2014年6月16日月曜日

延久5年(1073)~延久6年/承保元(1074) ロベール・ギスカール、アプーリアとアマルフィを占領 道長の息子頼通(前関白)・道長の娘彰子(上東門院)没し、時代は摂関期から院政期へ移る     

江戸城(皇居)東御苑 2014-06-10
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延久5年(1073)
この年
・イギリス王ウィリアム、反乱起きた大陸本拠地ノルマンディに戻り、メイヌ伯領を制圧。
ウィリアム支配地の動揺を見たフランス王フィリップ1世は、フランドル伯・アンジュー伯と同盟を結び、スコットランド王マーコームをも誘いイギリス包囲網を作り上げる。
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・キエフにペチェルスキー修道院建設。地下洞窟修道院が母体(聖アントニイ、聖フェオドシイ)。
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1月
・ロベール・ギスカール、反乱鎮圧の戦い開始。数ヶ月でアプーリアをほぼ平定。
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・春、ローマ教会会議。
皇帝ハインリヒ4世を取り巻く顧問5人を破門(1071年以来ミラノ大司教選任を巡りハインリヒ4世とアレクサンデル2世の対立が高まる)。
「パパ」の称号をローマ司教(即ち「教皇」)以外の司教が用いることを禁止。
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4月21日
・後三条上皇(40)、出家。
5月7日、病没(誕生:長元7(1034)/07/18)。第71代天皇。
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4月21日
・教皇アレクサンデル2世、没(位1061~1073、ミラノ出身、ルッカのアンセルム)。
22日アレクサンデル2世の葬儀委員長ヒルデブランド(53)、ローマ民衆によって教皇に推されグレゴリウス7世に即位(位1073~1085)。
ローマ首位権の行使を通じて教会改革を目指す。
皇帝ハインリヒ4世、グレゴリウス7世に挨拶状を送付、当初は、和解の雰囲気の中で始まる。

グレゴリウス7世:
ローマ法王庁最大の実力者イルデブランド。寒村の漁師の子に生まれ、叩き上げで枢機卿になる。東方教会との分裂、枢機卿団の相互選挙による教皇選出、ノルマン人との和平などローマ法王庁の重要な決定に全て影で中心的な役割を果たす。
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5月7日
・成尋、揚子江渡河。
「船を出し、揚子江を渡った。堰の兵士7人が来て加わった。巳一点(午前10時)に、潤州河に入った。堰の兵士7人に100文を与えた。梢工には100文。本兵士10人には、合わせて200文。巳三点(午前11時)に京口堰に着き、船を止めた。」(熈寧6.5.7)。
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6月4日
・成尋、中国士大夫の蘇軾と会見。この時、宰相王安石による政治改革「新法」の渦中。
12日、成尋の同行者の頼縁ら「5人は相共に孫吉船に乗った。」(熈寧6.6.12)。
成尋は、頼縁に勅版大蔵経422巻・経典・書籍と共に日記「參天台五臺山記」を託す。
成尋は宋に留まり、元豊4年(永保元年1081年)宋の開宝寺で没(71)。
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7月23日
・藤原賢子、藤原道子を女御とする。
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8月
・第1次ザクセン反乱(ザクセン戦争1073~1075)。
オットー・フォン・ノルトハイム(バイエルン大公1061~1070、1070年ハインリヒ4世に反抗)は拘禁を解かれるが、オットーの同盟者マグヌス・ビッルングは父ザクセン大公没にも拘わらず拘禁解かれず。
ザクセン有力者、ハインリヒ4世の措置を不当とし、ハインリヒ4世の命じる遠征参加拒絶、公然と反旗。
ハインリヒ4世、ゴスラー(王宮所在地)~ハルツ山塊~ヘルスフェルト修道院に落ち延びる。
ザクセン人、ラントの集会で同盟締結、同盟不参加のブレーメン大司教とオスナブリュック司教にラント退去を強制。
大紛争収拾のため、マインツ大司教ジークフリートがゲルストゥンゲンの集会呼びかけ、ハインリヒ4世、出席拒否。
出席したザクセン諸侯、ハインリヒ4世がザクセン諸侯の忠告を聞くよう強く要求。
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8月2日
・教皇グレゴリウス7世とロベール・ギスカール、ベネヴェントで会談。
具体的な約束成立せず。両者の関係悪化。グレゴリウス7世、反ギスカール同盟結成に方針転換。
12日、グレゴリウス7世、旧ベネヴェント候ランドゥルフス6世より忠誠誓約を受け、ベネヴェント統治を委ねる。
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9月24日
・教皇グレゴリウス7世、カープアでカープア候リカルドゥス(リシャール)1世より忠誠誓約を受け、臣従の誓いを受ける。
リカルドゥス(リシャール)1世はロベールがアプーリア、カラブリア、シチリアへ支配圏を拡大していく同時期、教皇アレクサンドル2世の援助やカプア候領の掌握などカンパニアを活躍の場とし、アプーリアのロベールへの反乱も支援。
息子ジョルダーノ、腹心ギョームなどの反乱克服し、ロベール・ギスカールとの対立姿勢を露わにする。
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11月
・教皇グレゴリウス7世、ローマに帰国。
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・ロベール・ギスカール、アマルフィ公を宣言。
アマルフィ占領のノルマン人サレルノ公ギスルフス2世に対抗する為、アマルフィ市民が領主権と引き替えにロベール・ギスカールに軍事援助を求める。
ロベール・ギスカール、即座に軍隊を派遣、アマルフィ占領。
教皇グレゴリウス7世はトスカナ辺境女伯マティルデ、ロートリンゲン公ゴットフリート、エステ候アッツォ、ブルゴーニュ伯ギョームなどにノルマン人討伐の檄を飛ばす。
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延久6年/承保元(1074)
この年
・教皇グレゴリウス7世、ミラノ大司教にアトを承認。皇帝ハインリヒ4世も教皇の決定を支持。
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・東ローマ(ビザンチン)皇帝ミカエル7世ドゥーカス、教皇グレゴリウス7世に救援要請。
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・セルジュク・トルコ、ジャラール・アル・ディーン・マリクシャー、天文台建設。天文学者・数学者ウマル・アル・ハイヤームを招聘。
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2月2日
・前関白藤原頼通(83)、没(誕生:正暦3(992)/01)。
姉の上東門院彰子、弟教通も同年から翌年にかけて相次いで没し、白河天皇が譲位した後に開始した院政の時代へと移っていく。
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2月2日
・ハインリッヒ4世、ザクセン反乱貴族とゲルストゥンゲンの和約を結ぶ。
ハインリヒ4世、ザクセン諸侯との和解交渉入り受諾、城取壊し同意。
ザクセン人民衆、交渉前にハルツブルクの礼拝堂を打ち壊し、王家の墓所を荒らし、諸侯の空気が一変。
シュヴァーベン大公ルドルフ指揮王国軍を編成、ザクセン人軍隊を徹底的に打破。
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3月9日
・~15日、ローマ公会議。
教皇グレゴリウス7世、
①「ニコライスムを禁じる教令」。激しい反発(特に「聖職者独身制」に聖職者が一致して反発)に、教皇ニコラウス2世の道に方針転換。
②ノルマンディ人討伐遠征決定。サレルノ候ギスルフス2世、エステ辺境伯アゾ、トスカナ女伯マチルダが参加。
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4月28日
・デンマーク、ハーラル3世、即位。
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6月
・教皇グレゴリウス7世、討伐軍組織、ロベール・ギスカール破門。
ロベール・ギスカール、ナポリ公セルギウス5世(位1050/53~1090)と同盟、教皇側のカープア候リカルドゥス1世支配下のアヴェルサ地方の掠奪開始。
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6月16日
・太皇太后章子内親王を二条院とする。
女御藤原賢子が白河天皇の中宮となる。
皇太后藤原寛子、太皇太后となる。
賢子はこの年、待望の男子(敦文)親王を生む。
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8月16日
・若狭(平氏知行国)の三河浦(御賀尾、三方町神子)の住人時定(平氏の家人)、長講堂領伯耆の久永御厨から濫行を訴えられる。
時定が彼の所領の若狭西津荘で、入津してくる伯耆御厨からの船荷に「勝載料」をかけたための相論と考えられる。
平安後期には山陰・若狭の交流が考えられる(「吉記」承安4年(1174)8月16日・9月17日条)。 *
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8月23日
・「承保」に改元。
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10月3日
・藤原彰子(87、上東門院)、没(誕生:永延2(988))。藤原道長の娘で太皇太后。
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