続く
関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ12)
八月二十七日、パリから帰国した浅井忠が訪ねてきた。痛みはあっても子規の機嫌はよかった。つぎは漱石だ。運がよければ不折にも再会できる。
だが、その直後から容態がおかしくなった。下痢がはげしい。あれほどの健啖ぶりをしめした子規なのに、なにを食べてもまずい。日に日に衰弱する。
九月はじめ、子規の足の甲が腫れていることに気づいたのは律であった。しかし本人には感覚がない。それが水腫なら終焉は近い。律は子規には知らせずにいた。
しかし九月八日の夜から足の腫れは一気にすすんだ。九月九日に医者に見せたが、血液の循環障害だといわれた。治療の手だてはない。われとわが脚を眺めた子規は、「甚だ不気味なものじゃな」とつぶやいた。
(略)
子規門のおもだった面々が、毎日看病当番にあたることにかわりはなかったが、泊りは夏のあいだやめていた。今度こそ宿直を復活せざるを得ない段階だと衆目は一致した。
さらに数日、水腫は脚部全体、腿の上部までおよんだ。まさに丸太である。それまでもほとんど動かすことができなかった脚だが、このたびは様子が違う。律の手がかすかに触れても痛む。おのれが微動させるだけでもおそろしい痛みを生ずる。
(略)
九月十三日、碧梧桐、鼠骨、左千夫、秀真、虚子、それに長塚節が子規庵につどった。子規、病重篤の報がまわされたのである。
その夜、泊ったのは虚子であった。午前一時頃、子規は蚊帳のなかで眠った。それをたしかめた隣室の虚子も眠った。
夜中、「おいおい」と律を起こす声が聞こえた。不分明な濁った声であった。「大便を掃除しておくれ」
すでに意志的には排泄できない身の上となっている子規は、おむつのような布をたくさんあてていて、用が生じたら律が始末をする。昼も夜もそれはかわらない。
強い臭気が隣室の虚子のもとに届いた。虚子はそれを厭うというより、そんな状態に立ち至った子規を思って、ひそかに泣いた。まさに暗涙であった。
九月十四日朝、子規は六時に目覚めた。と同時に律を呼んだ。虚子も起きた。雨戸をあけ、蚊帳をはずす。
子規は起き抜けの渇きを癒し、口中の不快を消すために、枕元に置かれた甲州葡萄を十粒ほど食べた。何ともいえぬうまさだ。病間の窓の外には三メートルほどの高さにかけた竹の棚があり、日よけの葦簀(よしず)を載せてある。そこから入ってくる空気の、なんとさわやかなことだろう。もう秋だ。
登りかけて居る糸瓜(へちま)は十本程のやつが皆痩せてしもうて、まだ棚の上迄は得取りつかずに居る。花も二三輪しか咲いていない。正面には女郎花(おみなえし)が一番高く咲いて、鶏頭は其よりも少し低く五六本散らばって居る。秋海棠は尚(なお)衰えずに其梢(こずえ)を見せて居る。余は病気になって以来今朝(けさ)程安らかな頭を持て静かに此庭を眺めた事は無い。嗽(うが)いをする。虚子と話をする。南向うの家には尋常二年生位な声で本の復習を始めたようである。やがて納豆亮が来た。(「九月十四日の朝」)
納豆を律に買いにやらせたのは、食べたいからではなかった。旧加賀藩の貸家群が並ぶこのあたりは袋小路ばかりで、滅多に物売りが入ってこない。だから、たまに入ってきた納豆売りの「奨励」のためである。めずらしい売り子の声に、小路のあちこちから声がかかる。みな似たような気分なのである。
ヘチマの葉が、あるかなきかの風にひらひらと動く。そのたびに肌に秋の涼しさがしみこむようだ。苦極(くきわま)って暫時病気を感じぬ気分となった。そのことがありがたくて、文章にしてみたくなった。口述し、虚子が筆記した。それが『病牀六尺』の短文を除けば、子規最後の原稿となる「九月十四日の朝」である。
虚子は原稿を持ち帰り、すぐに「ホトトギス」に掲載すべく印刷所に入れた。だが、「ホトトギス」第五巻十一号の発行は明治三十五年九月二十日、子規の死の翌日である。
つづく
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