江戸城(皇居)東御苑 2014-06-19
*承保2年(1075)
この年
・白河天皇、洛東白河に法勝寺造営開始。
この年(承保2年(1075)から法勝寺が造営され、承暦元年(1077)に金堂以下の大半の伽藍が完成し、永保3年(1083)に八角九重塔が完成。
白河の天皇在位は延久4年(1072)~応徳3年(1086)で、その大半がこの大寺院の造営にあてられた。
これ以後、この白河と呼ばれる平安京の東に隣接する地域には、六勝寺(ろくしようじ、法勝寺・専勝寺そんしようじ・最勝寺さいしようじ・円勝寺・成勝寺じようしようじ・延勝寺)と呼ばれる「国王ノ氏寺」、つまり天皇の御願寺群が造営されていく。
この御願寺の創建にあたっては、国家的な給付としての封戸が経済的基盤として設定され、その不足分が荘園で補填されるべきだというのが、在位中から譲位後まで一貫した白河の方針であった。
しかし、康和4年(1102)に完成した堀河天皇の御願寺尊勝寺の場合をみると、造営を主導した白河法皇がそのような方針を指示したにもかかわらず、その数ヶ月後には荘園を立てる準備がなされ、翌年には近江守藤原隆時や中納言源国信、宮内大輔藤原師季らの所領寄進が正式に認められている。
法勝寺でも、膨大な封戸からの収入が途絶え、国司たちが便補保(びんぼのほ)と呼ばれる事実上の荘園をつぎつぎと立てていった。
11世紀末~12世紀初頭、律令制にもとづく国司からの封戸納入の悪化により、天皇の御願寺でも経済基盤が荘園に移されていった。
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・伊勢国北端にある地方寺院の帰属をめぐる東寺と延暦寺の相論が始まる
(伊勢平氏の在地における存在の様態が窺える)。
この年、天台の僧良心と平正衡は(伊勢平氏正度の四男、正盛の父)は、東寺の末寺桑名郡多度神宮寺を天台の別院と称し、現地において東寺使を責めしのぎ、神宮寺付属の所領(尾張国海部郡大成荘カ)を損亡させる(『平安遺文』1115号)。
■良心
伊勢平氏正衝と「同心謀計」した延暦寺の僧良心は、横川南楽房に任し、11世紀後半の11年間、首楞厳院検校(長吏)の地位にあった人物(『僧官補任』)。
■多度神宮寺
良心・正衡の押妨の対象になった多度神宮寺は、伊勢・美濃・尾張の国境付近、養老山地の最南端、多度山南麓に鎮座する多度神社の神宮寺。
同寺は、8世紀の深刻な在地変動の中で、旧共同体神(多度大神)の神格の変革(神身離脱→多度大菩薩への転身)をおしすすめた桑名郡司ら当地の富豪層の手によって創建された。
この神身離脱によって、かつて祟り神として猛威をふるった多度大神(「国ツ神」)は、勧農神として再出発する。
多度神宮寺は8世紀末に定額寺化し、その後、嘉祥2年(849)真言の「別院」になった。これより少し前承和6年(839)年天台の「一院」になった事実があるが、なぜか翌年早々に停止されている。真言の別院になった同寺はいつしか末寺化し、法雲寺と呼ばれるようになった。
東寺の末寺支配が進行する以前、多度神宮寺を実質的に支配していたのは、桑名郡司ら檀越層であった。
彼らは、寺務を統括する別当・俗別当を自ら選定し、また寺領経営を担当した。前者の場合、俗別当は檀越氏人中の長者を、別当は氏人中より僧侶となったもの、もしくは彼らが招いた僧侶をあてるのか通例である。
■東寺の末寺化と支配力の後退
桑名郡司らの所有物であった多度神宮寺が中央寺院の末寺化するということは、檀越の権利に重大な制限が加わる事態である。それは本寺による末寺人事権の掌握、末寺所領支配権の吸収という形をとった。
東寺の主張によれは、長治2年(1105)年までに東寺が補任した法雲寺別当は13人にのぼる。彼らは本寺の発する牒状により寺務を執行したという(『平安遺文』1646,1115号)。
法雲寺は東寺「恒例潅頂の御時の饗」の勤仕を義務づけられ(『平安遺文』1663号)、古代仏教史家には周知の「神宮寺伽藍縁起資財帳」に示された神官寺領の一部も大成荘と名づけられて、東寺の荘園に編入されている。
檀越の権利が制限されていても、彼らは寺務・寺領に対する潜在主権は保持し続けたと思われ、本寺による末寺人事権の掌握といっても、実際には、檀越層の選定した別当・俗別当を東寺が承認し、改めて補任の手続をとるという形であったと思われる。
しかし、これら別当・俗別当はもはや本寺補任の一箇の職に他ならず、東寺がその改替権を手中に収め、彼の寺務執行にも本寺の指示という重大な足かせがつけられた。
東寺の末寺・諸荘園支配は、11世紀、極めて弱体化する。
この危機の深刻さは、同寺領として知られた丹波国大山荘が、事実上転倒・廃絶となった事に端的に示されている。
11世紀後半、東寺政所機構の確立など、ようやく再建の方向があらわれてきたものの、前途は楽観を許さなかった。
東寺の末寺や荘園は、しだいに東寺長者管理下におかれるようになっていたが、その結果東寺政所下文と法務僧正房(東寺一長者)下文の二通りの系列で指令が発せられるなど、支配系統上の混乱が生じていた。
この結果、法雲寺でも承保2年(1075)頃、「近年長者牢籠の間、執行の人無きによりて」と表現されるような非常事態が発生していた(『平安遺文』215)。
多度神宮寺への東寺の支配力は、大きな後退を余儀なくされた。
■伊勢平氏と多度神宮寺の関係
伊勢平氏と多度神宮寺の関係は、長治3年(1106)2月7日の平盛正解案(『平安遺文』1651号)により推測できる。
ここで、平盛正は「舎兄故師衡存生俗別当の時、多度寺中、くだんの田畠惣領する所なり」と述べ、彼自身も兄の例にならい法雲寺俗別当職に補任せられんことを願っている。
平盛正について史料で跡づけられるのは、応徳3年(1086)年11月、堀河天皇即位の時、善子内親王の口添によって滝口に補された(『為房卿記』3月8日条)、それより以前右大臣顕房の前駈であった(『続古事談』)、康和5年(1103)年2月30日、除目により宮内丞に任ぜられている、などである(『本朝世紀』)。
盛正や兄師衡は現存平氏系図にはその名が見えないが、実名からみて伊勢平氏の一族である(「盛」・「正」・「衡」などは伊勢平氏一族に特有の通字である)。
師衡・盛正が、かつて法雲寺の俗別当であり、現在も俗別当職を要求しているのは、彼らが法雲寺の氏人であり、施主(檀越)であったことを意味する。
伊勢平氏は、いつどのようにして多度神宮寺の檀越の地位を獲得したかは、明らかではないが、伊勢に留任した平氏が、在地に勢力扶植をくり返す過程で手中に収めたと思われる。
そして、承保2年の良心・正衡の多度押妨事件の時には、彼らは既に神宮寺を檀越化していたと思われる。
正衝が多度神宮寺の檀越であったらしい点をふまえると、良心・正衡の多度押妨は次のような内容を持っていたと考えられる。
この事件には、東寺の支配力が後退したことを好機とみて、寺務・寺領を文字どおり檀越の進止下におく、潜在主権を真の主権に転化させようとする正衝の独自な動きが、底流にあったのではないだろうか。
この動きは必然的に東寺と多度神宮寺の本末関係の否定につながる。
正衡は別の中央寺院との間に、形式的で緩やかな関係を結ぶことによって、それを実質的に実現しようと策動したのであろう。
ただし、正衡の真の意図がどうであれ、延暦寺の側からいえば、多度神宮寺はかつてごく短期間ではあるが、天台の別院であった事実があるから、これは200年ぶりに訪れた失地回復の機会であった。それは横川の発展に11年間にわたって貢献した良心の意欲を刺激するに十分であっただろう。
良心と正衡の動きは東寺側の憤激をまきおこす。
承保2年(1075)閏4月28日、東寺は彼らの主張を不当として太政官に訴える。
翌5月、太政官は延暦寺に子細を弁申せしめ(『平安遺文』1115号)、翌年3月東寺に対しても、末寺支配の正当性を裏づける証文(官符の案文ではなく正文)の提出を命じ、由緒を言上せしめた(『平安退文』1128号)。
両寺の主張は平行線をたどり、どちらが正当と決しえなかった太政官は、今度は伊勢国衙にたいし、延暦寺・東寺のうちいずれが法雲寺別当を補し来ったかを調査報告するよう、命令を発している(『平安遺文』 1131号)。
絶対的に有利な立場にあった東寺がこのていたらくであったのは、長保2年(1000)東寺北宝蔵の炎上によって、多くの関係文書を失っていたからだった。
それでも相論の結果、ようやく神宮寺は東寺の末寺であると確認されたらしい。
良心・正衝の策動は、失敗に終った。
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