2014年11月1日土曜日

明治38年(1905)1月1日~6日 週刊『平民新聞』第60号発行 水師営会談 新詩社新年会(徹宵吟会) 平民新聞第52号控訴審(「小学教師に告ぐ) 木下尚江「朝憲紊乱とは何ぞ」    

江戸城(皇居)東御苑 2014-10-28
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明治38年(1905)
1月1日
・週刊『平民新聞』第60号発行
幸徳秋水署名の「新年偶語」
「明治三十八年の元旦に社会主義万歳を三唱する者は、明治三十七年の元旦に社会主義万歳を三唱せる者に比して、其数四倍したり、多謝す警視庁、迫害は社会主義繁栄の好肥料なりき」

西川光二郎「平民社忘年会」(年末に開かれた平民社の忘年会で、各人が述べた一年の追懐を筆記したもの)。
△私の一身には、犯罪人となりしこと、近親と離れしことの二つがある、犯罪人となるといふ様なことは、予(かね)て覚悟の前とは言へ、こんなに早くはあるまいと思ひしに今は早や過去となりて之を回顧するに至りました、存外急転直下の勢を以て来る様で、ウツカリして居る間に大変動が我が頭上に来るであろうと思ふ。然れども又た、三年、五年、十年、二十年たっても、マダ吾々破顔微笑する様なことは来ぬかも知れぬ、吾々は永遠の覚悟で此事業に当たらねばならぬと思ひます(堺君)

堺利彦「平民日記」
「松岡さんが来て呉れてから、急に社中が春めいて居る」
「松岡さん」は前年(明治37年)に25歳で早世した松岡荒村(本名・悟)の妻の文子(22歳)。
松岡荒村は平民社社員ではないが、社会主義協会に入会後、自柳秀湖らと早稲田社会学会を創設して執筆や演説活動をしていたので、妻の文子も堺たちとは顔なじみだった。
前年暮れ、平民社の賄い方を務めていた老夫婦が故郷に帰ることになり、堺が文子に平民社に来てほしいと頼んだらしい。

その後、文子だけでは手が足りず、『平民新聞』紙上で手伝いに来てくれる女性を募集したところ、延岡為子が石川県の金沢から応じてきた。延岡家はもと加賀藩の両替商で、明治維新後は衰えたものの、かなり豊かな暮らしをしていた。

また、「平民日記」は、「此の年末に際し、一口に七百円といふ、我等に取つては大金の寄付を発表し得たのは、我等の愉快に堪へぬ所である」と述べている。700円は、この頃の中流家庭の約2年分の生活費にも相当する金額。
この号の「平民社維持金 寄附広告」には「金七百円也 丹波 岩崎革也氏」とある。
岩崎革也は、丹波の裕福な造り酒屋の長男で、京都府下最初の社会主義者となった人物。近年、幸徳秋水、堺利彦、北一輝、高畠素之など社会主義者たちからの革也宛書簡が、岩崎家に保管されていることがわかり、それらを通して岩崎革也の研究も進んでいる。
岩崎と平民社の人々との関係については山泉進『平民社の時代-非戦の源流』に詳しい。
岩崎は平民社に対して金銭面で何度も救いの手を差しのぺている。堺が入獄したときにもカンパを送っていて、まさに陰の恩人ともいうべき存在。
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1月1日
・尾上松之助一座、マキノ省三の西陣・千本座で興行。
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1月1日
・イタリア、ベルギー人のアンリ・ウーデンコーフェン、世界で初めて菜食主義者組織結成。
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1月2日
・水師営会談。
午後1時30分、両国降伏談判委員、会見室入り。午
後4時35分、「旅順開城規約」作成同意、調印。第3軍参謀長伊地知幸介少将・第1艦隊参謀長岩村団次郎中佐ら、ロシア守備隊参謀長レイス大佐・「レトゥイザン」艦長シチェンスノヴィチ大佐ら。
ロシア軍陸海軍将校1319中、帰国441・捕虜878を選ぶ。将官17中、帰国はステッセル中将ら10・捕虜はスミルノフ中将ら7。兵士を含むと捕虜は2万超。

この時、海外の新聞報道員がロシア軍使節団の写真撮影を申し入れたが、乃木は「後世にまで残る写真に、降伏時の姿を撮らせるのは、日本の武士道が許さない」と拒否。
その代わり「会見が終わり、友人として同列に並んだ姿なら撮ってもよい」とした。乃木はステッセル将軍以下のロシア将官を労り、互いの奮闘ぶりを讃えあった。
約束通り、乃木は会見後の写真撮影に応じたが、そこにはまるで友軍のように並ぶ日露両軍の将軍たちの姿があった。
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1月3日
・皇太子に第3皇子(高松宮)、誕生。
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1月5日
・ロシア兵、旅順口退去。
午前11時35分、乃木大将・ステッセル中将水師営会見。
午後0時55分、昼食後、記念撮影。
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1月5日
・石川啄木(19)、新詩社新年会に出席。徹宵吟会。上田敏、馬場狐蝶、蒲原有明、石井柏亭、川上桜翠、平出路花等27~8名。夜、与謝野鉄幹・晶子夫妻、山川登美子、増田まさ子、大井蒼梧、平野万里、茅野蕭々と啄木の8名。

1月7日付け石川啄木の金田一京助あて手紙
「京の春は、旅順の陥落に沸る許りの騒ぎ、花電車と云ふものに小生は初めて乗つて見候。(略)一昨五日は新詩社の新年会、めづらしくも上田敏・馬場孤蝶・蒲原有明・石井柏亭などの面々も出席、女子大学よりは『恋衣』の山川登美子増田まさ子のお二方見え候ひき。早天より終日気焔の共進会と云つた様な痛快のあつまりにて、又文壇への謀反も二つ三つ其議に上り申候。合計にて二十七八名も有之候。蒲原有明といふ男、余程喰へぬ様な奴に候ヘど、又案外お手のものに候。話して見ては林外などより厭気のない奴、小生には少々好からぬたくらみも有之候。呵々

席上にて公開したる女詩人よりのお年玉、贈られる人の歌に因んだものにて、平野万里君へは『み膝に置かむ恋しくばつけ』にて美しい手毯一つ。川上桜翠君へは『み手を知りしは夢かあらぬか』にて、うす紅の手袋。蒼梧(そうご)君へは『・・・夜殿に出づる蚊ともなり綾羅の袂玉の手に死なむ』にて、淡紅色の木綿にて縫ひ上げたる長い袂一つ。鉄幹氏へは『ひすゐ十六我れ二十八』を判じ物的にやりたるには満堂拍手致候。これに憤慨して男の方の平出露花・川上桜翠・大井蒼梧等の数君、急案急製、やがて女詩人方へ、矢張り公開の御年玉をやる事と相成り候処、奇想天外。登美子女史へ『・・・たま々々燭は百にも増さむ』にて燭台へ蝋燭十本許りを一束に立てし火を点じたるを出したるなど、就中一座を驚かし申候。夜に入りて大方は散会。残ったる主人夫妻と、山川・増田の二女史、蒼梧・万里、茅野䔥々と小生と八人にて徹宵吟会を催し、皆々多少作有之候ひしが、小生は十六行の一詩と外に未完の長詩一章を得申候。但し二時頃より、終日の舌戦の労ありたるためか、䔥々先づたふれ、主人たふれ、蒼梧たふれ、隣室の秀(しげる)様泣き出したるに晶子女史も座を立たれて残れるは四人、それも晩に一時間許りは息ひ申候。昨朝は女詩人達のお手料理あつさりしたるは、お歌に似合ぬを却つて趣味ある事に舌を鼓し候。宿にかへれるは午前十時、机上にありたる急信二三に返書認めて午後二時より就床、暮に二時間許り起きて晩餐を了り、たゞちに又華胥(かしよ)の園に遊びて今朝漸く目さまし申候。(略)

三十八年一月七日朝  啄木生
 花明兄御侍史

二伸
小生も本年は既(は)や二十歳に候。小生に取りてはこの位の滑稽天下に無之候。」
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1月5日
・第2インター執行委員会、日本の社会主義者へ同情決議。
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1月6日
・平民新聞第52号控訴審(「小学教師に告ぐ)。弁護士花井卓蔵、卜部喜太郎、木下尚江(無罪論は15日「平民新聞」社説として掲載)。
11日、判決。量刑変わらず上告。印刷所国光社の印刷機械没収命令(東京の印刷業者が社会主義者の刊行物印刷を断る方向になる)。

小疇検事が有罪の論告。
この検事は前年の「嗚呼増税」事件の控訴法廷で、「此度だけは秩序壊乱の罪にしておくが、もし再び罪を犯す時は必ず朝憲紊乱の罪に問う」と論告した人物。

病を推して出廷した弁護士花井卓蔵が2時間余にわたる雄弁をふるい、次に卜部喜太郎、最後に木下尚江の無罪論があった。

木下の弁論要旨「朝憲紊乱とは何ぞ」(『平民新聞』第62号(明治38年1月15日)の社説として発表された)。
まず教育勅語が発布された明治23、24年当時の社会情勢から説き起す。
「当時は大隈氏の条約改正失敗の後をうけて保守的反動の逆潮全国に瀰漫(びまん)し、条約を改正して欧米人の内地雑居を許すは大和民族を滅亡せしむる所以なりとの議論、勝利を占めたるの時なり。而して偶々(たまたま)発布されたる教育勅語を解釈するにも、また実にこの流行思想と時代感情とを以てし且つ倣慢にもその思想感情が真に永世不朽の勅語の聖旨なりてふ論理的混沌に陥りて、ここに教育上の権威を据えぬ。
故にその国家観念は世界を離れ、否むしろ世界を憎悪し、その頑迷不霊の思想を以て強ひて日本特有の精神なりと主張せり。爾来、条約は改正せられ内地雑居は許され内外の事情急速の進歩をとげたるにかかはらず、教育界の思想は依然たる旧態なり。サスガに文部省においても漸次その陋見を棄てんと苦慮しつゝあり、而して枢密顧問官の連署を以て文部省編纂の修身書を弾劾せる建議書出づ、如何に国家偶像の旧思想が牢乎として抜く可らざるかは・・・該建議書によって明白なり。
平民新聞の議論は、この『国家』の陋見より教育界を救はんと欲せる也。・・・何の朝憲紊乱か是れあらん。」

木下はさらに「発行禁止」の判決を非とし、「公明なる判決を受くるの参考に供せん」とて、政府の心事態度を証明した。
「政府は一に平民新聞の発行禁止を計画し、且つ社会主義者の新聞刊行を撲滅せんことに焦慮す。現に近く政府は社会主義者の新聞刊行を妨害するがために、警視庁をしてその刊行届書を受附けざらしめたり。警視庁はただその届書を内務大臣へ取継ぐの義務あるのみ、而して発行者はただ内務大臣へ届出づれば足る、これ新聞条令の明白に規定する所なり。然るに警視庁をして之を受附けざらしむ、是れ政府自ら法律を蹂躙するものなり。
もし平時ならしめば、全国の新聞紙は一斉に立って政府の不法を攻撃すべく、議会は此一事によりて直ちに政府弾劾案を通過すべし。今や戦時のために公人その常識を失ひ、社会主義者のために弁ずるの故を以て己れまた奇禍を買はんことを恐怖し、以て政府をしてこの非道違法を公演せしむ。そもそも政府は何が故に敢てこの非行を演じて顧みざるか、是れ一に『戦争の挙国一致』てふ体面を糊塗せんと欲するによる。その旅順久しく陥らず、国民漸く戦争の苦痛と惨害とを自覚するを見るや、政府は忽ち神経過敏症に陥りて警察の全力をあげて平民新聞に当れるなり。・・・而して権力を濫用して言論を圧するの事実伝播するの時、如何なる非難が欧米社会に湧出すべきかを思はざる也。・・・」

木下は警視庁が『日本平民新聞』発行届を受理しなかったことの非を指摘。
前年11月25日、平民社は週刊『平民新聞』発行禁止判決の確定を予期し、石川三四郎・斎藤兼次郎の名を以て『日本平民新聞』発行届書を警視庁に提出した。しかし、警視庁は「取調べる事がある」と称し受理を拒み、その理由を追及すると「不法と思うなら訴訟するがよい」と応答。
両人は警視庁の監督官庁である内務省を訪い、大臣秘書官に理由を質すが要鏡を得ない。
再度、警視庁に赴き官房主事に対して届書不受理の理由を質問すると、「今その受理せざる事情を申上ることが出来ません、暫くの間待って下さい」と返答するのみであった。
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