2026年1月25日日曜日

大杉栄とその時代年表(746) 1907(明治40)年8月16日~21日 明治40年大水害 山梨県の近代における最大規模の自然災害 被災者の北海道移住(計650戸・3,130人余) 現在では移住者の多くは離村し、移住地は原野に還元しつつあり、移住者の子孫も少なく地名などに僅かな痕跡を残している

 

明治40年の大水害により被災した甲府市緑町(現、甲府市若松町)の惨状

大杉栄とその時代年表(745) 1907(明治40)年8月4日~15日 「漱石は沙翁を繰り返す気もなし語学者になる気もないが、この両人の根気だけはもらいたい。小説をじ然と発展させて行くうちにはなかなか面倒になってくる。これで見るとヂッケンスやスコットがむやみにかき散らした根気は敬服の至だ。彼らの作物は文体において漱石ほど意を用いていない。ある点において侮るべきものである。しかしあれだけ多量かくのは容易なことではない。僕も八十位まで非常な根気のいい人と生れ変って大作物をつづけ様に出して死にたい」(漱石の小宮豊隆宛手紙) より続く

1907(明治40)年

8月16日

小学校令の改正。鶴岡に4つの尋常小学校が設立。

8月16日

田村俊子(23)、横浜・羽衣座での毎日新聞文士劇に出演、初舞台。高安月郊「吉田寅次郎」他が数日間興行。

8月16日

平岡養一、誕生。木琴奏者。

8月17日

清国、新幣分成色章程制定、銀元単位を採用。

8月18日

(漱石)

「八月十八日(日)、松山市にいる高浜虚子に、宝生流の松本金太郎(神田区猿楽町二丁目十一番地、現・千代田区猿楽町二丁目)へ入門する手続きを尋ねる。(酒好きなのと月謝が高いので実現しない)」(荒正人、前掲書)


8月18日

啄木(21)、宮崎侑雨の紹介で斎藤大硯(哲郎)が主筆である市内東浜町三十二番地の「函館日日新聞」(社長小橋栄太郎)の遊軍記者となり、直ちに「月曜文壇」と「日日歌壇」を起こし、「辻講釈」の題下に評論を掲げる。

8月18日

第2インターナショナル第7回大会開会(シュトゥットガルト)。トロツキー出席。フランスのエルヴェがドイツ社会民主党の議会主義政策を批判し「カイゼル・ベーベル」と皮肉る。


「第2インターナショナルの大会では、まだ1905年のロシア革命の息吹が感じられた。大会は左にならって整列していた。しかし、革命的方法に対する幻滅もすでにうかがわれた。ロシアの革命家に対する興味関心は衰えていなかったが、その興味の中には多少の皮肉っぽいニュアンスが込められていた。またわれわれのところに戻ってきましたな、というわけだった。私が1905年2月にウィーンを経てロシアに向かったとき、将来の臨時政府への社会民主党の参加問題についてどう考えているかヴィクトル・アドラーに尋ねたことがある。アドラーは、いかにも彼らしい答え方をした。


『あなた方の場合、将来の政府の問題に頭をつっこむには、現在の政府をどうするかという問題の方があまりにも大きいようですね』。


シュトゥットガルトで、私はこの言葉をアドラーに思い出させた。するとアドラーはこう言った。


 『あなた方が、私の思っていたよりも臨時政府に近かったことを認めましょう』。


アドラーは総じて私に非常に好意的だった。何といっても、オーストリアの普通選挙権は基本的にペテルブルクの労働者代表ソヴィエトのおかげで獲得されたようなものだからである。


1902年に私が大英博物館に出入りできるよう取り計らってくれたイギリスの代議員クウェルチはシュトゥットガルト大会の場で、その時ちょうど開かれていた外交会議を『強盗の集まり』と呼んだ。この発言はドイツ宰相フォン・ビューロー公のお気に召さなかった。ヴュルテンベルクの州政府はベルリンの圧力に屈して、クウェルチを国外追放にした。たちまちベーベルは途方に暮れた。ドイツ社会民主党はこの追放に反対するいかなる行動にも出なかった。抗議のデモさえなかった。インターナショナルの国際大会は学校の教室のようなものと化してしまった。不作法な生徒が教室から追い出されるが、他の生徒は押し黙っている。ドイツ社会民主党の膨大な党員数の背後には、無力さの影がはっきりと感じられた。」(トロツキー『わが生涯』)


8月19日

英独立労働党ケア・ハーディ来日。幸徳・堺らと親交。

22日、硬軟両派合同歓迎会。

8月20日

間島龍井村に統監府派出所開設。

24日 清国撤去を要求。

8月20日

(漱石)

「八月二十日(火)、松根東洋城宛葉書に俳句二句送る。(鈴木三重吉(千葉県海上郡高神村犬若館)は、小宮豊隆宛葉書に、「もう十日したら九月だね、早く出てお出でよ、先生の花壇を賑やかにしやう。」と裁く。)

八月二十一日(水)、松根東洋城宛葉書に俳句三句送る。

(八月二十二日(木)、鈴木三重吉、加計正文宛の葉書に、「此三十日間、朝日の虞美人草を讀んで切り抜く外なんの用事もしない。」(荒正人、前掲書)


8月21日

明治40年大水害(Wikipediaより)

8月21日夜半から8月26日にかけた台風の影響による記録的大雨。

水害の様子は、8月23日から10月10日まで被災地を視察した警察官・望月嘉三郎の巡視日記である『明治四十年八月山梨県下水害地巡視日記』に詳述されている。

『巡視日記』によれば山梨県では8月22日から8月28日まで大雨が降り続けたという。降水量は甲府315.4mm、大月728mm、山中湖643mm、南部469,2mm、鰍沢305mm。

大雨により河川は乱流し、土砂崩れや堤防の決壊、橋脚の破壊などを引き起こし、家屋の全半壊や集落の孤立、耕地の流出や埋没、交通の寸断など甲府盆地東部の峡東地方中心に多大な被害を出した。死者233人、流出家屋5757戸、埋没や流出した宅地や田地650ha、山崩れ3,353箇所、堤防決壊・破損距離約140km、道路の流出や埋没、破損距離約500km、倒壊した電柱393箇所とされる。

山梨県の近代における最大規模の自然災害となった。

『巡視日記』は東山梨郡神金村(甲州市塩山)における山体崩壊や、東山梨郡加納岩村(山梨市)における村落間の暴動など水害を巡る状況を記しており、重川流域における被害に関しては鉄道による石材の輸出で山林が荒廃し、山体崩壊を招いたとする地元住民の見解を記している。また、東山梨郡一宮村(笛吹市一宮町)では明治維新後に古来からの堤防が破壊されたことが水害を及ぼしたとする住民の意識を記している。

この大水害は郡内地方においても大きな被害を出した。作家山本周五郎は幼少期に北都留郡初狩村(現在の大月市初狩町下初狩)に居住しており、一家は被災したため東京府北豊島郡王子町豊島(東京都北区豊島)に転居している。

〈団体移住策の浮上〉

大水害後、罹災者の北海道への団体移住が計画された。

移住の動きは水害発生直後から起こり、『巡視日記』9月4日条では、耕地の乏しい山間部の村落である黒駒村(笛吹市御坂町)では、村の有志が水害からの復旧が困難であることから、北海道への移住が必要であると説いていたと記されており、著者もこれに同意する意見を添えている。9月13日条では平野部の村落である上曽根村(甲府市上曽根町)においても他地域への移住を望む声があったと記している。

『山梨日日新聞』8月29日は「罹災民の移住」と題して、1889年(明治22年)の十津川大水害において奈良県吉野郡十津川村から北海道石狩国樺戸郡トック原野(北海道空知支庁新十津川村)へ600戸・2489名が団体移住した事例を引きつつ、山梨県から北海道への団体移住を具体的に提言する論説を掲載している。

山梨県農会では韓国への集団移住を提言したとされ、『山梨日日新聞』9月8日・9月10日は「朝鮮と北海道(上・下)(再び罹災民移住に就て)」においてこれを批判している。但し、山梨県農会の韓国移住提言についての文書は確認できていない。

水害後の団体移住は、人口の分割という点が重視されており、罹災民の救済のみならず、罹災後の山梨の復興も目的とした「人口排出」の手段である点が指摘される。

なお、明治維新以降、明治40年の大水害以前に山梨県から北海道への居住者は1,104戸・4,140人で、東北北陸諸県に比較して少ない規模である。

団体移住は県でも認識され、9月8日の山梨県知事・武田千代三郎の告諭では罹災者の移住を考慮する声明を発している。県主導による団体移住の候補地が選定され、9月末には技師の大脇正諄が北海道渚滑原野(紋別市)・天塩国風連原野(名寄市)を後補とした報告を行っている。両地域は離れており、渚滑原野はオホーツク海に面した道東に位置しており、風連原野は内陸部の道央に位置している。

〈北海道移住の実施〉

同年12月21日~翌年(明治41年)1月17日、山梨県内21ヶ所の被災地で説明会を実施し、居住者に対する補助などを説明。

明治43年3月、第一陣が北海道へ渡るが、移住先や移住補助金に関しては出立直前に発表された。

移住先は、当初予定されていた渚滑原野・風邪連別原野から変更され、道央の羊蹄山麓の胆振国虻田郡倶知安村(くっちゃんむら)・弁辺村内の四地域が選定された。現在の倶知安町・喜茂別町・京極町で、各地に「山梨村」が誕生した。羊蹄山は移住者により甲府盆地から見える富士山に模せられ、「蝦夷富士」と呼ばれた。

居住者への補助は1年分の食糧費・家財道具などに関して一戸あたり200円となり、希望者685戸に対して15万円の財源が必要とされた。県では全額負担が難しいことから、第一陣の移住が実施された明治41年3月に8万円分を国庫補助することを決定し、同時に給付は困窮度の高い300戸余を選定して行い、不足分は義捐金として募集し、残る380戸余の移住と補助金の給付は翌年度に実施する方策を実施した。明治41年の移住では国庫補助8万円のうち5万7000円が山梨県事務官・入江貫一に託され、移住者に対して使用された。

移住は1908年(明治41年)・1909年(明治42年)にかけて4次に渡り実施され、1911年(明治44年)には前年に水害が発生したため5次目の移住が実施され、計650戸・3,130人余りの住民が移住した。

しかし、冷涼な気候への不適応から移住者の多くは離農し、1920年代には第一次世界大戦後の反動不況を受け、移住者の多くは離村し、現在では移住地は原野に還元しつつあり、移住者の子孫も少なく地名などに僅かな痕跡を残している。


つづく


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