2017年10月27日金曜日

明治39年(1906)10月 夏目漱石門下生の「木曜会」開始 木曜会の人々 森田草平 鈴木三重吉 「ホトトギス」の俳人たち 小宮豊隆 

稲村ヶ崎 2017-10-23
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明治39年(1906)
10月1日
・吉岡弥生ら、大日本実業婦人会を結成。
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10月1日
・医師法・歯科医師法(5月2日公布)、施行。
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10月1日
・北海道炭鉱鉄道、甲武鉄道など国有化。
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10月1日
・鉄道国有法(3月31日公布)、施行。
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10月2日
・日清間営口還付に関する北京協定ならびに交換公文承認。
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10月2日
・足尾銅山に大日本労働至誠会支部設立。
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10月2日
・(露暦9月19日)ペテルブルク・ソヴィエトのメンバーに対する裁判開始。
反動側の狙いはヴィッテの自由主義と革命への弱腰の暴露。証人喚問400人、1ヶ月。綱領を開陳し帝政を告発する場とする。
トロツキーは元老院議員ロプーヒン(1905秋、警察署内にポグロム煽動文書の印刷局を開設)喚問を要求するが、法廷が拒否したため公判ボイコット。弁護人・証人・傍聴人も退廷。判事・検事のみで判決言い渡しとなる。
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10月4日
・鬼怒川水力電気会社設立(栃木県)。
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10月5日
・中央製紙株式会社創立(岐阜県)。資本金50万円。
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10月7日
・林董外相、英公使に英の威海衛継続占領を希望。
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10月7日
・イランで第1回国民会議開催(テヘラン)。自由憲法作成に着手。
イラン国王は12月30日、草案に署名し翌日死亡。
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10月8日
・仏、労働総同盟(CGT)大会、サンディカリズム基本理念を表明したアミアン憲章採択(~14日)。
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10月10日
・この日付漱石の若杉三郎宛手紙。
「明治の文学」はこれからであり、今までは「眼も鼻もない」時代である。これから若い人々が大学から輩出して、「明治の文学」を「大成」するのである。それは「前途洋々たる時機」である。漱石も幸いにこの、「愉快な時機」に生まれたのだから、死ぬまで、「後進諸君」のために路を切り開いて、「幾多の天才の為めに」、舞台の下ごしらえをして働きたい、と述べ、
さうかうしてゐるうちに日は暮れる。急がなければならん。一生懸命にならなければならん。さうして文学といふものは国務大臣のやってゐる事務抔よりも高尚にして有益な者だと云ふ事を日本人に知らせなければならん。かのグータラの金持ち抔が大臣に下げる頭を、文学者の方へ下げる様にしてやらなければならん。
と、明治の文学観、過去、現在、将来の抱負などを披歴。
漱石の文学者としての責任感がうかがわれる。
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10月10日
・豊田佐吉、軽糸解舒及緊張装置(自動織機)特許取得。
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10月11日
・夏目漱石門下生の「木曜会」開始。
「木曜日の午後三時からを面会日と定候」(明治39年10月7日付野村伝四宛書簡)。
小宮豊隆、寺田寅彦、鈴木三重吉、森田草平、阿部次郎らが集る。
晩年の大正4年(1916)には、菊池寛、芥川龍之介、久米正雄らが始めて木曜会に参加。

《木曜会の人々》
■森田草平
漱石「草枕」(「新小説」明治39年9月号)発表のとき、草平(数え26歳)は岐阜県鷺山村の郷里に帰っていた。7月に東京帝国大学英文科を卒業しまだ就職は決まってなかった。彼は自分の卒業成績では東京によい地位は得られないと思って就職は諦めていた。卒業の少し前、伊藤博文の娘婿、末松謙澄が書いた日本論 ”Rising Sun” の和訳を頼まれて原稿料を得た。そういう雑原稿によって生活するか、それとも中学校教師にでもなって地方へ行くか、決めかねていた。同じ年に東大美学科を卒業した1つ年下の生田長江も同じような気持ちでいた。
森田と生田は、一高時代に「明星」に寄稿したり、上田敏・馬場孤蝶らが創刊した「芸苑」に翻訳を載せたり、小説の試作をしたりしていたので、このまま筆で食って行けそうでもあった。生田は、大学を卒業した頃、博文館から模範文集の編纂という仕事を小遣取りに引き受け、諸作家の文章の編輯と解説をしていた。
森田は、時々夏目家に出入りし、また馬場孤蝶や上田敏を訪ねたりして、生田とともに何とかして文士として生活出来るようになりたいと思っていた。森田は自分と生田と、同じ「明星」の寄稿仲間だった級友の川下喜一と3人の作品集「草雲雀」を編纂して、出版社を見つけてほしいと漱石に頼んであった。

草平11歳のとき父亀松が死んで、母とくが1人で郷里の家を守っていた。家に多少の資産はあったが、その資産は失われ、今度帰って見ると、母屋も離れも売られて、母は買い手のつかない古土蔵に独住いしていた。
郷里では、彼が数え年19歳で金沢の第四高等学校に入ったとき、彼を追って来て同棲し、退学させられる原因を作った遠縁の森田つねという女が、彼との結婚を待っていた。草平が改めて入った東京の第一高等学校を卒業した明治36年夏、つねは彼の息子を産んでいた。その子(亮一)は、この時数え年4つになっていた。草平が大学を卒業したと知って、つねの両親は彼に結婚を迫った。だが、草平はつねと結婚したくなかった。

8月末、彼は「新小説」に掲載された「草枕」を読んだ。前に漱石から聞いて、大きな期待を持っていたが、「草枕」の出来は、彼の期待以上であった。
彼は「吾輩は猫である」を読んで以来、熱烈な漱石ファンになっていたが、「草枕」を読んだ時ほどその才能に感嘆したことはなかった。「草枕」を読んだあと、彼は、とにかく一刻も早く東京に出て、漱石に逢いさえすれば、自分の運命ぐらいは切り開かれるような気特になった。彼は母を説きつけて、既に抵当に入っていた7,8反の畑と田地を売り払うことにして、母の生活費と自分の差し当っての生活費を作って、9月初めに上京した。

彼は先ず「草枕」についての感想を漱石に書き送った。漱石からは返事がすぐあった。
漱石は、「今日まで『草枕』に就いて方々から批評が飛込んで来る。来る度に、僕は喜んで読む。然し言語に絶しちまったものは、君一人だから難有い。今日迄受け取った批評の中、最も長く且真面目なものは深田康算先生のものである。尤も驚嘆し、尤も感情的なものは君のである。」と書いてあった。深田康算は森田より4年前に東大哲学科を卒業して大学院に入っていたが、その学才を認められていた秀才であり、漱石が、寺田寅彦とともに敬意を持って接していた後輩であった。漱石の手紙をもらうと、森田は早速夏目家へ出かけた。

■鈴木三重吉
森田の上京と前後して、鈴木三重吉(数え25歳)が広島から上京した。彼は大学2年になった前年9月から、神経衰弱で1年間休学していた。その間に彼は夏目家ですっかり有名な人物になっていた。
鈴木は、三高以来の友人の中川芳太郎に、漱石讃美の長い巻紙の手紙を送ったところ、それが夏目家に届けられ、しかも夏目家に入った泥棒に尻拭きに使われて笑い話になった。また今年5月の「ホトトギス」に発表された彼の処女作の「千鳥」が大変な好評に迎えられ、今度はいい意味で評判になっていた。
漱石は教室で鈴木の顔に見覚えがなく、この頃よく夏目家に出入りしていた小宮豊隆も森田も鈴木の顔には見覚えがなかった。彼を知っているのは中川芳太郎だけだった。いったい、どんな顔の男だろう、ということがよく話題になった。あるとき、漱石あての手紙の中に鈴木の写真が一枚入っていた。それは黒い背景の中に胸の辺まで裸になり、莇(あざみ)の花をあしらったもので、ギリシャ彫刻のアポロの胸像とそっくりに気取った、石膏のように色の白い青年の姿であった。漱石はその写真を見て幽霊のようだといったが、外の連中は好男子だということに一致した。近くその鈴木が上京するというので、夏目の妻の鏡子や女中などは、笑い話にしなからその上京を期待していた。

9月初め、その鈴木が千駄木町57番地の夏目家にやって来た。鏡子が出て逢うと、顔の輪郭はたしかに写真の通りだが、目玉がぎょろりとして、首の長い色の黒い、とても好男子と言える顔ではなかった。鈴木は調子の高い青年で、はきはきとものを言い、自分の才能が漱石に買われているという自信もあったので、夏目家で先輩の寺田寅彦などに逢っても怖じるところがなかった。

漱石は数え40歳、この年4月の「坊っちゃん」と「新小説」9月号に発表した「草枕」により、学者の余業から完全な文士として、文壇人に力を示し、小説家としての漱石の力を疑うことは何人にもできなくなった。
「草枕」における美文調と脱俗的な文人思想との結合は、泉鏡花の方法を思わせるところはあったが、先例のない新しい小説であった。鈴木から見ると、「草枕」は、中年になった漱石の人間としての諦観を芯としている点では、25歳の彼に書けるような作品ではなかった。しかし抒情的な文体による田園の風趣の中に人間を描くという点で、その年4月に漱石の推薦によって「ホトトギス」に出た彼の「千鳥」の影響がこの作品に及んでいることを漠然と彼は感じていた。その意識が、もともと調子の高い人間であった鈴木三重吉を、夏目家において自由に感じさせ、自分は漱石に甘える特権があるという意識を抱かせる原因になった。

■俳人たち
この頃、夏目家の来客には、「ホトトギス」の高浜虚子、坂本四方太、篠原英喜の俳人たちがいた。この人々は34、35歳であった。
それから前々年(明治37年)に東大の理科大学講師となり、38年末に郷里から二度目の妻寛子を迎えて小石川区原町12番地に居を構えた数え年29歳の寺田寅彦がいた。
また松山中学で夏目の生徒であり、一高~東大法科に学び、前年に卒業して宮内省に勤めながら俳句を作っている松根東洋城(豊次郎、29歳)がいた。松根はよい家柄の出で、鷹揚な人物であり、漱石の俳句を遠慮なく古いと言って非難した。
他は多く東大の学生か卒業したばかりのもので、野間真綱、野村伝四、中川芳太郎、小宮豊隆、野上豊一郎、森田草平、鈴木三重吉などであった。

■小宮豊隆
小宮豊隆は、このとき数え23歳、福岡県京都郡犀川村久富に明治17年に生れた。父弥三郎は農科大学の卒業生で、福岡の農業学校の教師をしていた。小宮豊隆が中学校に入学した頃、従兄の丹村泰介というのが熊本の第五高等学校にいて漱石(夏目金之助教授)に俳句を見てもらっている話を聞いていたので、その頃から彼は、俳句、夏目漱石、「ホトトギス」などということを覚えていた。そして中学の4、5年生頃から自分でも俳句を作った。明治35年、19歳のとき、豊津中学校を卒業して第一高等学校に入学。そのとき同時に一高に入ったものに、安倍能成、中勘助、野上豊一郎、茅野儀太郎、有田八郎、前曲多門、堀切善次郎、青木得三などがいた。小宮豊隆が一高の2年になったとき、漱石がイギリスから戻って一高の教師になった。そのとき校長は狩野亨吉で、藤代禎輔、桑木厳翼、松本文三郎、原勝郎、岩元禎、杉敏介、菊池寿人等の教授が一高にいた。

イギリスから帰ったばかりの漱石は、小宮から見ると、ひどくハイカラな服装をしている点で、教授たちの中でも異彩を放っていた。洋行帰りの教授たちは一般に服装や態度に細心なものであるが、漱石はその点が一層目立っていた。房々と生えた口髭の両端をぴんと刎ね上げ、高いダブルのカラーに、よく身体に合った紺地の背広をきちんと着こなし、ズボンにはよく折目がついていた。靴はよく磨いたキッドの編み上げであった。漱石はそういう服装で、菊倍判ぐらいの黒いクロース表紙の出席簿の角のところをつまんで持ち、爪先立ちにひょいひょいと弾みをつけて、少し俯向きがちに教員室から教場へ歩いて来た。

夏目と同時期にドイツに留学して帰っていた藤代禎輔は、一高教授のかたわら、夏目と同様東大の文科大学でドイツ文学を教えていた。小宮は東大に入ってからドイツ文学を学ぶことにしたので、フロレンツと藤代禎輔とに就くことになった。

小宮は大学に入るに当って保証人を置かねはならなかった。彼の従兄犬塚武夫がロンドンで夏目と同じ下宿にいて親しかった縁によって、彼は大塚の紹介状をもらい、明治38年9月、初めて夏目の家を訪い、保証人になってもらった。彼は森田や鈴木と違い、小説家漱石の仕事に魅惑されて近づいたのでなく、少年時代から間接に漱石という人物を知り、従兄たちの緑によって、いつとはなく夏目を自分に近い人間として考えるようになっていた。彼は保証人と学生という関係で夏目家へ出入りするようになったのだが、夏目に接する機会が多くなるに従って、その人柄に引きつけられた。彼は夏目家に集まる人々の中で年若でもあった。この年9月、小宮は文科大学のドイツ文学科2年になっていた。彼はドイツ文学をやめて英文科に転入しようと思うことがあったか、そうもできないので、ドイツ文学科のフロレンツの授業をすっぽかして、夏目の「十八世紀英文学」とシェークスピアの講読とに熱心に出席していた。

森田は、「千鳥」発表のときから、鈴木三重吉に関心を持っていたが読む機会がなかった。9月に上京してみると、「千鳥」の評判はますます高く、寺田寅彦はこの作品に感心して「好男子万歳」と書いた葉書を漱石に寄せ、写生文を熱心に書いていた坂本四方太は「四方太などは到底及ばない、名文である、傑作である」と漱石に書いた。森田は「千鳥」を熟読し、その官能的な筆致には自分の到底及ばないところがある、と思った。しかし、彼は馬場孤蝶の影響でロシアの近代文学を多く読んでいたし、自分の身の上に暗い、解決不可能な事情があったので、自分の書きたいものは告白文学であるときめていた。だから必ずしもこの「千鳥」のようなものは書けなくても構わない、とすかな慰めを感じた。
森田は、ほぼ同じ9月初めに上京した鈴木と夏目家で顔を合せた。鈴木は、いかにも自信ありげに見えた。神経衰弱で休学したというだけあって、鈴木は神経質に見えたが、目玉をぎょろぎょろさせて、始終昂奮しているような賑やかな人間で、夏目家で自分の家にいるように振舞っていた。その率直な態度は、陰鬱な森田や、人々の中で控え目に黙っている小宮よりも漱石の気に入っているらしく、騒々しいほどの鈴木の饒舌を漱石はにやにしなから黙って聞いていた。そして、漱石が時折彼をたしなめると、鈴木は「先生はわしばかり叱る」と不平そうに言った。その言い方にも漱石への甘えが漂っていた。
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10月11日
・サンフランシスコ教育委員会、日本、中国、韓国人学童の隔離指令。以後、対日関係緊張。1907年3月13日に取り消し。
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