より続く
関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ10)
その二 子規、最後の 「恋」
「渡辺のお嬢さん」
・・・・・
八月一日、子規は「菓物(くだもの)帖」にトウモロコシを写生した。さらに、渡欧した中村不折が置いて行った画帖に「草花(くさばな)帖」と命名、秋海棠と金蓮花を、この日一枚ずつ写生した。
そのあらたな写生帖の巻頭には、つぎのように自筆した。
自分のものとして之に写生するときは、快極(きわまり)りなし。又其写生帖を毎朝毎晩手に取りて開き見る事、何よりの楽みなり。(原文カタカナ)
(略)
しかし痛みはつのる。一日二回まで、少なくとも八時間はおいて、と医者に指示されたモルヒネだが、どうかすると三回服用しなければ済まない。この時期には一日二回と一日三回を交互に服用していた。
明治三十五年七月三十日発行「ホトトギス」第五巻十号の「消息」欄に、碧梧桐が子規の病状と日常について報告している。
「日に十句二十句を作り写生画一枚二枚を画(か)き、病牀六尺の原稿も手ずから認めらるることさえあり」
要するに、一時ほど悪くはない、創作意欲もさして衰えていないといっている。
風板(ふうばん)引け鉢植の花散る程に
『病琳六尺』七月十九日付の句である。
梅雨明け以来の暑さに苦しむ子規を見かねて設置したのが「風板」である。木枠に貼った布が天井にとりつけられているのを床屋で見つけたのは碧梧桐であった。床屋の弟子が紐を引いて風を起こす。それを子規庵でもやってみた。子規はおもしろがって風板と命名、「夏の季にもやなるべき」と書いた。だが実際にはさしたる効用はなかった。
この日をはさむ七月十六日付から七月二十日付まで、子規は『病牀六尺』に「女子の教育の必要性」について書いた。
(略)
子規の「女子教育必要論」とは、女も学問せよと勧めるのでは必ずしもなかった。気のまわる看病をするためには常識と見とおしのよさが必要で、たんに愚直なだけでは病人はいらだつばかりだ。そのための「教育」とはすなわち、律に対する不満の吐露にほかならない。病状から察して無理ないこととはいえ、たんに自己都合であった。
(略)
三回分とも原稿用紙三枚から三枚半はあって『病牀六尺』中の長文となった。これを子規は看病当番の者に筆記させた。病間にいようが隣室にいようが、律には聞こえる。
律は、しかし強すぎるほど強い女であった。傷つけられた気配はない。子規の死後、すなわち看病の用がなくなり、三十をすぎてから共立女子職業学校に入ったのは、手に職をつけて正岡家の経済を立てるためで、亡兄の「遺言」に従ったというのではなかった。
八月六日、パイナップルを写生して「菓物帖」を終えた。巻末に、「青梅をかきはじめなり菓物帖」から「画き終へて昼寝も出来ぬ疲れかな」までの五句を添えた。
(略)
八月二十日、この日陸羯南の小さな娘たちが持ってきてくれた朝顔の鉢を「草花帖」に写生した。
(略)
この日『病牀六尺』が百回に達した。しみじみとした感慨がわく。
(略)
つづく
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