より続く
1942年4月2日
尹東柱は、東京の立教大学文学部英文科に入学。宋夢奎は4月1日、京都帝大史学科西洋史学専攻に入学。
尹一族の親類にあたる金信黙は、このとき尹東柱が立教大学に進学したことについて次のように語っている。
「じっは東柱もはじめは夢奎といっしょに京都帝大へ行って入学試験を受けたけれど、夢奎だけ受かって東柱は落ちたので、あらためて立教大へ行って入学試験を受けたというんだ」
尹東柱の東京時代は、立教大学の入学試験から7月中旬の夏休み前まで、僅か4ヵ月ほど。
尹永春(尹東柱の父の従弟)の証言
尹永春 ー わたしが東京で教職についていたときだ。当時、東柱のいとこの宋夢奎とともに延専を卒業して日本に渡り、東柱は同志社大学(立教大学の誤り)英文科に、夢奎は京都帝大哲学科(史学科の誤り)にそれぞれ入学して、いくぱくもなく二人は東京にいるわたしをたずねて遊びにやってきた。
わたしは二人の手をとって上野公園や日本橋をわが家の庭のように歩き回った。文学と人生について話をするなかで、東柱はすでに物欲を離れ、一つのメタフィジカルな哲学的体系をもつ段階に達したように見え、話すたびに詩と朝鮮という言葉がほとんど口癖のように彼の口から発せられた。とにかく時が時だからつねに身を大事にして学業にだけいそしむようにとわたしはとくに言い与えた。
(尹永春「明東村から福岡まで」『ナラサラン』23集、ウェソル会、一九七六年、一一〇頁)
4月10日
この日付け『立教大学新聞』「学部断髪令四月中旬実施」というタイトルの記事。「戦時体制にともなって質実剛健な気風を奮い起こそうという目的で学生たちの頭をすべて短く刈らせる」という。尹東柱も坊主頭となる。
日本での尹東柱の詩作
1942年早春~1945年2月の福岡刑務所での獄死まで、尹東柱が日本で過ごした満3年間に書いた詩のうち、現在残っているのは僅か5篇で、すべてが東京で書かれたもの。
「白い影」(4月14日)、「流れる街」(5月12日)、「愛しい追憶」(5月13)、「たやすく書かれた詩」(6月3日)、「春」(日付欠)。
これらの詩はソウルに残った延専時代の親友姜処重に尹東柱が送った手紙の中に入っていた。「国語(日本語)常用」といって、公私にわたって日本語だけを用いるよう強要されていたときに、彼はハングルで書いた詩をハングルの手紙に入れて友人たちに送っていた。姜処重は安全を考えて手紙を捨て、詩だけ残しておいた。尹東柱は他の知り合いにも手紙に詩をしたためて送っていたが、姜処重だけが、戦後までその詩を保管していて、それを弟・尹一柱に渡した。
「白い影」
暮れなずむ黄昏の街角で
日がな一日 萎えた耳をそばだてれば
夕暮れの行き来する足音、
足音を聞き分けられるほど
わたしは聡明であったろうか。
いまや愚かにもすべてのことを悟ったあと
久しく心の奥で
思い悩んできた多くのわたしを
一つ、二つと わが故郷に送り帰せば
街角の暗がりの中へ
音もなく消えてゆく 白い影、
白い影たち
いつまでも愛おしい白い影たち、
わたしのすべてを送り返したあと
ものがなしく裏通りを経めぐって
黄昏のように染まるわたしの部屋に帰りつけば
信念ぶかく 穏やかな羊のように
ひねもす 憂うることなく草でも食(は)もうか。
(1942・4・14)
「いとしい追憶」
春がきた朝、ソウルの或る小さな停車場で
希望と愛のように汽車を待ち、
わたしはプラットホームにかすかな影を落して、
たばこをくゆらした。
わたしの影は たばこの煙の影を流し
鳩の群が羞じらいもなく
翼の中まで陽に晒して、翔んだ。
汽車はなんの変わりもなく
わたしを遠くへと運んでくれて、
春はすでに過ぎ - 東京都外のとある静かな下宿部屋で、古い街に残った
わたしを希望と愛のように懐しむ。
今日も汽車はいくどか空しく通り過ぎ、
今日もわたしは誰かを待って停車場近くの丘にさまようだろう。
ー ああ 若さは いつまでもそこに残れ。
1942・5・13
(伊吹郷訳)
6月3日
尹東柱の詩人としての覚悟は、1942年6月に東京で書かれた「たやすく書かれた詩」のなかの、「詩人とは悲しい天命であると知りながら」とつづられた心境につながってゆく。
「たやすく書かれた詩」
窓辺に夜の雨がささやき
六畳部屋は他人(ひと)の国、
詩人とは悲しい天命と知りつつも
一行の詩を書きとめてみるか、
汗の匂いと愛の香りふくよかに漂う
送られてきた学費封筒を受けとり
大学ノートを小脇に
老教授の講義を聴きにゆく。
かえりみれば、幼友達を
ひとり、ふたりと、みな失い
わたしはなにを願い
ただひとり思いしすむのか?
人生は生きがたいものなのに
詩がこう たやすく書けるのは
恥ずかしいことだ。
六畳部屋は他人(ひと)の国
窓辺に夜の雨がささやいているが、
灯火(あかり)をつけて 暗闇をすこし追いやり、
時代のように 訪れる朝を待つ最後のわたし、
わたしはわたしに小さな手をさしのべ
涙と慰めで握る最初の握手。
1942・6・3
(伊吹郷訳)
つづく
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