江戸城(皇居)二の丸庭園 2014-06-17
*アカデミイ会員=ゴヤ
1778年11月12日、サラゴーサ大劇場の火事と失われたゴヤの作品
「一七七八年、その年のはじめに彼は重病をしているのであるが、秋に入って一度サラゴーサヘ帰った形跡がある。・・・ゴヤの作品『サラゴーサ大劇場の火事』。この火事は、同年一一月一二日に起っている。
しかしこの「火事」の作品は失われてしまったらしく、行衛不明である。これはまことに惜しい。というのは、同じくイリアルトの報告によると、一七六七年四月の「イエズス会修道士の追放令の発布とその布告の実施」をテーマとした二枚の作品があった - これもまた行衛不明である - こととあわせて、初期のゴヤがティエポロ流でも、メングス=バイユー流にでも、如何様にも時代の好尚にあわせて行ける大勢順応主義者であった - それが彼をついにアカデミイにまで導いた - と同時に、その時代の重要な出来事を、即座にカンバスに描き込む、目撃者、時代の証言者としての芸術家の役割を果す心組みをもっていたことを、この三枚の作品がもし存在すれば、それこそ証言してくれるものであるからである。」
けれどもこの男は、マドリードにかじりついていなければならないのである
「この『サラゴーサ大劇場の火事』は、おそらくアラゴン人であるゴヤをひどく悲しませたものであったろう。というのは、この劇場は、サラゴーサの名家であるピニャテルリ家をはじめとして、ガバルタ伯家などもが協力をして作った、郷土の誇りであったからである。・・・あるイギリス人の女性旅行者は、この劇場の壮麗さと、ピニャテルリ家の富裕さ加減を驚いて報告している。
それらのことはともかくとして、ゴヤはなんといってもアラゴン人なのであって、サラゴーサをめぐる風物は、やはり彼のなかに刻み込まれている。
たとえばタピスリー用のカルトン『仔牛での闘牛』の背景には、「ラ・ロンハ」と呼ばれる商業会議所の、四角な煉瓦のピラミッドのような建物が描き込まれ、『ペロタ遊び』(庭球の一種であるが、今日のハイアライに近い)の背景には、モーロ人の築いたものに違いない砦の廃址が描かれている。
・・・けれどもこの男は、マドリードにかじりついている。かじりついていなければならないのである。」
ゴヤ、ひたすらサラゴーサのエル・ピラールの要請を引き延ばす
「一七七四年、すなわち彼がサラゴーサ近郊のアウラ・デイ修道院での仕事をおわって、マドリードでのカルトンの仕事に呼ばれたその年以来、すでにサラゴーサのエル・ピラール大聖堂の参事会は、バイユーに呼びかけて別の穹窿に天井画を描いてくれるよう、ゴヤにも声をかけてほしい旨を通達しているのである。
一七七五年の三月には、エル・ピラールからの催促に、彼はバイユー名義の手紙を出して四旬節の終り以前にはマドリードを留守に出来ないと言ってやっている。そうして当のバイユー自身は、この年の五月にサラゴーサヘ行って翌年の二月末まで滞在し、彼の成功作の一つである『処女マリアの戴冠』を描いている。・・・仕事を終えて、この師匠は、なるべく早く、義弟のゴヤと実弟のラモンを派遣して残りの装飾をさせる、と大聖堂参事会に約束をして帰ったのであった。その約束には、バイユー自身の監督のもとに、下絵もバイユーの検閲を経て、という条件が入っていた。
この条件が、やがて爆発的な大事件をひきおこすもととなる……。」
「ゴヤの方は、何カ月どころか、ついに五年間も待たせ放しにすっぽかしてしまうのである。」
「こういうふうに見て行くと、結果的には、ゴヤは何かの到来を待っていて、その何かが来てはじめてサラゴーサヘ行く気だったのではないか、と勘ぐりたくもなって来るのである。
結果的には、それは、その通り、ということになる。」
彼が待っていた何かの到来は、この栄誉あるアカデミイ会員として、サラゴーサに乗り込むことではなかったか
「一七七九年一月、王カルロス三世と皇太子、同妃に拝謁。
同年七月、宮廷画家に登用されるよう願書提出。一〇月、拒否される。
一七八〇年五月、アカデミイ会員に全員一致で推される。
してみれば、彼が待っていた何かの到来は、この栄誉あるアカデミイ会員として、サラゴーサに乗り込むことではなかったか・・・・・
この同じ五月に、バイユーは、彼の実弟と義弟とを派遣する旨を、あらためてエル・ピラールの大聖堂参事会に通告している。
・・・バイユー自身もまたこの何かの到来を待っている共同謀議(?)の一員ではなかったか・・・。」"
"問題の所在:ゴヤはいまやバイユーと同格のアカデミイ会員である
「フランシスコ・バイユーは、実弟と義弟の二人の仕事の芸術的価値について責任をもつことになっていた。従ってゴヤは、サラゴーサへの出発以前に、下絵とデッサンとを義兄に提出してその承認をえていたのである。
しかしそこに一つの問題があった。この〝承認〞は、実はゴヤがアカデミイの会員になる以前に、与えられたものであった。
いまや彼は、王立アカデミイのれっきとした会員である。その点では、バイユーと同格である・・・。バイユーは、もう一つ宮廷画家の称号をもっていたから一段、格が違ってはいたけれども・・・。」
軋轢は、サラゴーサに着いてすぐに表に出て来る
「バイユーとの間の軋轢は、サラゴーサに着いてすぐに表に出て来る。
八月末にサラゴーサに着き、一〇月五日にはゴヤとラモン・バイユーの最終的な下絵が大聖堂工事委員会に提出されて「非常な関心と歓迎のうちに」両者ともが承認された。
けれども、ゴヤはなかなか仕事にとりかからない・・・。
彼の、
魂が仕事にかかろうと、
決めたのは、やっと一一月の二二日のことであった。それまで足場も何も組み放して放置されていたわけである。
同門のラモンは、下絵が正式に承認された一〇月五日以降、すぐに仕事にかかっている。」
フレスコを描くについてはバイユーの干渉も監督もうけつけぬぞ、というはっきりした決意
「そうして仕事にかかるどころか、その以前に、彼は憤重に、予防工作を怠らない。彼は自分に課せられた役割、描くべき穹窿は、彼ひとりで独自に描くものであることを教会建築管理責任者のマティーアス・アリュエーに対して再確認させ、これを代表的な市民の前でもう一度確認させようとしている。
ということは、ゴヤの側において、下絵こそはバイユーの検閲と承認を経はしたが、本番のフレスコを描くについてはバイユーの干渉も監督もうけつけぬぞ、というはっきりした決意が、あらかじめあったことを物語るものであったろう。下地としては、喧嘩はゴヤの方から師匠へ売られたものと言えるかもしれない。」
第一回目の爆発
「ゴヤが・・・仕事をはじめてから二二日目、一二月の一四日に、第一回目の爆発が起った。
バイユーが、本番のフレスコに、ではなくて、下絵のある部分の修正を要求した。それはすでに承認すみのものである。この場合、ゴヤが怒ったのも無理はなかった。」
委員会の出した最悪の結論
「こうなってはもう正面衝突である。・・・
バイユーは弟子に裏切られた、と思った。
従って彼は、ゴヤのデザインに関する限り、委員会に対する責任を解除してもらいたい、と申し入れた。
この申し入れに対して出された委員会の結論は、最悪のものであった。
「委員会は、ゴヤが、バイユーの意見書に見られる推薦と賛辞に多くを負い、それによって(本聖堂の)絵画を描くことになったことを考慮し、建築管理責任者マティーアス・アリュエーが頻繁にこの画家とその作品に接し、かつ何等かの欠陥のある場合、それを指摘し、またゴヤがフランシスコ・バイユー氏の助手として仕事に従事するについて、如何に彼のおかげを蒙っているかについて深く感謝すべきことを、ゴヤに印象づけるべきである。」
あまり芳しくないゴヤの出来ばえ
「結果として、ゴヤは皮肉にも、誰も文句を言う奴も干渉をして来る者もなく、自由に仕事をする、ということになった。彼は猛烈なスピードで仕事を進めた。怒りと苛立ちもまた、彼の熱狂(と言ってもよいであろう)に拍車をかけた。彼は一一月二二日から正味八〇日間で、『殉教者の聖母』という巨大な天井画を完成してしまった。
しかし出来はどうであったか。実のところ、あまり芳ばしくはなかったのである。・・・隣接するラモン、及びフランシスコの担当した天井と比べてみるとき、それほどに劣っているとも、また優れているとも私などには言えないほどのものである。望遠鏡でのぞくと、ゴヤの担当部分はヒビ割れが多く、フランシスコのそれの方がヒビ割れが少ない。ということは、フレスコの技術だけで言えば、師匠の方がずっと優れていたということになるであろう。」
いったいこの喧嘩は何だったのか。それは要するに家庭内の騒動、アトリエ内のごたごたにあったのである
「結果がこうであってみれば、両者ともに、いったい何のための喧嘩であったのか、ということにならざるをえない。・・・
・・・
ではいったいこの喧嘩は何だったのか。
それは要するに家庭内の騒動、アトリエ内のごたごたにあったのである。だから、それを、判断に自信のない大聖堂の委員会の問題などにするべきではなかったのである。
結果は、最悪であった。委員会は、さして問題とすべきでないゴヤの仕事の瑕疵をさえも指摘しはじめる。町の長老たちをはじめとして、聖堂外の大衆も、この小生意気な・・・ゴヤという野郎のアラさがしをはじめる。・・・」
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