尹東柱の生涯(12)「風がしきりに吹いているが わたしの足は岩の上に立った。 川がしきりに流れているが わたしの足は丘の上に立った。」(「風が吹いて」1941・6・2)
より続く
1941年6月5日
延専文科の文友会(学生会)文芸部から雑誌『文友』が6月5日付で刊行。尹東柱は詩「新しい道」(1938年5月10日作)と「井戸の中の自像画」(1939年9月作、のちに「自画像」と改題)の2篇を載せる。
『文友』は1932年の創刊になるが、永く刊行されていなかった。尹東柱在学中はこの1941年版1冊だけだった(文友会が解散させられるため、これを最後として雑誌発行に尽力した)。
編集兼発行人は文友会長だった姜処重。文芸部長だった宋夢奎が「編集後記」を書いた。当時はもう「国語(日本語)常用」が厳格に施行されていた時節だったので、論文、小説、記事、「編集後記」までも全て日本語で書かれている。しかし、アンダーウッド2世(元漢慶)が書いた「名誉校長先生のメッセージ」とイギリスの詩人ワーズワースに関する長い論文が英文で、学生たちの詩7篇、童詩4篇、リルケの翻訳詩2篇、あわせて13篇がハングルで書かれ収録されている。ハングルも英語同様、外国語扱いを受けて検閲を通過した。
宋夢奎はこの雑誌に詩「空とともに」を「クム・ビョル(夢の星)」という筆名でのせた。
「空とともに」 クム・ビョル
空 ---
入り乱れ わたしとともに悲しむ空の破片
それでもおまえから空のすべてがわかる わかる・・・・・
蒼さが宿り
太陽が行きすぎ
雲が流れ
月が顔を出し
星が微笑んで
おまえとだけは おまえとだけは
すでに消えた話をよみがえらせたい
おお - 空よ -
すべてのものが流れ流れていったのだ。
夢よりもうつろに流れていったのだ。
苦しい思念の種ばかり播いて
未練もなくしすかに しずかに・・・・・
この胸には意欲の残滓だけ
苦々しい追憶の反芻だけが残り
その丘を
わたしはくりかえし詠う。
しかし
恋人がなく 孤独でなくとも
故郷を失くし 懐かしくはなくとも
今はただ -
空の中にわが心を浸したい
わが心に空をしまっておきたい。
微風のそよぐ朝を祈ろうと思う。
その朝に
おまえとともに歌うことをしずかに祈る
1941年9月
警察の監視が強まり、金松宅を出て、北阿峴洞ブクアヒョンドンの下宿に移る。金松が要視察人物ということで、ほとんど毎夕特高刑事が来て、延専文科生である尹東柱や鄭炳昱の書架から書名を書きとめ、行李までくまなく探して手紙を押収するなどがあったため家を出たという。
鄭炳昱の証言
夏休みが終わって、秋の学期になり、われわれはふたたび引っ越しの荷をまとめ、こんどは北阿峴洞へ移った。七、八人の下宿生でこみあっている専業の下宿家だった。小ぢんまりした家族的な雰囲気から、落ち着かない専業下宿にうつってきたわれわれは、ひどくめんくらった。どこかがさつで煩わしくあわただしい、そんな雰囲気だった。それに卒業学年である東柱兄の生活はとても忙しくなった。進学に対する悩み、時局に対する不安、家庭に対する心配、こうしたことが輪をかけて重なり、このとき東柱兄はとても心いためている様子だった。
1941年9月、人生の岐路にあって見通しのつかめない切迫した状況の中で、彼の代表作として広く知られる重要な作品が書かれた。『また別の故郷』『星をかぞえる夜』『序詩』『肝』などはこのころ書かれた詩だ。
(鄭炳昱「忘れえぬ尹東柱のこと」『ナラサラン』23集、ウェソル会、1976年、137-138頁)
1941年9月9日
壺山社という書店で百田宗治の『詩作法』を買い求め、また有吉書店で三木清の『構想力の論理 第一』を購入。
「また別の故郷」
故郷にもどってきた日の夜
わたしの白骨がついてきて 同じ部屋に横になった。
暗い部屋は宇宙に通じ
天のどこからか 声のように風が吹いてくる。
暗闇の中できれいに風化していく
白骨をうかがい見ながら
涙しているのは わたしなのか
白骨が泣いているのか
美しい魂が泣いているのか。
志操たかい犬は
夜を徹して闇に吠えたてる。
闇に吠える犬は
わたしを逐っているのだろう。
行こう 行こう
逐われる人のように行こう
白骨に気取られず
また別の美しい故郷に行こう。
(1941・9)
秋
三木清『構想力の論理』、河合栄治郎『学生と歴史』、林達夫『思想の運命』購入
反ファシズム文化人への親和性、そして学友たちとの親和性を、この時期にいたるまで崩していない。
10月3日
ヴァレリー『固定観念』購入
10月6日
三好達治の詩集『艸千里』を購入。また、鄭芝溶チョンジョン『白鹿譚』を購入。購入場所は不明。
かつて中学時代、モダニズム的詩世界に憧れていた尹東柱が、鄭芝溶の童話に出会って次第に作風を変えていったことがある。
11月5日
「星をかぞえる夜」
季節の移りゆく空は
いま 秋たけなわです。
わたしはなんの憂愁(うれい)もなく
秋の星々をひとつ残らずかぞえられそうです。
胸に ひとつ ふたつと 刻まれる星を
今すべてかぞえきれないのは
すぐに朝がくるからで、
明日の夜が残っているからで、
まだわたしの青春が終っていないからです。
星ひとつに 追憶と
星ひとつに 愛と
星ひとつに 寂しさと
星ひとつに 憧れと
星ひとつに 詩と
星ひとつに 母さん、母さん、
母さん、わたしは星ひとつに美しい言葉をひとつずつ唱えてみます。小学校のとき机を並べた児らの名と、佩(ぺエ)、鏡(キョン)、玉(オク)、こんな異国の少女(おとめ)たちの名と、すでにみどり児の母となった少女(おとめ)たちの名と、貧しい隣人たちの名と、鳩、小犬、兎、らば、鹿、フランシス・ジャム、ライナー・マリア・リルケ、こういう詩人の名を呼んでみます。
これらの人たちはあまりにも遠くにいます。
星がはるか遠いように、
母さん、
そしてあなたは遠い北間島におられます。
わたしはなにやら恋しくて
この夥しい星明りがそそぐ丘の上に
わたしの名を書いてみて、
土でおおってしまいました。
夜を明かして鳴く虫は
恥ずかしい名を悲しんでいるのです。
(1941・11・5)
しかし冬が過ぎわたしの星にも春がくれば
墓の上に緑の芝草が萌えでるように
わたしの名がうずめられた丘の上にも
誇らし草が生い繁るでしょう。
(伊吹郷訳)
最後の4行が11/5以降に追加される。
この詩を書いたのち、彼は一巻の詩集を編もうと努力しはじめる。これまでに書いた詩の中から彼は18篇を選んだ。詩集のタイトルは、初め『病院』としたものを『空と風と星と詩』に変更した。
つづく
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