江戸城(皇居)東御苑 2014-06-10
*昭和20年3月10日、東京大空襲で偏奇館が焼けた。
「日乗」3月9日
「天気快晴、夜半空襲あり、翌暁四時わが偏奇館焼亡す、火は初長垂坂(なだれざか)中程より起り西北の風にあふられ忽市兵衛町二丁目表通りに延焼す、余は枕元の窓火光を受けてあかるくなり鄰人の叫ぶ聲のたゞならぬに驚き日誌及草稿を入れたる手革包を提げて庭に出でたり」
長垂坂は偏奇館の西側にあった坂で、市電の今井町停留所に通じている。偏奇館とは200~300mの距離。ここからの火が偏奇館を焼いた。
荷風は「日乗」の草稿を入れた手革包を持って庭に出、道源寺坂からいったん市電の通りに出、そこから坂を上がってまた戻り、偏奇館の近く(北東)にあったスペイン公使館横の空地で休息した。この間、4、8歳の女の子が老人の手を引いて道に迷っているのを見て、2人を導いて溜池の方へ逃してやっている。
空襲のさなか、荷風はあくまでも冷静である。空地で休息したあと、また偏奇館に戻る。
「二十六年住馴れし偏奇館の焼倒るるさまを心の行くがきり眺め飽かさむものと」思ったから。
しかし火勢が強く、近づくことは出来ない。
「余は五六歩横町に進入りしが洋人の家の樫の木と余が庭の椎の大木炎々として燃上り黒烟風に渦巻き吹つけ来るに辟易し、近づきて家屋の焼け倒るゝを見定ること能はず、唯火焔の更に一段烈しく空に上るを見たるのみ、是偏奇館楼上少からぬ蔵書の一時に燃るがためと知られたり」
偏奇館とともに愛蔵の書が燃えている。
しかし、その様子を記す荷風の筆はあくまで平静で、淡々と炎上の事実のみを記していく。
この日の日記は、焼け出されたその日に書いたものではなく、従兄弟杵屋五叟の代々木の家に避難してからあと、折りを見て書いたものだろう。
のち6月10日、岡山に疎開したとき、午後人々皆外出したる折を窺ひ行李を解き日記と毛筆とを取出し、去月二十五日再度罹災後日々の事を記す」とある。
この時期、日記は、毎日ではなく、落着くことの出来た日にまとめて書いていたようだ。
家を焼かれ、今後の見通しも立たない非常のなかでの日記。
いま読んで驚くのは、まるで平常のことを記しているように冷静であることだ。
いたずらに悲嘆に暮れることはないし、悲憤憤慨することもない。
3月9日の記述など驚くほど淡々と焼亡の事実だけを記述している。
「西班牙公使館側の空地に憩ふ、下弦の繊月凄然として愛宕山の方に昇るを見る」と、燃えさかる町のなかで月を眺める余裕さえある。
「火は表通曲角まで燃えひろがり人家なきためこゝにて鎮まりし時は空既に明く夜は明け放れたり」と、3月10日明け方にようやく火が鎮まったところまで記述している。この冷静さには驚かざるを得ない。
偏奇館を焼け出されたあと、荷風は、昭和21年1月に千葉県市川に移り住むまで、代々木の杵屋五叟宅、東中野の国際文化アパート、駒場の知人宅、さらに明石、岡山、熱海と、約10ヶ月間、知人を頼って各地を転々とする。
この間、一日も日記を休まない。
6月10日
「明日をも知らぬ身にてありながら今に至って猶用なき文字の戯れをなす、笑ふべく憐む可し」と自嘲しながらも日記執筆を欠かさない。
生きているから日記を書くのではなく、日記を書くから生きているという倒錯を感じさせるほどの日記への執着である。生活の芸術化が徹底している。
しかも、繰返しいえば、この時期の「日乗」は非常のなかにありながら驚くほど冷静で、平常心を失なっていない。
無論、家を焼かれ先行きがわからないのだから不安はある。
3月10日には、「鳴呼余は着のみ着のまゝ家も蔵書もなき身とはなれるなり」
「昨夜火に遭ひて無一物となりしは却て老後安心の基なるや亦知るべからず、されど三十餘年前欧米にて購ひし詩集小説座右の書巻今や再びこれを手にすること能はざるを思へば愛惜の情如何ともなしがたし」と弱音を吐いている。
しかし、そのあと、すぐ荷風は、五叟親子から聞いた市中の惨状の事実を一観察者として冷静に記していく。
「昨夜猛火は殆東京全市を灰になしたり、北は千住より南は芝田町に及べり、淺草観音堂、五重塔、公園六区見世物町、吉原遊郭焼亡、芝増上寺及霊廟も烏有に帰す、明治座に避難せしもの悉く焼死す、本所深川の町々、亀井戸天神、向嶋一帯、玉の井の色里凡て烏有となれりと云」
芝の霊廟も、浅草も、本所深川も、玉の井も荷風が愛したところである。そこが空襲で焼亡した。
悲しみは深い筈だが荷風は決して感情的にならず、観察者としてただ惨状の事実のみを記していく。焼かれた町の名を冷静に列挙していく。
事実の重さがなまじの感傷や悲嘆を寄せつけない。
偏奇館焼亡という最悪の事態に直面しながら、荷風はあくまでも禁欲的である。
呪詛の言葉も怨嗟の涙もない。
孤高の文士の精神はきわめて強靭、”見る人”に徹し、伝聞ながら東京炎上の惨禍を淡々と書き記す。
4月6日
「五叟子が勤先なる鮫洲埋立地の海岸にはこの頃に至り毎日三四人の腐爛せる死體漂泊す、いづれも三月九日夜江東火災の時の焼死者なるべしと云」。
自分もまたいつ「焼死者」になるかわからない。その不安のなかで、従来と変らぬ態度で周囲の事象を記述し続ける。
さらに驚くのは、季節の変化にも目を向けていること。 、
4月11日
「旧宅の焼跡を過るにヒヤシンスの芽焦土より萌出でしを見る、表通宮様塀外の櫻花雨後猶爛漫たり、大正九年卜居の翌年より毎春見馴れたる花なれば往事を思うて悵然たり、折から警報のサイレンを聞き道源寺坂を下り電車にて代々木の寓居にかへる」
春風駘蕩の一日、渋谷から市電に乗って麻布市兵衛町に行き、偏奇館の焼け跡を見に行く。焦土からヒヤシンスの芽が出ているのを見る。近くの東久邇宮邸では桜の花が開いている。戦争のなかでも春はいつもと同じようにやってくる。非常のなかにも日常はある。花好きの荷風はそのことに感じ入っている。
4月20日
「晡下小瀧町角より中野驛の方に至る道路を歩む、茫々たる焼原より、長崎町野方町あたりかと恩はるゝ高台に晩櫻の猶新緑の間に咲き残れるを見る、其の光景の悲愁なる此を筆にせんとするも能くするところにあらず」。中野駅周辺の焼け野原の向こう、長崎町か野方町の高台に桜の花が咲き残っているのが見える。焼け野原と桜という取り合わせに深く「悲愁」を感じている。
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