より続く
関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ15)
終章 「子規山脈」 その後
明治四十四年(一九一一)は子規没後九年である。
その年の八月四日、子規旧知の者たちが親睦と相談を兼ねての納涼会を催した。行先は東京郊外葛飾、江戸川に面した柴又の旗亭川甚で、肝煎の寒川鼠骨が声をかけたのは、内藤鳴雪、中村不折、伊藤左千夫、五百木飄亭、坂本四方太、河東碧梧桐、高浜虚子、香取秀真の八人であった。
しかし、あいにくその日は朝から強い風雨の悪天候だ。・・・・・この時期、鼠骨は子規庵に近い上根岸の、かつて浅井忠のアトリエだった家に住まいしていた。浅井忠はすでに明治四十年十二月、五十一歳で死んでいる。・・・・・
午前十時、虚子がずぶ濡れの姿で鼠骨宅にきた。・・・・・
このとき鼠骨も虚子も師匠の年齢を追い越して、三十七歳の男盛りである。ふたりで子規没後のあれこれを語りながらビールを飲むうち、左千夫がきた。子規より年長であった左千夫は四十七歳、長老格鳴雪の六十四歳につぐ年かさである。
雨が小やみになったので左千夫が不折を迎えに行き、鼠骨と虚子は、これも近くに住む碧梧桐宅へ行った。連れ立って日暮里駅へ向かう碧虚両人の、わだかまりなく談笑する姿が鼠骨にはうれしい。
というのは、子規没後一年の明治三十六年、碧梧桐の「温泉百句」を虚子が批判していたからだ。それまでは雑誌の編集方針をめぐっての違和であったが、俳句そのものも相容れぬことを示した最初の事件であった。
・・・・・明治三十七年秋、留学帰りで一高と東京帝大文科大学で教える漱石に、虚子は「ホトトギス」に載せる散文を頼んだ。漱石は自らのノイローゼ治療の一環として引受けた。できあがった原稿を虚子が子規庵定例の「山会」で朗読すると、座は明るい笑いに満ちた。漱石に続稿を促したのも、『猫伝』とあった題名を、冒頭の一文からとって『吾輩は猫である』とするよう勧めたのも虚子であった。
明治三十八年一月号に始ったこの小説には月ごとに読者がつき、「ホトトギス」の売行は向上した。漱石の「発見」といい、題名の選択といい、虚子には編集者としての眼力が備わっていた。のんびりしているように見えて出版業を成功させる手腕を併せ持つ虚子と漱石は、昔からウマの合う間柄であった。
翌明治三十九年の「ホトトギス」は、さらに小説づいた。一月、左千夫の可憐な『野菊之墓』、四月は漱石『坊っちゃん』二百二十枚を巻末付録に一挙掲載、五月には漱石が推薦した鈴木三重苦の小説第一作『千鳥』を載せた。
漱石が教職を辞して東京朝日新聞の社員作家となった明治四十年、これも漱石が推した野上八重子(弥生子)の第一作『緑』が、明治四十一年には長塚節初の小説『芋掘り』が「ホトトギス」に載った。虚子自身もこの年、最初の小説集『鶏頭』を漱石の序文つきで刊行し、徳富蘇峰の「国民新聞」に『俳諧師』を連載した。虚子は蘇峰に招増され、明治四十一年秋には国民新聞社の文芸部長となった。
だが、漱石が東京朝日にしか書かなくなると「ホトトギス」の部数は急減した。虚子は明治四十三年九月に国民新聞社を退社、明治四十四年秋からは「ホトトギス」を本来の句誌に戻して、その頽勢挽回に全勢力を傾けることにした。だがそれは、少年時代以来「よく親しみよく争」った碧梧桐との、決定的な別れにつながった。
やがて大正年間に入ると碧梧桐はこんな句をつくるようになる。
曳かれる牛が辻でずつと見廻した秋空だ 碧梧桐
菊がだるいと言つた堪へられないと言つた
菜の花を活けた机をおしやつて子供を抱きとる
季題は残るものの、完全な自由律の方向へと進む碧梧桐と虚子は、ついに相容れない。
この間、子規の故郷というべき新聞「日本」も事実上消滅している。
子規の死の翌年、明治三十六年六月から三十七年一月までヨーロッパ視察旅行に出た陸羯南は、その旅途結核を発病した。弱小ながら政論紙の立場を崩さなかった「日本」だが、日露戦争前後からさらに売行が落ちたうえに自らも病床について万策尽きた感のある羯南は、明治三十九年六月、新聞を売却した。
だが、新社主の編集方針に強く反発した社員らは、明治三十九年十二月、連袂退社、明治四十年一月、三宅雪嶺が主宰し、南方熊楠が常連執筆者であった雑誌「日本人」に合流、誌名を「日本及日本人」と改めた。羯南はその年の九月、鎌倉で死んだ。五十歳であった。
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