この年
・ルイ6世、ギョーム(ウイリアム)・クリトン(前ノルマンディ候ロベール(ヘンリ1世長兄)の子)を支持してヘンリ1世と戦う(1116~1120)。
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・ハインリヒ5世、ボローニャに勅令侵犯に対する罰金の半分を得る権利を承認。コムーネに対する皇帝の承認の初期の典型的な例。
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・ムラービト朝オレーハ城代(トレード東方、ターホ河畔)、ポラン(トレード南方)で敗北。
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・アンティオキアのロジェール、アレッポの混乱に乗じ、アレッポに通じる街道管理権を手中にし町周辺の砦を落す。
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1月28日
・従七位上上毛野延国を越前大目に任じる。
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3月
・平忠盛、伯耆守となる(「朝野群載(ちようやぐんさい)」)。
これ以前は検非違使の大夫尉(たいふのじよう)として、京内外の追捕や警備を行っていた。
その頃から院に近仕しており、永久2年に検非違使別当であった藤原宗忠は、事件や案件を院に奏聞する際にはしばしば忠盛に付けており、忠盛が院の申次(もうしつぎ)の立場にあったことがわかる。よって、「仙院(白河法皇)の辺」に仕え、その女房との間に清盛をなしたともいわれる所以でもある。
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・ハインリヒ5世(35)、少数の随員を伴い第2回イタリア遠征(1116~1118)。
トスカナ女伯マティルダとの相続契約を実行。マティルダの遺領と権益を入手。
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3月6日
・ラテラノ公会議。教皇パスカリス2世、公式に「特許状」を断罪。
教皇特使コノ等の司教が要求した 「皇帝の破門」を拒否。
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3月13日
・大学頭源高行を安芸に流す。
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5月15日
・四条宮寛子が主宰する父頼通供養の法会。十数年に及ぶ平等院修理の完成。
現在のようなりっぱな翼廊をもつ全面瓦葺きの建物は、この大改修によって完成したと考えられる。
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5月16日
・宋の牒状のことを評議。
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10月26日
・白河法皇、貴族の信仰が厚い熊野の参詣に向かう。摂政藤原忠実が無事を祈り般若経を読む。 *
12月
・この月除目において、白河法皇と鳥羽天皇が対立したという(「殿暦」)。鳥羽天皇の発言力が増してきている。
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永久5年(1117)
この年
・藤原氏(摂関家)の荘園強化と白河院の牽制
この年、院の熊野参詣の途中にある忠実の荘園が御幸の費用を出さないことについて、院から諮問があった。
この時期、摂関家は氏寺興福寺に対する支配権を強めていたが、翌元永元年には、院近臣である頭弁(とうのべん、蔵人頭と弁官を兼任する職)藤原顕隆(藤原為房の二男)の訴えによって、興福寺の荘園や封戸が問題となり、顕隆を通して興福寺と摂関家の荘園についての尋問があった。
また、興福寺領の阿波国竹原牧(たけはらのまき)について、国司が院に訴える事件もおこった。
さらに、翌年6月にも、蔵人所御厨(蔵人所の所領)を興福寺に寄進することが、院から禁止されている。
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・イングランド、ピータバラ主教座聖堂建設開始(建設期間1117~1193)。
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・フランス、シャルトルのイヴォー(77)、没(1040?~1117、シャルトル司教在任1089~1115)。
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・フランス、ランのアンセルムス、没(?~1117)。「標準的註解」。聖書研究。ランの教会の司教座聖堂助祭兼大聖堂付属学院を主宰。
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・バーリ候としてグリモアルドゥス・アルファラニテース、即位(位1117~1132)。ターラント候ボヘムンドゥス1世未亡人コンスタンティア(フランス王女)を投獄。
1111年ターラント候ボヘムンドゥス1世没以後の「バーリの推移」。
バーリ市民反乱、大司教リソを指導者に選ぶ。数年後、バーリが2党派に分裂
①バーリ独立派:ペトルス・ヨハンニキオスとアルギュロス。
②ターラント候ボヘムンドゥス1世未亡人コンスタンティアと同盟:バーリ大司教リソとグリモアルドゥス・アルファラニテース)。
1117年、大司教リソとアルギュロスが暗殺。グリモアルドゥス・アルファラニテースがバーリ指導者となる。
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・ベルガモ、コンスル制成立。
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・シチリアのロジェ1世未亡人アデレード、エルサレム王ボードアン1世との結婚に破れシチリアに帰国(結婚期間1113~1117)。
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・エルサレム大司教にアルヌル・ド・ルー復帰。
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1月
・初め、ハインリヒ5世、ローマへ。教皇パスカリス2世、ベネヴェントに避難、皇帝の帰国を待つ。
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1月8日
・法成寺の塔・南大門など、焼失。
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1月19日
・正四位下右大弁蔵人頭藤原顕隆に越前権守を兼任させる。
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4月
・アレッポの宦官ルウルウ、殺害。
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5月20日
・白河法皇が忍びで祇園女御のもとへ御幸した際、平忠盛が怪物の正体をあばき、褒賞として祇園女御が授けられる。
口から火を吐く化け物:
忠盛が組み伏せると、祗園の灯籠に火をつける老僧が雨よけの麦わらをかぶり、火種を消さぬ様吹き起こしながら歩いていたのを、麦わらに反射した光が振り乱した白銀の髪に見えた。
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6月1日
・春日神人、興福寺僧徒と争う。
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7月
・アラゴン王アルフォンソ武人王、サラゴサ包囲。バルセロナ伯はサラゴサ支援をせないよう、レリダを攻撃。
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10月14日
・京で地震。
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11月26日
・待賢門院藤原璋子の政所別当に正四位下右大弁内蔵頭越前権守藤原顕隆・従四位下若狭守高階宗章らを任じる。
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12月17日
・藤原璋子(のちの待賢門院)、鳥羽天皇の女御となる。翌年1月には中宮となる。
璋子;
閑院流公実の娘。康和3年(1101)生まれ。7歳のとき父を病で失い、白河法皇とその寵愛深い祇園女御の養女として育てられる。
永久2年(1114)、璋子と摂関家忠実の嫡子忠通との縁談がもちあがる。白河法皇はこの婚儀に積極的であったが、忠実は何かと理由をつけて、婚儀の日次決定を引き延ばした。忠実は、かつて摂政の座を争った公実の娘を、息子の嫁にするのは気が進まなかったと思われる。
璋子は大納言を極官(到達しうる最高の官職)とする閑院流の出身であり、先例では中宮にも皇后にもなれる身分ではない。
しかし、既に専制君主としての地位を確固としていた白河法皇の意向が、そんな先例を吹き飛ばしてしまう。
璋子は翌年1月、18歳で2歳若い鳥羽天皇の中宮となる。
そして、その翌年の元永2年(1119)に第一皇子顕仁(のちの崇徳天皇)を生む。ところが、この皇子は白河法皇の子であるとの噂が流れていて、法皇も実際にこの皇子を寵愛した。
『古事談』によれば、鳥羽天皇自身もそのことを承知で、顕仁親王を「叔父子(おじご)」と呼んだという。
『今鏡』には、白河院の在世中は、白河・鳥羽と中宮の三人が、三条室町殿に一緒に住み、外出にも三人が一つの車で御幸することがあったと書かれている。
白河法皇は、鳥羽の妃となった璋子をいつまでも手放しがたくいつくしんだと見え、噂もまた真実とも考えられる。
璋子は美人の評判が高く、はじめは鳥羽天皇に愛され、その間に五皇子・二皇女をもうけた。
ほぼ同じ頃、忠実の娘勲子(くんし、のち泰子(たいし)と改名)を鳥羽天皇に入内させる話が進んでいた。久々に天皇の外戚となれる機会であり、忠実は、永久元年(1113)、勲子の入内を春日・石清水八幡・賀茂などに祈願し、当初は積極的であった。
ところが、この話は忠実の心変わりで立ち消えになった。
永久元年時点で、勲子は19歳、鳥羽天皇は11歳であったが、8歳年長の妻というのは、忠実の正室師子(しし)の場合も同じで、これくらいの年齢差は問題にはならない。
ただ、勲子の母師子は、かつて法皇との間に覚法(かくほう)法親王(法親王:出家後に親王宣下を受けた皇子)を生んだのち、忠実に下された女性であった。忠実は、法皇が勲子を求めているのではないかとの疑念をもったようだ。男女の性に関して比較的おおらかな当時の貴族社会であっても、実の母子ともに関係をもつのは禁忌(タブー)である。勲子の入内は家にとってぜひはたしたいが、天皇が自分の意志を示して行動できるまで待とうということだったのではないだろうか。
この年10月~12月、忠実は、璋子と備後守藤原季通らとの密通を日記『殿暦(でんりやく)』に暴き立てる。最高権力者である白河法皇の養女に対して投げかけられた「奇恠(きかい)不可思議の女御か」「くだんの女御奇恠の人か」「乱行の人」といった暴言は、常軌を逸している。
忠実の閑院流に対する怨念。摂関家当主としての苛立ち。
この頃、平忠盛は、女御の家司(けいし)となり、父の正盛と共に政所別当となる。
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