治承4(1180)
3月17日
・この頃、藤原定家姉京極局と高階栄子(タカシナエイシ、丹後局、平業房の妻、35前後)が、幽閉中の後白河院(53)に祇候を聴される。
法皇は、正月下旬頃から患っており、宗盛の許可を得て医師の和気定成が鳥羽に赴くと、涙ながらに今一度の熊野詣に行きたいと語る。清盛は法皇をなだめるため、京極局と丹後局の鳥羽殿伺候を認める。
○京極局。藤原俊成の先妻為忠女との間に生まれた定家の異母姉。大納言藤原成親の妻となり、平維盛に嫁した女を生む。離別後、後白河法皇皇女で以仁王の同腹の姉である前斎宮亮子内親王に仕える。
○高階栄子(?~建保1216)。
御白河上皇の寵妃。丹後局と称されるが、晩年従二位に昇り、丹二品(タンニホン)とも云われる。父は阿波守高階章行の孫、延暦寺執行法印澄雲。初め後白河近臣の相模守平業房に嫁して2男3女を生む(平業兼、藤原教成(藤原実数猶子)ら)。1179年(治承3)、清盛がクーデタにより後白河を鳥羽殿に幽閉した際、「院の近習、御寵人」の業房は、伊豆に配流される途中殺害される(「山塊記」)。しかし栄子は上皇の幽居に侍することを許される僅かな人数の内の一人として上皇の寵愛を得て、81年(養和元)10月、上皇との間に皇女覲子(キンシ)内親王(後の宣陽門院)をもうける。
高階は、天武天皇の皇子高市皇子より出た名門氏族で、平安中期、高階成忠の女貴子(キシ)が関白藤原道隆に嫁し、内大臣伊周(コレチカ)、一条帝皇后定子(テイシ)を生み、後には、後白河院の近臣泰経らの権勢家を輩出。また、鳥羽上皇に近侍した信西(藤原通憲)は、一時、高階氏を称し、系図上では栄子の叔父に当る。幽閉中の後白河に従う成範・修範・静賢は信西の子であり、更に信西の室の朝子(チョウシ)が、法皇の乳母の紀伊の二位である。要するに、幽閉中の後白河は、ほぼ栄子一族が侍している事になる。
政務に深く関与。建久2年(1191)覲子は宣陽門院となり、従二位に叙任。建久3年(1192)3月、法皇没に際し、長講堂領は宣陽門院に伝領。同月、落飾。土御門通親と結び、鎌倉幕府と結ぶ関白九条兼実に対抗。建久6年(1195)、頼朝と政子が娘大姫入内を策し急接近、この機に乗じて九条兼実を追い落とす。しかし、建仁2年(1202)、通親没し、更に後鳥羽院政が始まると権勢は衰える。晩年は東山浄土寺に隠棲、浄土寺二位と呼ばれる。
3月27日
・藤原定家(19)、父俊成の命により八条院暲子内親王に参る。八条院には、姉の八条院坊門局が仕えている。30日、法性寺で藤の花を観る。
4月
・出仕を許された平頼盛、安徳即位に伴う叙位で従二位に叙任。言仁親王即位に向けて平氏一門の結束が図るため。この時、平氏一門で叙位されたのは頼盛だけ。政権内部で頼盛の存在が重みを増す。
○平頼盛(長承元年1132~文治2年1186):池殿・池大納言。
父は忠盛。母は修理大夫藤原宗兼の女宗子(池禅尼)。家盛の同母弟(忠盛2男)。清盛・経盛・教盛らの異母弟。妻は俊寛の姉妹大納言局(八条院女房)。子は保盛・光盛ら。六波羅池殿に住み、池殿・池大納言と呼ばれる。久安2年(1146)皇后宮権少進、以後、右兵衛佐・中務権大輔・太皇太后宮亮・修理大夫等を歴任、常陸介・安芸守・三河守・尾張守・太宰大弐にも任じられる。仁安元年(1166)従三位。左右兵衛督・中納言等を経て、寿永2年(1183)、正二位権大納言となる。途中、仁安3年(1168)と治承3年(1179)の政変で解官される。清盛との間には早くから忠盛後継を巡る対抗関係がある。寿永2年(1183)7月の平家一門の都落ちに際し都に留まり、10月、鎌倉に下向。翌年4月に頼朝から没官領を返還され、6月に帰洛。文治元年(1185)5月、病により出家。翌年6月2日没。
□「平家物語」の中の頼盛
二心ある存在として描かれるが、諸本間では若干ニュアンスは異なる。また、頼朝の情けを浮かび上がらせる材料としても使われる。
頼盛邸(六波羅池殿)は徳子の産所とされここで皇子(後の安徳天皇)が誕生(「御産」)。頼盛はそこに参列した公卿33人の中に入っている(「公卿揃」)。福原遷都では頼盛宿所が皇居となり、また高倉上皇が六波羅池殿で没する(「新院崩御」)等、頼盛邸は平家一門と天皇・上皇とを結ぶ重要事件の舞台となっている。頼盛は、妻が八条院女房である事から、以仁王の若宮を八条院の許から連行する役も担う(「若宮出家」)。
しかし、都落ちに際しては、一門を見限り、池殿を焼き一門と共に出発しながら、引き返して八条院の許に身を寄せる。宗盛は、これを「年来の重恩」を忘れた「不当人」と評し、心変わりと看做し(「一門都落」)、この後、二心ある者の象徴とされていく(「高野巻」「三日平氏」)。こうした裏切り者像は、平家物語改作過程で強調されていく。延慶本などでは、平家重代の太刀「抜丸」の相伝を契機とする清盛・宗盛と頼盛との長い一門内対立が記され、都残留もそれ故の行動とされている。
その後の鎌倉下向と、頼朝から恩賞を受けての上洛では、都残留が命惜しさ故の行動とされている(「三日平氏」)。この辺りは、彼を厚遇する頼朝の姿が際だち、平治の乱以来の恩義を弁えた頼朝の情けある姿を浮上させる頼盛像が作られている。
尚、「保元物語」「平治物語」では、保元の乱で清盛軍に属する様子(保元物語)、平治の乱で大内裏郁芳門を攻める奮戦ぶりが描かれている。
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿