2015年11月20日金曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(21) 「11 また見る真間の桜」 (その1) : 《三時過岩波書店編輯局員佐藤佐太郎氏来り軍部よりの注文あり岩波文庫中数種の重版をなすにつき拙著腕くらべ五千部印行の承諾を得たしと言ふ。政府は今年の春より歌舞伎芝居と花柳界の営業を禁止しながら半年を出でずして花柳小説と銘を打ちたる拙著の重版をなさしめこれを出征軍の兵士に贈ることを許可す。何等の滑稽ぞや。》(『断腸亭日乗』昭和19年9月2日)

*
 戦争によって狂気に追い込まれたのは、軍人や一部の官僚とその手先ばかりにかぎらない。頭髪を坊主刈りにして、国民服に戦闘帽、脚にはゲートルを巻いていたような文学者が、独善的な愛国の名のもとにどんなものを書き、時流に同じない文学者をどんな眼でみたか。おなじ文学者のなかから摘発者まで出現するに至ったという一事だけを以てしても、昭和十年代は日本文化史上の恥部といわねばならぬ年代であった。大陸開拓文芸懇話会、海洋文学協会、経国文芸の会、国防文芸連盟、文芸銃後運動、そして、文士の勤労奉仕、ミソギと書きつらぬれば、戦時中には沈黙をまもる - なにも発表しないという、ただそれだけの行為すらひとつの抵抗であったという意味も、ある程度まで理解されるのではなかろうか。

 なるほど、荷風もまた戦局がかなり深まった時点で小品文『枯葉の記』や、『雪の日』などを発表している。のちに『勲章』と改題した『軍服』を中央公論社長の嶋中雄作に郵送したり、音楽映画台本『左手の曲』になんとか陽の目を浴びさせようと努力もしている。したがって、『浮沈』、『踊子』、『来訪者』、『問はずがたり』なども、北原武夫の『荷風を読む』(『文学論集』所収)にならって、《強いられた沈黙時代》の諸作とみるべきであるかもしれない。

 が、もし発表ということのほうに重心がおかれていたら、『浮沈』は兎も角として、『踊子』や『来訪者』や『問ずがたり』などは、はたして執筆されていただろうか。すくなくとも『踊子』には着手されていなかっただろうし、『来訪者』の後半部なども現在のこされているかたちのものとは別の展開をしていたことだろう。検閲のきびしかった戦時中という時代背景を考慮に入れるとき、『浮沈』以下の諸作は発表を断念した上での制作-沈黙を前提とした諸作であったと考えられる。

 前章にもいちど引いたが、《戦乱の世に生を偸む悲しみを述ぶるには詩篇の体を取るがよし》と想到した荷風が《散文にてあらはに之を述べんか筆禍忽ち来るべきを知ればなり。》と『断腸亭日乗』に記したのは、まだ太平洋戦争の開戦に至らぬ昭和十五年十月二十四日のことであった。時代が荷風に沈黙を強いたことは否めないが、『浮沈』以下の諸作は沈黙のなかで彼が精いっぱい時代の体制に抵抗したすがたを示している。敗戦直後に荷風ブームと呼ぶほかはない現象が招来されたのも、戦時中における彼のそうした姿勢に対する喝采の顕現にほかならない。誤解をおそれずにいえば、そこには十八年の投獄生活にたえて出所した徳田球一、志賀義雄におくられた相手に通じるものがあった。

 戦時中の言論・思想統制という狭窄衣を着せられたような状態に、国民はどれほどウンザリしていたか。それが明らかになったのは敗戦後になってからのことだが、すでにその徴候は戦争末期から胎動していた。昭和十五年から十六年にかけて荷風の旧作が次から次へと重版されたばかりか、全集刊行の許諾を彼にもとめた出版社すら三社にのぼったことについても前章でみておいたが、十九年九月二十日の『日乗』には次のような記述がある。

 《三時過岩波書店編輯局員佐藤佐太郎氏来り軍部よりの注文あり岩波文庫中数種の重版をなすにつき拙著腕くらべ五千部印行の承諾を得たしと言ふ。政府は今年の春より歌舞伎芝居と花柳界の営業を禁止しながら半年を出でずして花柳小説と銘を打ちたる拙著の重版をなさしめこれを出征軍の兵士に贈ることを許可す。何等の滑稽ぞや。》

 そして、敗戦の年 - 昭和二十年をむかえると、情勢はさらに変化する。二月二十三日の記述をみよう。

 《晴 午後床屋に行きて帰るに木戸氏来りて待ちゐたり。其友人中出版業をなす者あり。最近検閲局の検閲も稍寛大になりたれば余の近作来訪者踊子など上梓したまはずや言へり。》

 ここに《木戸氏》とあるのは熱海大洋ホテル主人の木戸正で、彼は戦時中さまざまな食料品を荷風におくった代償として新作原稿に眼を通す機会をあたえられていた。《来訪者踊子など上梓したまはずや》というような言葉が木戸の口から出たゆえんで、《其友人中出版業をなす者》とあるのは筑摩書房社長で今は故人となった古田晁である。また、敗戦直後に疎開先の岡山から引揚げた荷風がしばらく滞在した熱海市和田浜南区一三七四番地の家屋は、木戸の経営していた旅館が休業中のため空家となっていたのを荷風の従弟=杵屋五叟一家が借り受けていた関係で、そこへ又借りのようなかたちで寄寓したものであった。

 が、それにしても、《最近検閲局の検閲も稍寛大になりたれば》という一節には、戦時中すなわち暗黒時代というイメージをもつ戦後世代には理解しがたいものがあるのではなかろうか。すくなくとも、常識的にはその種の疑問をもつことのほうが当然だが、たまたま私自身が接触をもったせまい体験の範囲にかぎっても、この記述この記述にみられるような傾向はそのすこし以前から実際に生じていた朝令暮改を反復した戦時中の為政者の無定見ぶりの一端が、そんなところにも馬脚をあらわしている。

 昭和十六年六月二十八日から現在の「東京新聞」の前身である「都新聞」に連載された徳田秋声の『縮図』が、情報局の干渉によって八十回で中絶に追いこまれたのは同年九月十五日のことで、その初版が出版されたのは敗戦後の二十一年七月だが、実は戦時中にも少部数ならという条件つきの許可が出て、いちど出版のはこびに至った。出版社は小山書店で、用紙も入手し、印刷も完了した段階で神田の製本屋が戦火に遭ったため、小山久二郎社長の手元に見本がただ一部のこっただけで灰燼に帰してしまったというのが実情なのだが、当時の出版は許可制のために日本出版会という機関へ企画届という書類をそえて原稿を提出するように義務づけられていた。その原稿として提出されたのか今も私の所蔵している「都新聞」の切抜きで、私が秋声の長男である徳田一穂から望まれてその切抜きを提出用に提供したのは海軍に応召した直前のことである。そして、その召集を私が受けたのは、佐藤佐太郎が《腕くらべ五千部印行の承諾を得》るために偏奇館を訪問した十九年九月二十日に六日先立つ同月十四日であったから、いちど新聞連載を禁じられた未完の『縮図』に出版の望みが生じた ー 荷風の表現にしたがえば《検閲局の検閲も稍寛大》になったのは十九年九月十四日よりほんのすこし以前ということになる。なぜ、ほんのすこしなどというかといえば、中央公論社と改造社が解散に追いこまれたのが同年七月のことだったからで、七月ごろにはまだ《寛大》ではなかったと考えられるからである。もっとも、思想問題と風俗問題とは別で、秋声と荷風のばあいが後者であったことはいうまでもない。

 荷風が木戸正のすすめに応じる気になったのには、関係の深かった中央公論社が解散してしまっていたということもあったろう。木戸の訪問を受けた翌々日に相当する二月二十五日の夜半に、東京が空襲を受けていたこととも無関係ではなかったかもしれない。三月六日の「日乗』には、《午下木戸氏来り話す。》とあって、さらにその二日後の八日には神田へ用事で出かけた帰途、赤坂福吉町の河野書店へ立ち寄ったところ正月に閉店して近日浦和へ転居するつもりだといわれたという記述がみられ、そのあとに次のように書かれている。

 《家にかへるに木戸氏筑摩書房主人を伴ひ来り話す、小説来訪者の草稿を交附す、》

 「偏奇館焼亡」がその翌日の夜半-正確には三月十日の払暁であったことについても、すでに記しておいた。林茂は『太平洋戦争』(中央公論社版「日本の歴史」)に《このときの死者七万二千、消失家屋十八万余棟、三十七万二千世帯約百万人が焼け出された。》としている。そんな状況のなかでも、というよりそんな非人間的な状況であったからこそ、荷風の人間くさい著書の出版はもとめられていたのである。敗戦直後の荷風ブームは、むしろ当然の帰結であった。
*
*

0 件のコメント: