より続く
関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ4)
その三 律という女
妹の力
「律は理窟づめの女なり。同感同情の無さ木石(ぼくせき)の如き女なり。義務的に病人を介抱することはすれども、同情的に病人を慰むることなし」
子規が、公開を予定しない日録『仰臥漫録』に、こう書いたのは明治三十四年(一九〇一)九月二十日である。
(律は)病人の命ずることは何にてもすれども、婉曲に諷したることなどは少しも分らず。例へぼ「団子が食ひたいな」と病人は連呼すれども、彼(律)はそれを聞きながら何とも感ぜぬなり。(・・・)故に若し食ひたいと思ふときは「団子買ふて来い」と直接に命令せざるべからず。直接に命令すれば彼は決してこの命令に違背(ゐはい)することなかるべし。
幼年期の兄が近所の悪童らにいじめられて泣いて帰ると、仇をとりに石をつかんで駆け出したという逸話を残す律は、士族の娘ではあったが、その時代の松山の平均的な女子のように小学校の尋常科四年で公教育を終え、やがて嫁した。最初の夫は軍人、二番目は教員であった。どちらの結婚生活も短かった。
二番目の夫とともにあった明治二十八年、子規大喀血の報に接した律は、神戸の病院を出たら兄は松山に帰ってくるはずだと考え、兄の介抱のため一日おきに実家へ帰らせてもらうと夫に宣言した。夫が渋るとそのまま離婚した。五尺に満たぬ貧弱な体の夫にもともと不満だったという見立てもあるが、律が兄を優先するのは自然な反射のごときものであった。
その後、律は母八重とともに上京、兄の死まで根岸で三人暮らしをつづける。律の結婚歴は別に秘密というのでもなかっただろうが、碧梧桐、虚子らの松山出身者らを除けば知る者はほとんどいなかった。
叫喚する兄を、まさに「木石の如」く受けとめ、毎日一時間かけて膿だらけの繃帯をとりかえる。便をとり、大量の汚れものを庭先の井戸端で日ごと洗う。そのうえ、あらゆる家事をほとんど言葉なく着実にこなす。兄の看病のためにこの世にあるかのような律に有夫の時代があったとは、ましてそれが二度におよんでいたとは、誰も想像しなかったのである。
律は硬い輪郭線を持った女性であった。そしてたいていの人にはその輪郭線しか見えなかった。
この日、律についてしるす子規の筆致は過剰に冷静である。非情とさえいえる。
(略)
縁側に大きな鳥籠が置いてある。なかに多種類の小鳥が、十羽ほどもいる。そのうち四羽のカナリアを、律は飽かず眺めているというのだ。鳥たちの鳴き声は、子規の慰めであった。しかし病気が進行すると、それさえ病みを増す騒音と感じられるようになる。
翌九月二十一日、彼岸の入りにも子規は律について記述する。この時期、子規の腹部にはあらたな膿の排出口があいて、周囲の肉が腐放しはじめている。その痛みに加えて、体温の高下はなはだしく、ときにのぼせて逆上するようになっていた。
が、筆致は冷静である。冷静さがすぎて冷酷の印象をとどめるほどだ。
律は強情なり。人間に向つて冷淡なり。特に男に向つてshyなり。彼は到底配偶者として世に立つ能はざるなり。しかも其事が原因となりて、彼は終に兄の看病人となり了(をは)れり。
この年、弘化二年(一八四五)生まれの母八重は五十六歳。「老母」と子規はいうが、まだ若い。
八重は松山藩儒者大原有恒の長女である。有恒は加藤家から大原家に入った養子だが、有恒の三男で八重の弟、忠三郎恒忠が後嗣のない加藤家に戻って家を継いだ。子規の八歳年長の叔父の外交官、加藤拓川がその人である。
金銭に恬淡としていたうえに晩婚であった拓川は、子規にもとめられれば必ずいくらか援助した。それは四十歳をすぎて男の子を三人得たのちもかわらなかった。上の二人の子は若くして没したが、三人目、明治三十五年五月、すなわち子規の死の四ヵ月前に生まれた三男で、父の幼名とおなじ名前を持つ忠三郎が子規の死後養子となった。彼が戸籍上は律の養子となって正岡家を継いだのは大正三年(一九一四)四月、忠三郎は満十二歳になろうとしていた。
拓川に無心の手紙を書くのは、いつも子規であった。ということは、正岡家の金銭出納は最後まで子規自身が見ていたのである。
一方律は、家庭内雑務のすべてを担当する「お三どん」であり「一家の整理役」であり、同時に子規の「秘書」であった。子規の原稿の浄書、ときに口述筆記もした。子規はそのたびに、律のもの知らず、漢字知らずにいらだって「女子教育の必要を痛感」したりもしたのだが、律がいなければ根岸の家はまわらず、たちまち自分が困じ果てることはよくわかっていた。実際、律はその献身的看護と介護で、子規の生命を二、三年は永らえさせたといえるだろう。
つづく
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