2020年11月20日金曜日

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ11)「子規は狂喜した。そして翌日から二日間、「渡辺のお嬢さん」なる美女を主人公とした物語を『病牀六尺』に掲げた。 (略) この「渡辺のお嬢さん」の物語は八月二十四日の分だけで原稿用紙八枚半分もあり、『病牀六尺』中の最長編となった。」    

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ10)「子規の「女子教育必要論」とは、女も学問せよと勧めるのでは必ずしもなかった。気のまわる看病をするためには常識と見とおしのよさが必要で、たんに愚直なだけでは病人はいらだつばかりだ。そのための「教育」とはすなわち、律に対する不満の吐露にほかならない。病状から察して無理ないこととはいえ、たんに自己都合であった。」

より続く

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ11)

明治三十五年八月二十日、もうひとつ小事件があった。鈴木芒生(ぼうせい)、伊東牛歩(ぎゆうほ)、ふたりの若い俳人が『南岳草花画巻(なんがくそうかえまき)』を持参したのだ。

子規がこのところ草花の写生に熱中していると「ホトトギス」の「消息」で知った彼らは、皆川澄道という本所の寺の僧が、先住から伝えられて所有していた一冊を借りだしてきた。芒生はこの俳句の心得ある僧が住持をつとめる寺に下宿していた。

子規は『南岳草花画巻』が大いに気に入った。その気に入りかたはいささか度をすごし、しみじみ眺めた末に、これを譲ってもらえぬだろうか、といった。

・・・・・それはむずかしかろう、というふたりに子規は、聞くだけでも聞いてみてくれ、と粘った。

翌八月二十一日、芒生、牛歩連名の手紙が届いた。澄道師は、貸すのはいつまででも貸すけれども譲れぬといっている、とあった。

子規は、草花画巻の件了承、配慮を謝す、と返書をすぐにしたため、末尾に、「断腸花(だんちやうくわ)つれなき文の返事哉」と未練の一句を加えた。

だが数時間もせぬうち、子規はもう一通書き、追って律に投函させた。

それは、やはり草花画巻あきらめきれず、身にかなうことなら何でもして入手したい、という内容の書簡であった。

子規は、自句の短冊十枚ばかりなら画巻と交換してもらえるのではないかと思っていた。だが代金となると心細い。奮発しても二、三十円しか出せない。だが、それでもよろしければ、とその芒生宛の手紙に書き添えた。


病む人が老いての恋や秋茄子(あきなすび)


この句はその日につくった。満三十四歳で「老いての恋」はどうかと思うが、彼の心情としてはそのようであった。また子規には、瀕死の病人には特権があるという思いも強く、それが無視されたと感じられたとき、執着はことさら増したのである。

手紙を読んだ芒生と牛歩は、再び澄道和尚に乞うたが返事はかんはしくなかった。

窮した彼らは、その頃根岸に住んでいた碧梧桐を訪ね、事情を話した。碧梧桐は八月二十一日のうちに単身澄道を訪ね頼んでみた。が、和尚の態度はかわらなかった。

翌八月二十二日、今度は三人で和尚に会いに行った。

碧梧桐には腹案があった。それは、表向き和尚が画巻を快く譲ると約し、その代償は子規の短冊十枚とすると決する。しかし実際には画巻は子規に貸与、子規没後の百ヵ日には相違なく返却するという手筈であった。承諾した澄道を安心させるため、碧梧桐、芒生、牛歩連名の一札を入れた。

子規の命が旦夕に迫っていることは、もはや誰の目にも明白だった。若いふたりが市中の自働電話から陸家に電話して、子規にそのむね伝言するよう依頼したのは、八月二十二日午後三時であった。

子規は狂喜した。そして翌日から二日間、「渡辺のお嬢さん」なる美女を主人公とした物語を『病牀六尺』に掲げた。

(略)

この「渡辺のお嬢さん」の物語は八月二十四日の分だけで原稿用紙八枚半分もあり、『病牀六尺』中の最長編となった。一方、短い日は七十字分ほどしかないのだから、「日本」の紙面担当者は毎日割付に難儀しただろう。当の子規はまるで意に介さない。


つづく




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