より続く
関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ7)
明治三十五年
その一 最後の春
「春惜む宿や日本の豆腐汁」
子規が発した明治三十四年(一九〇一)十一月六日付の手紙が、ロンドンの漱石の手元に届いたのは十二月十六、七日である。漱石はすぐに「僕は又移ったよ」と返信した。
(略)
子規の手紙は、トゥーティングから回送されて漱石の手に落ちた。漱石は、子規の病状の重さにあらためて衝撃を受け、またその率直な書きぶりに感動を禁じ得なかった。同時に、友に対する無音(ぶいん)と薄情とを恥じて、急ぎ手紙をしたためたのである。
漱石は、ハイドパークの光景を子規のために描写した。・・・・・
(略)
・・・・・、漱石はつぎの一文で手紙を閉じた。
「今や濃霧窓に迫って書斎昼暗く、時針一時を報ぜんとして撫腹(はらをぶし)、食を欲する事頻(しきり)なり」
この年の四月、漱石は『倫敦消息』として「ホトトギス」誌上に掲載された手紙を、たてつづげに三通書いた。それは原稿用紙にして一通あたり十四、五枚から二十枚強におよぶ長いものであった。十二月十八日付の手紙はその半分にも満たなかった。
しかし漱石もまた、この子規宛書簡によって無意識のうちに現代日本語の書き言葉を確立していたのだが、それは子規という「読者」がそこにたしかにいるという信頼が呼び寄せたことであった。文学は「読者」を想定し、「読者」に語りかけることで成立する。その意味で、現代日本語の書き言葉が、子規と漱石の交流と通信のうちにかたちを整えたのは奇跡であり、また必然であるともいえた。
(略)
明治三十五年(一九〇二)は子規最後の年である。
新年の賀状は出さなかった。ただ正月刊行の「ホトトギス」第五巻四号誌上に、「新年目出度候。病中につき一々御答礼不致候。正岡常規」とのみ印刷文で掲げた。
・・・・・一月十四日、強いものにかえてもらったばかりの麻痺剤(モルヒネ)が効かなくなった。痛みに耐えかねた子規は、「馬鹿野郎」「糞野郎」「コン畜生」などと、誰にいうでもない呪阻の語を発しっづけた。
一月十九日、子規の衰弱がはなはだしいと聞き、海南がきた。碧梧桐夫妻がきた。容易ならぬ情勢と見た碧梧桐は、虚子に電話で連絡して来訪を促した。・・・・・
五百木飄亭もきたこの日、医師からより強い麻痺剤が届いた。それを服用し、羯南が例のごとく子規の手を握りながら額を撫してやると、いくらか苦しみがやわらいだ。
夕方、碧梧桐、飄亭、虚子が鰻丼や蕎麦を食する光景に接した子規もようやく食欲きざし、虚子持参の神田「薮」のザルを食べた。
しかし誰の目にも終焉の遠からぬことは明らかだったから、以後は交替で子規庵につめる必要を感じた。すでに前年の暮れから、左千夫、秀真、麓、赤木格堂、鼠骨、それに碧梧桐と虚子がかわるがわる侍して律の看護を手伝い、子規の話相手たろうと申し合わせてあった。これに歌人の森田義郎を加えて八人、歌人俳人半数ずつの態勢で臨むつもりでいた。
当直要員間の伝達を主目的とする「病牀日記」をつけることを碧梧桐と虚子とで決め、その日は姿を見せなかった左千夫にそのむね通知した。
二月に入ると、強い麻痺剤の効力が薄れた。二月六日には、前年までなら一日一回、多くて二回であった麻痺剤服用が一日四回にもおよんだ。
この頃、子規は痛みもさることながら、精神の圧迫にいらだつようになっていた。
横たわっていると天井が迫ってくる。襖が倒れかかってくる。そんな思いに襲われて狂気するようだというのである。そのうえ、人が二人以上側にいると頭に障る。ことに体の大きな者にいられるとつらい。体が大きいのは左千夫であった。左千夫は身長百七十センチ、当時としてはかなりの大男で、闘士型の立派な体格をしていた。逆に圧迫感を与えないのは小柄な虚子であった。子規は結局、虚子を頼りにしているのである。
つづく
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