2022年7月1日金曜日

〈藤原定家の時代042〉治承3(1179)11月~12月 清盛、政権奪取(治承3年のクーデター) 前関白基房(36)九州配流(太宰権帥) 前太政大臣師長・前大納言源資賢父子の関外追放(尾張配流) 後白河院を鳥羽殿に幽閉  

 



治承3(1179)

11月

・藤原忠清(景綱の子)、従五位下上総介に叙任、子の忠綱は弟景綱の子景高と並んで左衛門尉・検非違使に補任。

11月2日

・山門堂衆は、勅定に従うと称しながら城を解かず、この日、西塔の大衆が襲ってきたのを退けると、西塔に撃ち入って堂舎・房舎30余を焼き払い、死者多数を出す。対して、官軍は山上を攻めることもできず、東国から上ってくる人や物を抑留するだけであった。5日には堂衆追討の祈りが諸社・諸寺に命じられ、7日には七社に奉幣がなされている。

「天台堂衆、西塔に打入り堂舎五宇、房舎三十余宇を焼き払ふ。」

5日「天台衆徒の事により、御祈りを諸社諸寺を召し仰せらる。」

7日「七社奉幣使を発遣せらる。衆徒の事に依るなり。」(「百錬抄」同日条)。

10日、覚快法親王、天台座主を辞退。

15日、印鎰・延暦寺宝蔵の鍵を朝廷に返す。

11月7日

・京で大地震。陰陽頭安倍泰親(安倍晴明の5代の子孫)、大きな災難が起こる前兆だと占う。

11月14日

【清盛、政権奪取(治承3年のクーデター)】平清盛、自ら武装し、兵6千を率い福原より入京。 

この日は豊明(とよあかり)の節会(せちえ)の日で、噂を聞いた兼実が恐る恐る出仕すると、洛中の人家では資材を東西に運んでおり、喧騒に包まれていた。「誠にもって物忩(ぶつそう)、乱世の至り也」(『玉葉』)とある。清盛は「武者ダチニテ俄カニ上リテ、我ガ身モ腹巻ハヅサズ」に八条の屋敷に入ったと伝える。すぐに上洛の理由が噂になって回った。法皇が重盛の越前国を没収したこと、白河殿の荘園を法皇が沙汰するようになったこと、除目で師家が近衛基通を越えて中納言になったことなどへの恨みであろうと、その噂は一致していた。

11月15日

・清盛、中宮と東宮が八条殿に移り、福原に連れて下るという圧力を法皇と天皇にかける。

清盛からは宗盛が使者として内裏に派遣され、また内裏からは内女房(うちのにようぼう)の若狭局(わかさのつぼね)が八条殿にやってくるなど、何度かの往来があった末、平重衡が清盛の使者になって内裏に向かい、次のように通告した。

「愚僧」(清盛)は偏えに棄て置かれたような状態であり、朝政のあり方を見ると安堵できるものではない。このままでは身の暇を賜り、辺地に隠居するしかなく、中宮・東宮とともに一緒にゆきたいので、勅使を派遣してそのように仰せてほしい。

・法皇は、清盛の圧力に屈し、法印静賢(じようけん)を通じて万機にわたって政務に介入しない旨が伝えられた。院政は再び止められ、基房は関白を止めさせられ、子の師家も中納言中将を止められ、基通が関白・内大臣となった。天下上下は「死の灰」のごときものだと『山槐記』は記す。

「上皇、法印静賢を以て、自今以後万機御口入れ有るべからざるの由、これを仰せ遣はさる。」(「百錬抄」同日条)。"

・この日、兼実のもとには子刻(真夜中)に「天下の大事」が出来(しゆつたい)した、といううわさが届くが、詳しいことはわからないまま寅刻(午前四時ころ)に至り、「志のある」大夫史隆職(だいふしたかもと)が書付けを送ってくれて、事態がようやく明らかとなった。それは、藤原基房(兼実の兄)の関白をやめて基通を関白・内大臣・氏長者となし、同じく師家の権中納言・中将などをやめる、というものであった

法印問答(ほういんもんどう、「平家物語」巻3):

15日、清盛が朝廷を怨むとの噂が立ち、後白河院は故小納言入道信西の子静憲法印を清盛に派遣。清盛は、重盛が没しても法皇が嘆いている様子が無い、中納言欠員の際、二位中将(基通)が希望し清盛がとりなしたの、何故関白の子(師家)を中納言にするのか、と言う。」法印は、官位・棒禄は清盛には満ち足りている、法皇の心は、天の心と同じく深く広くて測りにくい、臣として君に逆らうのは人臣の礼から外れるので、よく考えるべきだ、清盛の意見は君にご披露する、と述べて退出。人々は法印の堂々とした物言いを誉める。

11月16日

・この日、院近臣を搦め取るという噂が飛び交い、前天台座主明雲(65)、還任。

「座主明雲ハ偏ニ平氏ノ護持僧ニテ」(「愚管抄」)。覚快には山門の騒動を鎮めることができなかったという理由による。山門の件もクーデターの一因だったことがわかる。

11月17日

・大量の貴族・官人の解官。この日、全貌が明らかになる。

太政大臣の藤原師長、大納言源資賢など貴族が8人、殿上人・受領・検非違使など31人。

大別すると院近臣と関白の縁者や近臣からなる。前者には源資賢とその子雅賢、参議の藤原光能、大宰大弐藤原親信、越前守藤原季能、大蔵卿高階泰経とその子の常陸介経仲、陸奥守藤原範季、周防守藤原能盛などであり、相模守平業房や検非違使の平資行といった鹿ヵ谷事件で連行された人物も含まれている。後者には基房の北政所を姉妹にもつ中納言藤原実綱、基房の子の隆忠や寵臣の三河守藤原顕家などがいる。

注目される第一点は、花山院兼雅の東宮大夫と平頼盛の右衛門督(うえもんのかみ)の官職が解かれた点である。ともに平氏一門に連なる人物であることから見れば、法皇と基房への清盛の恨みの強さが知られる。頼盛は法皇の近臣であり、兼雅の姉妹は基房の子師家の母であった。

第二点は大量の受領の任が解かれ、大幅な受領の交替が行われた点である。

院近臣の平氏の解官

清盛の異母弟権中納言右衛門督平頼盛(母池禅尼)は右衛門督を止められ(翌治承4年(1180)1月還任)、清盛室時子の弟右中弁平親宗、右近権少将伯耆守平時家(時忠次男)、大膳大夫平信業、蔵人右少弁中宮大進平基進、左衛門佐相模守平業房(院寵女・高階栄子の夫)、加賀守平親国、左馬権頭平業忠、検非違使平扶行らは官職を解かれる。

平時家:中納言平時忠2男、右近衛権少将従四位下、清盛命により上総に追放。時忠後妻藤原頌子の讒言・策動による。上総介は侍大将藤原忠清(揺任)、上総を支配するのは上総介平忠常の嫡流の上総権介平広常(義朝の盟友)。広常は追われてきた時家を歓迎、娘を娶らせる。寿永元年(1182)正月、時家、頼朝の許に見参。平家滅亡後、幕府に任官。建久4(1193)年5月10鎌倉で没。

平業房(なりふさ):後白河法皇の近臣。相模守。解官、伊豆配流途中で逃亡。12月、清水寺付近で兵衛尉知綱に捕えられ、平宗盛のところで拷問を受け殺害。妻は高階栄子(えいし、のち丹後局)。山法師澄雲(ちょううん)の女、業房との間に業兼・教成(のりなり)を生む。夫没後、院御所に仕え、ほどなく皇女覲子(きんし、のち宣陽門院)を生む(宣陽門院は膨大な所領長講堂院領を譲られる)。また、後白河法皇の山科新御所の地が丹後局に与られ、教成が伝領、名字地となり、教成は笙・装束などの故実を伝える山科家の祖となる。

平家家人で北面の藤原能盛、解官。

大量の知行国の獲得

それらを分類すると平氏一門の知行する国々、平氏の家人の知行する国々、平氏と親しい公卿の知行する国々などからなり、クーデター前は17ヵ国であるのに対して、クーデター後には32ヵ国になっている。『平家物語』が「一門の公卿十六人、殿上人三十余人そのほか諸国の受領・衛府・諸司、都合六十余人」「日本秋津島(あきつしま)は僅かに六十六ヵ国、平家知行の国三十余ヵ国、既に半国に及べり」と記しているように、平氏関係の知行国は日本全国の過半を占めるようになった。また平氏一門の知行国を限ってみても、9ヵ国から19ヵ国に倍増。その他、全国500余ヶ所と云われる荘園を所有。

クーデタによる政権掌握は、国家支配層内部における平氏の孤立を深刻なものとする。知行国・荘園を大量に集積し、それを政治的・経済的基盤とすることは、国衙領・荘園内部に醸し出されつつある社会的・政治的諸矛盾を一手に引き受けることを意味する。平氏と地方社会との対立は深まる。

院主宰の王朝権力と異なる独自の政策なく、在地領主を自己の権力下に編成しえず。在地領主層の所領・所職知行を安定的に保障する方式を開発できなかった平氏政権の限界。「国には目代に随ひ、庄には預所に仕へて、公事・雑役に駆り立てられ、夜も昼も安きとこなし」(「源平盛衰記」)。在地に不満が醸成。王朝貴族・南都北嶺の寺社勢力の反抗、東国中心に在地武士層の蜂起。⇒1180年11月、平氏の奏請で院政復活。

11月18日

・前関白基房(36)の配流地を九州に定め、基房を太宰権帥に任じる。前太政大臣師長と前大納言源資賢父子の関外追放(尾張配流)、平業房の伊豆国配流を定める。

「十八日。前関白基房大宰権帥に左遷、大夫尉康綱を遣はし之を追はしめ、即ち以て出門す。随身厚景、侍四五人共にあり。雑人途中に満ち之を見て各々叫歓す。」(「百錬抄」同日条)。

大臣流罪(だいしんるざい、「平家物語」巻3)。

行隆之沙汰(ゆきたかのさた、「平家物語」巻3):

前関白基房の侍の江大夫判官遠成は、平家に良く思っていず、今にも逮捕されるだろうとの評判。遠成は、子の江左衛門尉家成を連れて落ちるが、父子は稲荷山で、伊豆の流人の前右兵衛佐頼朝を頼ろうと思うが、あの人も勅勘を受けている身である、どうせ逃れられないのなら、帰って六波羅からのお召しがあったら腹を切ろう、と言い合わせる。川原坂の宿所に引き返すと、予想通り六波羅より兵300余が宿所に押し寄せる。父子は館に火をかけ切腹。前左少弁行隆という人は、この10余年、官を止められ細々と暮らしていたが、清盛から呼ばれ官職に戻り、荘園などを貰う。

11月19日

・後白河法皇を鳥羽に移す。

『百練抄』は、「武士が厳しく警護して、藤原成範や有脩範(のぶのり)、法印静賢などの信西の子や女房二、三人以外は出入りできなくさせる措置がとられた」と記し、『愚管抄』は「瑯慶(ろうけい)という僧のみを近くに置くことが許され、その後、女房の丹後を側に置くことが認められたが、この女房が後に浄土寺二位と称される法皇の思い人であった」と語る。

法皇被流(ほうおうながされ、「平家物語」巻3):

20日、軍兵、院の御所法住寺殿を包囲。前右大将宗盛が法皇に鳥羽殿への御幸を奏し、法皇は供の公卿・殿上人もなく鳥羽殿に入る。静憲法印が跡から供に行く。

城南之離宮(じょうなんのりきゅう、「平家物語」巻3):

高倉天皇が、鳥羽院にいっそ出家遁世したいと密かに手紙を書き送る。法皇から、帝位についていることが一つの頼みで、世を捨てては何の頼みもなくなる、私がどうにかなるさまを聞いていてください、と返事が届き、一層深く悲しむ。清盛は、政務は主上の意向通りにするように言って福原に下り、前右大将宗盛がこれを主上に奏聞すると、主上は「摂政関白と相談して、宗盛が何とでも取り計らえ」と取り合わず。法皇は城南の離宮で失意の日々を送り、治承4年となる。

11月20日

・清盛、九条兼実の子良通を右大将・中納言に任じ、次のような書状を兼実に届ける(『玉葉』原漢文)。

二位中将殿、権中納言並右大将に任ぜしめ給ひ候の由、承り及び候所なり。而るに

聞書(ききがき)に書き落としめ候了ぬと云々。この旨を以て申せしめ給ふべし。恐々謹言

      十一月廿日        静海(じようかい)

謹上  修理権大夫殿


「良通殿が権中納言・右大将に任ぜられた旨を知りましたが、除目の聞書に書き落としてしまったということですので、この旨を兼実殿にお伝えください」という内容であり、宛名の「修理権大夫」は兼実の側近の藤原頼輔である。側近を通じて伝える丁重な書状となっており、清盛が兼実の子の良通を右大将に任じたのは兼実の協力を要請してのものであったことがよくわかる。若い関白の基通を支え、「天下の顧問」に預かる存在として兼実を遇し、政権の安定を考えたのであろう。

しかし兼実は、「仰天の外、他事無し、生涯の恥辱」と記し、「万事に関わってこなかったのでこのような事態になったのであろうか、私の欝を散じるつもりなのであろうか、固辞すべきではあるが、もし辞退すれば絞斬の罪に落とされよう」と困惑の気持ちを記した後、思うところがあって、悦び思う旨の返事を送ったとも記している。

この兼実の「思うところ」が実は摂関になる望みであったことは、『愚管抄』の伝える兼実の次の言葉から知られる。のちの文治2年(1186)に摂政になった際、「治承三年ノ冬ヨリ、イカナルベシトモ思ヒワカデ、仏神ニイノリテ摂関ノ前途ニハ必ズ達スベキ告アリテ、十年ノ後ケフ待チツケル」と慈円に語ったという。

11月21日

・任官の除目:近衛基通、二位・左中将から内大臣。九条兼実、右大臣。九条良通、ニ位・中納言・右近衛大将。藤原隆房、右中将。平経俊、若狭守。平教経、能登守・従五位下。平通盛、越前守兼中宮亮(この頃小宰相を見染め、中宮の力添えで結婚)。

11月21日

・清盛に呼び出された検非違使の大江遠業(とおなり)が我が子の首を斬って自宅に放火して自害。

11月21日

・藤原基房(35)、古川宿で大原聖人本覚房(ほんかくぼう)を戒師にして出家し、翌日、淀川を下って福原に向かい、さらに淡路を経て藤原邦綱の知行する備前国に移さる。。

停任された16日~18日の間に出居(でい)の風炉(ふろ)で自筆の日記をはじめくさぐさのほごを焼く。逐電して行方知れずとされたが(17日)、鳥羽南辺の古河(故川)というところに移された(19日)。ここで21日、大原聖人(本覚房)について受戒、出家し(その室家や祇侯の男女7~8人もこれに従う)、この日淀川を屋形船で下り福原に護送される。数日後、福原より淡路へ渡された。配流地は初め日向国であったが、いったん淡路国に渡り、更に前大納言邦綱の知行国である備前にあらためられた。備前には12月に入って移る。配所は「備前の国府の辺、湯迫(いばさま)と云ふ所」(『平家物語』)であった。

11月22日

・平頼盛の所領没収。

・流罪となった人々の関外への追放が行われる。

11月24日

・院近習の西景(さいけい)の楊梅壬生(やまももみぶ)の堂が追捕されて、米穀や魚類が武士によって運び去られ、白河殿の倉預だった藤原兼盛の手首が切られ、院近臣であった備後前司藤原為行と上総前司為保の二人が殺害されて海に突き落とされたという情報が入る。

11月25日

・以仁王(29)知行の常興寺が天台座主明雲に付けられる。以仁王の反乱の直接の原因となる。

以仁王は後白河が高倉三位(たかくらのさんみ)との間に儲けた子。常興寺は以仁王が師の最雲(さいうん)から譲られたものであり、同じく最雲の弟子であった明雲に付けた。

11月27日

・興福寺大衆、前関白基房(氏長者)の配流に怒り蜂起。これはやがて鎮まるものの、その後の興福寺大衆が反平氏の動きをとる伏線となる。

11月28日

・従三位源頼政(76)、出家。翌治承4年(1180)5月後白河院の皇子以仁王に呼応して挙兵。

12月

・皇太后宮権大夫平経盛(つねもり、清盛弟)、修理大夫兼任。平重衡、左近衛中将辞職。

12月2日

・院近臣の左衛門佐兼相模守平業房、伊豆に流されるところを失踪し、この日、清水寺法師房に潜伏しているところを逮捕され、拷問のうえ殺害される。

12月8日

・清盛、譲位を断行するべく上洛。9日、東宮の垂髪(すいはつ)の儀式を行う。垂髪を正月に行うのでは憚りがあることから、垂髪を年内に行ってしまい、着袴(ちやつこ)を来年正月に行い、そして譲位を2月、4月には即位という段取りを決めていた。

12月11日

・藤原師長(42)、出家。

12月13日

・東宮大進藤原光長、清盛の八条の邸宅を訪れ、清盛の側近の検非違使源季貞(すえさだ)を通じて、正月の東宮の着袴の儀式、東宮の八十島(やそじま)祭についての指示を受ける。清盛は全面的に政治の実権を握り、行使していた。

12月16日

・春宮言仁親王(2、安徳)、平清盛の西八条邸に行啓。

清盛は簾中にあって、関白や東宮傅など公卿が参入すると、そこで正月の東宮の着袴の儀式の議定が行われる。さらに宗盛の子の清宗が従四位上(じゆしいのじよう)に、邦綱の子で清盛の猶子の平清邦が従五位上に叙されており、東宮を補佐しているのが誰なのかをよく物語っている。東宮への贈物には摺本(すずりほん)の『太平御覧』が選ばれたが、これは宋国から清盛に送られたものであった。

東宮は清盛のことを嫌わず、明障子に湿った指で穴を通すのを清盛が教えてやって見せると、そのように東宮が指を通したので、それを見た清盛は感涙を拭ってその障子を倉に納めるように命じたという。往路・帰路には辻ごとに武士が見張って人を通させず、竹や幕で周囲を塞いでおり、武士は全部で600騎あまりが動員されていた。

12月17日

・関白基通の妻になっていた清盛の娘の北政所始(きたのまんどころはじめ)。重衡・経正らが家司として参加。

12月24日

・源(久我)通親、高倉天皇の蔵人頭に加え、中宮権亮を兼任。


つづく

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