より続く
1941年11月20日
尹東柱、自作詩集の清書用に用意しておいた原稿用紙を、新たに1枚取りだし、「序詩」を清書する。すでに18篇の詩が、26枚の原稿用紙に清書されていた。19篇の詩集『空と風と星と詩』が完成する。
「序詩」のほかに選んだ詩の表題はつぎのとおり
①自画像 ②少年 ③雪降る地図 ④帰って来て見る夜 ⑤病院 ⑥あたらしい道 ⑦看板のない街 ⑧太初の朝 ⑨ふたたび太初の朝 ⑩夜明けが来る時まで ⑪怖ろしい時間 ⑫十字架 ⑬風が吹いて ⑭悲しい一族 ⑮目を閉じて行く ⑯また別の故郷 ⑰道 ⑱星をかぞえる夜
「序詩」
いのち尽きる日まで天を仰ぎ
一点の恥じることもなきを、
木の葉をふるわす風にも
わたしは心いためた。
星をうたう心で
すべての死にゆくものを愛おしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。
今夜も星が風に身をさらす。
(1941.11.20)
12月8日
延専名誉校長として残っていた元漢慶(アンダーウッド2世)と元一漢(アンダーウッド3世)は、8日午後、日本の警察に逮捕された。彼らは同時に捕らえられたアメリカ人宣教師や民間人とともに、廃校で空いていた監理教神学校に軟禁された。そこに6ヵ月閉じ込められ、1942年5月3日に釈放後、6月1日に国外追放になった。
12月27日
戦時学制短縮により3ヶ月繰り上げで延禧専門学校を卒業。宋夢奎は卒業成績が2番で優等質を得た。尹東柱は、卒業記念に詩集『空と風と星と詩』を手書きで3部作製、李ヤン河イヤンハ教授と鄭炳昱に1部ずつ進呈。
鄭炳昱の証言によれば、詩集出版を考えていた尹東柱に対して、「この詩稿を受け取った李ヤン河先生からは出版を見合わせるようにと忠告された。「十字架」「悲しい一族」「また別の故郷」のような作品が日本官態の検閲を通らないだけでなく、尹東柱の身近に危険が迫ってくるから時を待てといわれたのだ。」という。
鄭炳昱から卒業祝いとして、日本詩人協会編『昭和16年春季版「現代詩」』(河出書房刊)、『昭和16年秋季版「現代詩」』(河出書房刊)を贈られる。
春季版;安西冬衛や草野心平、三好達治といった総勢29人にのぼる現代日本詩人の詩作品を掲載した後、3篇の詩論を載せている。そのなかに、北国克衛の「新詩論」があり・・・
秋季版;28名にのぼる日本詩人の諸作品に3篇の詩論を載せ、その後で海外の詩、論文の翻訳も併せて掲載
1942年1月
渡日を前に、延禧専門学校に創造氏改名届を提出。日本名は「平沼東柱(ひらぬまとうちゅう)」。日付は1942年1月29日。宋夢奎は「宋村夢奎(そうむらむけい)」で日付は1942年2月12日。
1月24日
日本留学を決め、朝鮮を離れる前に詠まれた詩。この5日後に創氏改名届けを出す。
「懺悔録」
緑青(ろくしょう)のついた銅の鏡のなかに
おれの顔が遺されているのは
或る王朝の遺物ゆえ
こうも面目がないのか
おれは懺悔の文を一行にちぢめよう
- 満二四年一ヵ月を
なんの悦びを希い生きてきたのか
明日か明後日(あさつて) その悦びの日に
おれは また一行の懺悔録を書かねばならぬ。
- あの時 あの若いころ
なぜあのような恥ずかしい告白をしたのか
夜ごと おれの鏡を
手のひら 足のうらで磨いてみよう。
すると或る隕石のもとへ独り歩みゆく
悲しい人の後ろ姿が
鏡の中に現れてくる。
1942・1・24
(伊吹郷訳)
彼らは何故このような屈辱を耐え忍びながら、日本留学を敢行したのか。
この時から1年6ヵ月後、日本の警察に逮捕された彼らは、自分の日本留学の動機について、「朝鮮独立のために自分が民族文化を研究しようとすれば、ただ専門学校程度の文学研究では不足すると思ったため」だと陳述している。
尹東柱は「懺悔録」の余白に、つぎのような落書きを残していた。
詩人の告白、渡航証明、上級、力、生、生存、生活、文学、詩とは? 不知道〔中国語で「わからない」の意〕、古鏡、悲哀、禁物
1942年3月
宋夢奎と尹東柱が日本に向けて発った正確な日付は確認できない。尹東柱の裁判での判決文に「昭和十七年(一九四二年)三月内地に渡来」と出ている。
つづく
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