2020年11月16日月曜日

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ8)「加藤拓川が出発して十六日目の五月十八日、加藤家で拓川の三男忠三郎が生まれた。後年、律の養子となって正岡家を継ぐ子である。拓川が男の子であったらと、あらかじめ決めておいた名前は忠三郎であった。拓川の幼名もまた忠三郎、名のりは恒忠であったが、新時代を生きる三男には名のりはなく、生涯を忠三郎としてすごすことになる。 雀の子忠三郎も二代かな 子規の祝句であった。」   

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ7)「この頃、子規は痛みもさることながら、精神の圧迫にいらだつようになっていた。 横たわっていると天井が迫ってくる。襖が倒れかかってくる。そんな思いに襲われて狂気するようだというのである。そのうえ、人が二人以上側にいると頭に障る。ことに体の大きな者にいられるとつらい。.....逆に圧迫感を与えないのは小柄な虚子であった。子規は結局、虚子を頼りにしているのである。」

より続く

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ8)

明治三十五年三月十日は月曜日、晴れた暖い日であった。前夜、子規はいくらか気分がよかったのであろう、俳句をつくった。その高揚のせいか眠れずにむかえた朝、前年十月二十九日に日付のみしるして中断した私的な病床日記『仰臥漫録』の再開を思い立った。

三月十日分の記述は以下のごとくであった。


(略)


三月十日の項はまだつづいて、午後四時すぎ左千夫と、やはり歌の弟子である蕨真がきた、左千夫は紅梅の盆栽を持参した、蕨真は鰯のなれ鮨をくれた、とある。元気が少しでも出れば食べものについて書く子規だから、その日の夕食は鰯のなれ鮨とうどん、さしみの残りに、長塚節が送ってくれた金山寺味噌と記録した。ひさびさ、おいしく食すことができた。

蕨真は五時頃帰ったが左千夫は九時までいて、歌の雑誌のことなどを話した。話しつつ子規は牛乳を飲み、煎餅、蜜柑、それに飴を食べた。


くれなゐの梅ちるなへに故郷(ふるさと)につくしつみにし春し思ほゆ


左千夫がくれた梅を眺めて詠んだ歌は、三月二十六日付「日本」に掲載された。故郷松山の、あの懐かしい春に帰るすべはもはやないのである。

三月十一日、十二日も、食べもの、来訪者、麻痺剤服用についてややくわしくしるした。しかし『仰臥漫録』は事実上ここで終った。六月二十日になってまた書きはじめたが、それはごくわずかな心覚えを加えた、一日あたり一行ほどの「麻痺剤服用日記」にすぎなかった。

以後、子規に残ったエネルギーのすべては、明治三十五年五月五日付の「日本」にはじまって途中二回休載したのみで、死の前々日、九月十七日まで書き継がれる『病牀六尺』に投じられる。漱石とおなじく、子規も「読者」がいなくては書く気がしないのである。


三月二十日、鳥籠のカナリアの鳴き声が神経に障ると子規がいったので、碧梧桐がもらいうけることになった。カナリアを愛していた律は、ひそかに悲しんだ。しかし兄の言は絶対である。あるいはそれは、健康な律への子規の嫉妬心のあらわれであったかも知れない。

三月末、その埋め合わせのつもりか、子規は碧梧桐夫妻に頼んで、律を郊外の赤羽へつくし摘みに連れ出してもらった。帰宅した律は、煮びたしにするためにつくしのハカマをむしりながら、つくし摘みのたのしさを語ってやまなかった。子規は律のそんな様子を喜ばしく思い、四月四日の「日本」の記事に、「つくしほど食うてうまきはなく、つくしとりほどして面白きはなし」と書いた。

翌週日曜日、今度は母八重を向島の墨堤に花見に行かせた。このときも碧梧桐夫妻に同行を頼んだ。母もまた帰宅して、その話をしきりにした。自分の面倒を見るために、母と妹はいっしょに外出できない。家族がささやかに慰安されたことを子規は喜んだ。

加藤拓川がベルギー公使として赴任することが正式に決まったのは二月であった。出発は五月三日だという。旧友秋山真之、漱石ばかりではない。浅井忠、中村不折とつづき、今度は叔父拓川が洋行する。病床から一寸たりとも動けぬ自分を置いて、みなヨーロッパへ旅立つ。詮ないと承知のうえで、子規は悲しんだ。

拓川の旅立ちに子規が菓子に添えて贈った句は、つぎのようであった。


春惜む宿や日本の豆腐汁


思い起こせばちょうど七年前の明治二十八年初夏、あたかも空砲のごとくであった日清戦争従軍行からの帰途、船上で発病して神戸の病院にかつぎこまれた。それから須磨、漱石がいた松山で療養し、その年の秋上京して痛む腰をカリエスと診断された。いずれのときも周囲は死にもやせんと狼狽したのに、自分は死を思うことなどなく冷静であった。いまは逆だ。周囲は、さまで心配していない様子なのに、自分はしきりに死を思って心細い。

そんな子規が漏らした感想を、碧梧桐が明治三十五年四月二十日発行の「ホトトギス」(第五巻七号)の「消息」に書いた。

五月五日付の「日本」紙上から子規が『病牀六尺』を載せるようになったのは、この心細さを打消すためであった。また拓川が外国に去り、自分ひとりが根岸の佗び住まいの病床に置き去られた淋しさを癒すためであった。子規に必要なのは、仕事であり読者であった。それが病床六尺を天地として、最後の生を生きる彼の唯一の拠りどころであった。


(略)


百二十七回までつづく『病牀六尺』の第一回の原稿が口述されたのは、拓川が旅立ったその日、五月三日であった。筆記者は虚子である。

加藤拓川が出発して十六日目の五月十八日、加藤家で拓川の三男忠三郎が生まれた。後年、律の養子となって正岡家を継ぐ子である。拓川が男の子であったらと、あらかじめ決めておいた名前は忠三郎であった。拓川の幼名もまた忠三郎、名のりは恒忠であったが、新時代を生きる三男には名のりはなく、生涯を忠三郎としてすごすことになる。


雀の子忠三郎も二代かな


子規の祝句であった。

五月二十日、病床枕頭で蕪村句集輪講会が行われた。病状悪化で会場を鳴雪宅に移していた会だが、子規が望んだので四月下旬の例会から再び子規庵に還ったのである。四月の参会者は、子規のほか鳴雪、碧梧桐と虚子であった。五月には、それに紅緑が加わった。地方の新聞を転々として、合計十一社に在籍することになる紅緑は、この時期たまたま在京していた。

その日、「日本」の編集者古島一雄があえて『病牀六尺』を休載にしていた。体力の著く衰えた子規を、無理して連載することはないと気遣った結果であった。

子規はすぐに古島宛の手紙をしたためた。


僕の今日の生命は「病牀六尺」にあるのです。毎朝寐起には死ぬる程苦しいのです。其中で新聞をあけて病牀六尺を見ると僅に蘇るのです。今朝新聞を見た時の苦しさ。病牀六尺が無いので泣き出しました。どーもたまりません。若し出来るなら少しでも(半分でも)載せて戴いたら命が助かります。(原文はカタカナ)


悲痛な手紙であった。その悲痛さのなかにも、やはり現代日本語の書き言葉の確立が読みとれる手紙であった。


つづく


0 件のコメント: