治承4(1180)
4月1日
・火事。八条坊門から六条辺まで延焼。
4月5日
・平清盛、厳島参詣から福原到着。9日、高倉上皇、西八条邸に帰京。
4月9日
・安徳が即位式のため五条内裏(もと邦綱亭の五条東洞院亭)より本内裏に遷った時、摂政近衛基通は「転居の際の恒例で、酒宴の礼などをせねばならないが、その間昼(ひ)の御座(おまし)に天皇が独りでいることができない、重衡が傍らに祗候(しこう)するのも「例無きの上、事穏便にあらず」、「どうしたらよいか」と、右大臣兼実に助言を仰ぐ(『玉葉』)。4月22日、本内裏紫宸殿で行なわれた即位式でも、重衡夫妻は重要な役を果たしている。
4月9日
・【以仁王の令旨(りょうじ)】
以仁王(30、後白河法王第2皇子)、最勝親王と称し平家追討を諸国源氏に下す。源頼政、以仁王を奉じ平家追討の宣旨を諸国の源氏に伝える。治承・寿永の内乱の始り。
園城寺以下の衆徒たちによってすすめられた計画で、以仁王を擁し、源頼政・同仲綱らを語らって平氏打倒をはかり、またその発案によって以仁王の令旨が諸国源氏の糾合を目的として作られ、源為義の末子十郎義盛(行家)の手によって諸国に伝えられた。
令旨は、「清盛法師」が「威勢をもって凶徒を起こし、国家を亡じ、百官万民を悩乱し、五畿七道を虜略し、皇院を幽閉し、公臣(こうしん)を流罪し、命を絶ち、身を流し、淵に沈め、樓に込め、財を盗みて国を領し、官を奪ひて職を授け、功無くして賞を許し、罪にあらずして過(とが)に配す」と述べており、クーデター以後の清盛の「悪行」を数え上げ、その追討を催促。
尚、以上は『平家物語』『吾妻鏡』による事件の説明であるが、実際は以下の説明の通りであろう。
〈以仁王に挙兵の意図はなく、事件は清盛が仕掛けた政変である〉
中世史研究者の河内祥輔氏は、この事件を安徳天皇の治世を安定させるために平氏政権が以仁王の政治生命を断つべく仕掛けた政変と捉えている。以仁王の令旨や挙兵計画の出典は、『平家物語』とそれを元にした『吾妻鏡』であり、天台座主慈円が自らの体験と関係者からの聞き取りで叙述した『愚管抄』には挙兵の計画などに触れられていない点に着目し、以仁王側に挙兵の意図はなかったとしたのだ。
筆者は、平清盛の側に、安徳天皇の治世における不安定要素として、八条院に接近する高倉宮以仁王の存在があり、熊野本宮から上がってきた報告は、その警戒感を増幅させたと見ている。つまり、以仁王に挙兵の意図はなく、また平氏の側も誤報ないし悪意の中傷に踊らされて動き始めたのではないかと考えている。
(永井晋『源頼政と木曽義仲』)
以下、『源頼政と木曽義仲』による「挙兵」事件に至る背景・経緯
以仁王は八条院が手元に持つ皇位継承候補と見られている。彼自身は、妻子のいる八条院御所と三条高倉御所を行き来する静かな生活をしていた。
平氏と以仁王の間には、治承3年11月のクーデターの時に、清盛が以仁王と延暦寺が相続権を争っていた城興寺領の帰属について、延暦寺の主張を認める裁定を下し、以仁王に返還を命じたという因縁がある。これが、以仁王が平氏政権に反感を持つ要因のひとつとなったと考えられるが、挙兵・反乱を決意しなければならないほどの深刻な問題ではなかった。
以仁王の娘三条宮姫宮は八条院の養女となり、母三位局(高階盛章の娘)・弟(安井門跡道尊)とともに八条院御所で生活していた。三条宮姫宮は、いずれは八条院領を継承する王女と考えられていた。以仁王としては、清盛の専断を腹立たしいと思っていても、冷静に考えれば事を荒立てずに対応した方が有利と思うだろう。
一方、この年4月~5月上旬、紀伊で熊野新宮合戦とよばれる熊野三山の内訌が起きていた。熊野三山は、本宮・新宮・那智の三社の総称で、三社を束ねる熊野三山検校職は、園城寺の聖護院門跡が代々継承していた。
源為義の子行家は、平治の乱後、熊野別当家に嫁した姉の鳥居禅尼に庇護され、新宮で不遇な時期を過ごしていた。その行家が、この年4月9日に源頼政の推挙で八粂院蔵人に補人される(『吾妻鏡』)。この補任に対して、本宮がこれを咎め、新宮はこれを庇った。この年(治承4年)の熊野新宮合戦は、源行家が源頼政と結びついて武家の活動を再開する気配を察した熊野本宮と、行家を支持する熊野新宮の対立が原因であった。
熊野本宮の湛快は平治の乱で熊野詣の途中で困窮した平清盛を支えた本宮別当で、その子湛増も親平氏の立場を取っていた。湛増は、熊野新宮を討つために軍勢を動かしたが、合戦に敗北した。湛増は、福原にいた清盛に合戦経緯と、背後に源行家と以仁王の陰謀があると報告した。
『平家物語』は、この合戦の時に行家は熊野にいなかったとする。『平家物語』諸本や『吾妻鏡』の記述に従えば、行家は以仁王の令旨を持って平氏追討を呼びかけ、東国を廻っていたことになる。しかし、以仁王が反乱を考えていた可能性は低く、熊野新宮合戦の時期に令旨はそもそも存在していないと思われる。実際の行家は、熊野本官の動きを察知して潜伏し、内乱が始まった後に東国で軍勢を集めて挙兵したのではないだろうか。
だが、清盛は、以仁王が八条院の寵臣三位局の夫となり、八条院御所で家族ぐるみのつきあいを始めた頃から、八条院が抱える皇位継承の候補と警戒していた。本官の報告を受けた清盛は警戒して軍勢を引きつれ京都に移り、この事件を機に以仁王を押さえ込もうとした。風聞をきっかけとして、平氏は以仁王の政治生命を絶つつもりで動き出した。
つづく
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