服問屋や仲買が大損害をうけるというので、かれらは結束して取引きを拒否した。そのため売り先を失った生産者が激昂し、改所設置計画に参加した豪農2、豪商数十軒を打ち毀した。
これは局地から広域への闘争規模の拡大であると同時に、在郷商人として地域市場に直結し、農民の生産・流通を支配するようになった村役人・地主層に対する商品生産者の反抗という側面をもっていた。
上州絹糸改役所の騒動
「天明元(一七八一)年に武蔵・上野の絹糸、綿等の売買の為に四十七ヵ所の市場に役所を置く事にしてその役所の数を十ヵ所と定めた。その役所においては、絹糸、綿等の売買の高を帳面に記して、その相場を極め、絹は一匹で銀二分五厘、糸は百匁で銀五分ずつ買手から出させることとし、これによって、その売買にむやみに相場の高下もなく買手の難渋することもないようにしようという事になり、その年の七月二十日実行することに定めた。これは即ち一種の織物税であり絹糸税である。
しかるにこれが図らずも大きな騒動を起した。その故は何時も八月五日という日は初市が立つ時であるから、江戸の呉服屋は、越後屋を初として、皆上州の方へ参って絹を買求めるが例である、しかるに右のような令が出たからその手代どもが打寄って相談するようは、今度は絹一匹に二分五度ずつ改料を取られることになった。その税は買手から出さなくちゃならぬ。して見ると越後屋だけでも、かれこれ千五百両ばかりの物を取られることになる。そんな高い税を出して、急いで買わないでも、今は絹もまだ大分持合せがあることであるから、先ず初市に出ることを止めるということになった。すると夷屋、白木屋、大丸等を初として大きな呉服屋は皆越後屋の例に倣って一人も仕入れない。
ここにおいて折角作って置いた絹は捌けないということになって、上州の五十三ヵ村の者は、これでは困るという事で徒党を組んだ。中に五十歳以上の者六人ばかり相謀っていうのに、我々どもはもはや人間の定命五十歳を越してしまった、この上はもう明日が生命も分らぬ。この取引の事について、我々命を捨てて争う事にしようじゃないか。この通り初市に一人も買出しに来ないという事になると、我々の仕事が廃ってしまうから、このまま抛って置くと飢死をせねはならぬ。坐して飢死せんよりはむしろ生命を捨ててもどうか村のために尽そうじゃないかと、ついに村人を煽動して三千余人を集めて、その絹改所建設を願出でた発頭人の宅を打潰して、その家内中の者を逐散し、その家を微塵に打毀わし土蔵の中へ木・枝・藁などを積み込んで火を放って焼崩し、そこらに在る財宝は幾らあっても皆打毀わし、或は濠の中に投込んだ。さらに進んで高崎の城へ押寄せた。
その時高崎城は老中の上座松平輝高の城であった。徒党の人数はその城に押込んでどうか御憐愍をと願出でた。しかるに家中の士どもが大きに周章てて、弓・鉄砲などを大手に備えて置いて、これを発ったために、百姓の中二、三人創を受けた者があった。すると頭分の六人の者が城に向っていうことには、我々ども御領分の首姓は御願のために罷り上ったものであります、御覧の通りこの人数も数千人の中に一人として刀一本も帯びた者はない、その上御領地の百姓である、それに飛道具を以て向われるというは、御粗忽のように存じます。早々御引取り下さるように願いたい、もし御承引がなくば、一命を授棄てても押掛りましょうと、口々言ったので、城でもこれはどうも飛道具を使ったのは余り粗忽であったという事で内から引取った、しからば総代として頭分六人だけ城にはいれということになって、六人だけ城にはいった。遂に江戸へ廻された。
すると他の百姓どもも、六人の者が江戸へ廻されて我々は一人として生きていられるものでないと言って、色々諭してもどうしても聴かぬ。しかしもし関東御郡代の伊奈様の方に、六人を御引取になるならば、我々どもにおいても承知いたしましょうという。そこで早速伊奈の方へ廻わされた。伊奈は当時郡代として非常に人望を負うておったのである。それから段々詮議の結果、遂にこの絹糸榛の役所というものは廃せられることになり、この騒ぎは済んだのである。」
(辻善之助『田沼時代』:段落を施した)
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・モーツアルト、ウィーンでの最初のピアノの弟子ド・ルンベック伯爵夫人のために、ピアノとヴァイオリンのための2つの変奏曲(①K.374a (359) 12の変奏曲(ト長調)、②K.374b (360) 6つの変奏曲(ト短調))作曲。
アウエルンハンマー嬢のために、ピアノとヴァイオリンのためのソナタ、K.374d (376) 第32番(ヘ長調)、K.374e (377) 第33番(ヘ長調)、K.374f (380) 第36番(変ホ長調)作曲。
この頃、副首相コーベンツル伯爵の夏の別邸に何回か滞在。 "
7月4日付け姉ナンネルル宛て手紙
「それからぼくはアリア〔主題〕と変奏曲を三つ書きましたが、これをあなたに送ってあげられると思います」と書く。これは、6月20日付の父宛て手紙で「ぼぐはまたぼくのお弟子さんのために変奏曲を書き上げなければなりません」と語る弟子たちのための曲のこと。
しかし、「でもこれはぼくにとって苦労に値するものじゃありません」(7月4日付)とも言う。
モーツアルトにとって、いっそう大きな興味、関心をそそられるものは劇場であり、オペラであった。彼はナンネルル宛の手紙の中でも、「ぼくのたった一つの楽しみは芝居です」と言い、姉に当地の悲劇をぜひ見せてやりたいと語り、あらゆる種類の演劇が素晴らしいかたちで上演される劇場はほかには知らないと述べている。
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7月6日
・米、独立戦争。グリーン・スプリングの戦い。
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7月20日
・スペイン、ゴヤにマドリード、サン・フランシスコ・エル・グランデ教会絵画制作勅令が首相フロリダ・ブランか伯通じ伝達。「シエナの聖ベルナルディーノの説教」(1782~83)制作。
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7月30日
・モーツアルト、ブルク劇場俳優・台本作家ゴットリープ・シュテファニー(1741~1800)より「ベルモンテとコンスタンツェ、あるいは、後宮からの逃走」(K.384)の台本受取る。
「ところで、一昨日、弟の方のシュテファニーが作曲用の台本を渡してくれました。白状しなければなりませんが、彼がぼくのためにほかの人たちにはどんなに不正直かはあずかり知らぬところで、ぼくにとってはとても良い友だちなのです。 - 台本はまったく素晴らしいものです。題材はトルコで『ベルモンテとコンスタンツェ、または後宮からの誘拐』と題されています。 - 序曲、第一幕の合唱、それに終幕の合唱はトルコの楽隊で作ろうと思っています。カヴァリエーリ嬢、タイバー嬢、フィッシャー氏、アーダムベルガー氏、ダウアー氏、それにヴァルター氏が歌います。この台本に作曲するのが、あんまり楽しいので、カヴァリエーリの最初のアリアとアーダムベルガーの第一アリア、それに第一幕をしめくくる三重唱はもう出来ています。時間がないのは確かです。といいますのは、九月半ばにはもう舞台にかけなければならないからです。ただ、 - 上演される時期の事情と、それにそもそも、ほかのいろんなもくろみが - ぼくの心をたいへん上機嫌にしてくれ、そのため、ぼくはひどく熱心に机に向かって心がせき、大喜びで坐り続けているのです。」
これほどまでに熱心に仕事に取りかかった事情は・・・。
「ロシア大公がやがて当地にいらっしゃるのです。それでシュテファニーが、ぼくに、できることなら、こんな短い期間にオペラを書いてくれないかと頼んだのです。というのは、皇帝とローゼンベルクがもうすぐお帰りになり、なにか新しい出し物は準備してないかとお訊ねになるでしょうから」(8月1日付)。
しかし、モーツアルトは、この大きな仕事で、ヴィーンにおける自分の命運を賭けてみようと考えたというのが、内的要因である。
尚、ロシア大公の来訪はのちに延期になる。
上演は9月半ば予定、モーツァルトは情熱と喜びをもって作曲に取り掛かる、初演は翌年7月16日(ブルク劇場)になる。台本はシュテファニー自作ではなくライプツィヒのブレッツナー作品の改作で、後にブレッツナーから抗議抗告、初演ポスターにはブレッツナーの改編と書かれる。
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