2020年11月18日水曜日

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ9)「.....五月三十一日、子規は以下のような原稿を書き、六月二日付『病牀六尺』第二十一回として掲げた。 余は今まで禅宗の所謂悟りという事を誤解して居た。悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。 子規はついにこの心境に到達した。」   

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ8)「加藤拓川が出発して十六日目の五月十八日、加藤家で拓川の三男忠三郎が生まれた。後年、律の養子となって正岡家を継ぐ子である。拓川が男の子であったらと、あらかじめ決めておいた名前は忠三郎であった。拓川の幼名もまた忠三郎、名のりは恒忠であったが、新時代を生きる三男には名のりはなく、生涯を忠三郎としてすごすことになる。 雀の子忠三郎も二代かな 子規の祝句であった。」

より続く

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ9)

結核文学としての子規短文集


(略)

子規が人力車で最後に外出したのは明治三十三年六月三日、ちょうど二年前のことになる。本郷金助町の岡麓宅で園遊歌会が催されたときである。・・・・・

その前は本所茅場町の伊藤左千夫宅を訪ねた明治三十三年四月二十九日であった。・・・・・

三年前、明治三十二年にはずい分多く外出できた。とはいうものの数えてみれば十一回である。それも、ごく近所の中村不折宅の画室新築披露の宴を含めてのことだ。まだ杖を使えばいくらか歩けるはずと隣家の陸羯南宅訪問を思い立ち、庭先から出てみたものの途中で立往生、背負われて帰ったのは明治三十二年八月だった。・・・・・

明治三十五年五月二十六日の『病牀六尺』に子規は書いた。


(略)


田端から道灌山に達して東京を一望し、はるか筑波山まで見はるかしたのは明治三十二年九月末、秋晴れの美しい日であった。車上で瞥見するばかりではあったが、東京の急速な変化が知られた。いまそれができないことが、見物好き、あたらしいもの好きの子規にはくやしい。

そこで、噂に聞いていて、ぜひ見たいと思うものを書き出してみた。

(略)


六月五日午後六時、子規は動けぬ病床のまわりを描写した。その稿は明治三十五年六月七日付の『病牀六尺』に掲げられた。

健脚時代の旅の思い出をこめた蓑と笠、遣欧使節を発したという理由で子規が好んだ伊達政宗の額、一時下宿していたことがある向島の百花園の水彩画などは、病に伏したときからそこにあった。

いま枕元にある「写真双眼鏡」は、要するにスライド写真を見るオモチヤである。

前日、活動写真を見たいと口にしたら、気をきかせた門人のひとりが持参した。・・・・・

河豚提灯があり、喇嘛(ラマ)教の曼陀羅がある。大津絵の版画が二枚ある。みな門人の贈り物だが、曼陀羅はきわめて精巧なものだ。座敷の縁側にかかっている丁字簾は朝鮮在住の人がくれた。・・・・・

床の間に活けられた花菖蒲は、二、三日前に律が堀切へ行ってとってきた。鋳物の花活けは香取秀真の手になる。床の間の前には、濃紅の花の美女桜、紫色の小さな花を咲かせるロベリア、淡い紅色の松葉菊の盆栽が置かれている。碧梧桐が持ってきてくれたのだ。庭に目をやれば、黄百合、美人革、銭葵、薔薇が見える。椎、樫、松、梅、ゆすら梅、茶など、せまい庭なのに多様な生命がそこにある。

再び室内に目を転じる。

雑誌、硯、筆のほか、唾壷、汚物入れ、呼鈴、まごの手など病人の小道具が散在する。「其中に目立ちたる毛繻子のはでなる毛布団一枚、是は軍艦に居る友達から贈られたのである」。秋山真之のことだ。

この日の『病牀六尺』のコラムは千四百字、原稿用紙三枚半分もあった。終焉のさして遠からぬこの時期、『病牀六尺』は子規の生命であった。なんであれ、体力のつづく限り書かずにはおかないのである。自分の生を記録せずにはやまないのである。

それより数日前の五月三十一日、子規は以下のような原稿を書き、六月二日付『病牀六尺』第二十一回として掲げた。


余は今まで禅宗の所謂悟りという事を誤解して居た。悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。


子規はついにこの心境に到達した。

晩年の彼が自らの生存の理由のごとく執着した短文集のうち『仰臥漫録』は、発表を予定せぬ一稿であった。だから子規はそこに、自殺衝動や自分の葬儀や墓の注文をしたためた。妹律に対し過剰なまでに批評的言辞を弄し、「号泣又号泣」と率直に書いた。

「日本」に連載した『墨汁一滴』『病牀六尺』では、文学や世事への感想を主に、病状についてはつとめて抑制的に書こうとした。しかしそれもやはり、重りゆく病人の心情をつづった「病気文学」、なかんずく「結核文学」であるといえた。

だが『仰臥漫録』にしても、親しい友は自由に見ることができたのである。虚子が「ホトトギス」誌上に連載したいといったとき子規は怒ったが、その実『仰臥漫録』も私的な日録というのではなく、限られたものではあってもやはり「読者」をもとめる書きものには遵いなかった。子規は聞き手のない独語や、読み手のない閑文字を書くことのできぬ人であった。その意味で子規は、生まれながらの表現者であり、文学者であった。


子規が病床を天地とするようになった明治三十一年晩秋から明治三十二年初夏にかけ、子規と同年の蘆花徳富健次郎は「国民新聞」に『不如帰』を連載した。それは尾崎紅葉『金色夜叉』以上の成功をおさめ、日本に新聞小説を完全に根づかせた。

(略)


明治三十五年六月二十日付の『病牀六尺』に子規はつぎのように書いた。


若し死ぬることが出来ればそれは何よりも望むところである、併し死ぬることも出来ねば殺して呉れるものもない。一日の苦しみは夜に入ってようよう減じ僅に眠気さした時には其日の苦痛が終ると共にはや翌朝寝起の苦痛が思いやられる。寝起程苦しい時はないのである。誰かこの苦を助けて呉れるものはあるまいか、誰かこの苦を助けて呉れるものはあるまいか。


七月十一日、はじめて蜩(ひぐらし)の鳴く声を聞いた。翌日には蝉が鳴いた。最後の夏だ。

(略)

七月二十六日、佐藤紅緑が暇乞いにやってきた。・・・・・紅緑は福井新聞に職を得て、子規に別れを告げにきたのである。

(略)


つづく



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