2026年1月13日火曜日

大杉栄とその時代年表(734) 1907(明治40)年6月16日~17日 「ストルイピンは[1907年6月に]第2国会を解散し、ツァーリはポグロム主義者の同盟と友好的な電報をとりかわした。… これらの紳士諸君の戦術はきわめて単純なものである。 およそ1年前、反動的貴族階級の機関紙である『モスクワ通報』が、この戦術を以下の言葉で要約した。ロシアの人口は合計するとおよそ1億5000万人であり、革命に積極的に参加しているのは約100万人ほどである。仮に革命参加者全員を射殺したとしても、ロシアにはそれでもまだ1億4900万の住民が残っている。祖国の繁栄と偉大さにとってまったく十分な数である。」(トロツキー「国家と革命」)

 

ピョートル・ストルイピン(1862~1911)

大杉栄とその時代年表(733) 1907(明治40)年6月1日~15日 閨秀文学会(金葉会)設立。九段中坂下成美女学校、講師与謝野晶子、馬場孤蝶、森田草平(天台宗中学林の英語教師)、生田長江。聴講生平塚明子(らいてう、21歳)、青山(後、山川)菊枝ら。長江の勧めで明子が編集した回覧雑誌(1号のみ)に、明子が始めて小説を書く(「愛の末日」)

1907(明治40)年

6月16日

堺利彦、「社会新聞社」の研究会で分派容認説を主張。分派は運動の進歩を示す。「社会新聞」は各分派に紙面を開放し、自由に主張を発表させるべきと述べる。

6月16日

(露暦6月3日)ロシア、ストルイピン、急進的な第2ドゥーマを解散し選挙法を改悪(ストルイピンのクーデタ、6月3日のクーデタ)。

ドゥーマ左派議員逮捕。保守派に有利な新選挙法制定(地主1票=大ブルジョアジー4=小ブルジョアジー65=農民260=労働者543に相当する割当)。

その後にできた反動的地主とブルジョアジーの支配ブロックをトロツキーは「6月3日体制」と呼ぶ。


「ストルイピンは[1907年6月に]第2国会を解散し、ツァーリはポグロム主義者の同盟と友好的な電報をとりかわした。… これらの紳士諸君の戦術はきわめて単純なものである。

およそ1年前、反動的貴族階級の機関紙である『モスクワ通報』が、この戦術を以下の言葉で要約した。ロシアの人口は合計するとおよそ1億5000万人であり、革命に積極的に参加しているのは約100万人ほどである。仮に革命参加者全員を射殺したとしても、ロシアにはそれでもまだ1億4900万の住民が残っている。祖国の繁栄と偉大さにとってまったく十分な数である。

この残忍な発想は、きわめて単純な、しかしながら革命の基礎を形成している一つの事実を見落としている。すなわち、革命に積極的な100万人は、歴史の発展の単なる執行機関にすぎないということだ。

この歴史的事実を、ストルイピン氏は、今や再度試験にかけようとしている。

すでに2年間、政権を率いているこのロシアの首相は、苦しい立場に追い込まれた反動陣営にとって不可欠な、強靭な神経の持ち主であることが明らかになった。彼は自分自身の中に、奴隷所有者の野蛮な粗暴さと山師の個人的大胆さと、議会制ヨーロッパの下で育ったような『政治家(ステーツマン)』の如才のない物腰とをあわせもっている。農民騒擾が最も激しかったサラトフ県の知事として、ストルイピンは、立憲時代の最初のころ、農民に対する鞭打ち刑を自ら監督し、そしてその際、国会議員の証言によれば、わが母国の野卑な言葉以外には再現できないような罵詈雑言を農民に浴びせかけた。数え切れない陰謀の中心にある国家元首のあわれで気まぐれな意思によって内相の職に任命され、やがて首相に指名されたストルイピンは、歴史の発展の法則については少しも知らない無学者の自信のほどを示し、厚かましくも『現実政策(リアルポリテックス)』をとった。つい少し前まで自ら立ち会いのもとで、社会秩序のために農民の服を脱がせ鞭打ちすることを命じていたこの官僚が、である。第1国会において彼は脇に退き、新たな状況を観察し、議会主義の法律的覆いの下にある社会的諸勢力の現実の輪郭を、野蛮人の鋭いまなざしで、探り出そうとした。

第1国会でのカデットの叙情的な心情吐露、いつも小心さで声を震わせている彼らの歴史的に遅ればせのパトス、人民の意思への彼らの芝居がかった訴え(これは今やペテルゴーフにある宮殿[ツァーリ政府のこと]の玄関ホールでの卑屈なささやきに取って代わった)、これらすべては、ロシアの地主の反動の頭目に畏敬の念を起こさせることはできなかった。ストルイピンは好機をうかがい、それをとらえて、議員たちをタヴリーダ宮殿から追い出した。しかし、この宮殿の鎧扉が閉められ釘づけにされたあと、彼は突然、国会によって生み出されたあらゆる歴史的諸問題に直面しているのに気づいた。要塞での蜂起は武力で鎮圧され、テロ的行為の恐るべき蔓延に対しては、野戦軍法会議が開かれた。しかし、あらゆる複雑な諸現象を伴っている農業恐慌の前では、ストルイピンは、スフィンクスに謎をかけられた旅人のようだった。

政府の背後に結集したのは、結束が固く、ツァーリの庇護のおかげで権勢盛んな、位の高い農奴制擁護派の一味であった。彼らのスローガンは、仲間の一人であるサルトゥイコフ伯によって、次のように与えられた。

『われわれの土地は一片たりとも、われわれの畑は砂一粒たりとも、われわれの草原は茎一本たりとも、われわれの森は小枝一本たりとも、渡さない』。

他方で政府は、ストルイピンがヴィッテ伯から安い値段で買い取った自由主義的官僚、御用学者、評論家を意のままに用いた。そしてこれらの連中はみな、ストルイピンを改革と『法治』国家へ引き込んだのである。」(トロツキー「国会と革命」1907年6月より)


6月17日

~19日。首相西園寺公望、文士招待(読売新聞主筆竹越三叉が西園寺に相談され部下の近松秋江が人選)。花袋、柳浪、鏡花、秋声、鴎外(2日目の頭領格)、桂月、独歩、露伴(3日目の頭領格)、藤村。

逍遥、四迷、漱石、辞退。漱石(40)、「時鳥厠半ばに出かねたり」の一句。

明治40年6月14日、西園寺首相に招待きれた文士の氏名、日程が各新聞紙に発表された。招待会は3日に分けられ、6月17日、18日、19日にわたって、神田駿河台の西園寺邸で行われることになっていた。

招待された文士は20名であったが、徳田秋江の作ったリストから、蘆花、抱月、敏等が除かれ、塚原渋柿園と大町桂月が加えられていた。

この発表は文壇人にとって大きな事件であった。

江見水蔭は、招かれていなのに立腹した。硯友社員の中で呼ばれなかったのは石橋思案と江見水蔭との2人。江見は現役作家であると自負していた。彼の弟子格の田山花袋が呼ばれて、彼は無視された。たまたまこの月15日、博文館は創立20周年を記念するため、「文芸倶楽部」の臨時増刊として「ふた昔」という650頁もある創刊特輯を刊行し、20名の代表的作家の作品を載せていた。江見はその中に入っていた。

翌日から色々な新聞に、この人選についての噂話が載りはじめた。また江見のところには知人から、君が洩れているのは怪しからぬという慰めの手紙が何通か来た。ある新聞のゴシップには、水蔭と蘆花は硬骨漠だから、招かれても断るだろうと先を見越して除外きれたのだろうと書いてあった。

江見は、西園寺と関係のある文筆家と言えば竹越三叉と国木田独歩の2人なので、この人選はその2人によるものと考えていた。「読売新聞」社員の上司小剣や正宗白鳥は、それが徳田秋江によるものだということを知っていたが、極秘事項なので人に言わなかった。徳田秋江自身は、あれは俺が竹越に頼まれてしたのだ、と言っていたが、竹越ともあろうものが、徳田などの案を採用する筈がないと考える人が多く、徳田の言うことを信用するものはなかった。

この新聞発表の翌日の15日、博文館は上野精養軒で招待者千人という大規模の創立20周年の祝賀会を行った。会場での噂話は、前日発表された首相招宴の人選のことで持ちきり。その人込みの中の立話で内田魯庵が言っていたことが水蔭の耳に入った。

「中には自分は当然招待されるものと自惚れていて、それで選に洩れた為に、どんなにショゲている者があるか知れまいよ。」この言葉が江見の肝に応えた。

騒然とした文壇の中を噂が行き交っていた。一つは、漱石が招宴を断る手紙を出し、その手紙の終りに、「時鳥厠半ばに出かねたり」という馬鹿にしたような句を添えた、ということ。また一つは、逍遥が鄭重を手紙を書いて断ったということ、二葉亭四迷も断ったということであった。親友の内田魯庵が出向いて、招待を断るというのはあまり頑なではないかと言ったところ、二葉亭はそういう場所へおれが行くものか、と言って相手にしなかったという話も伝わった。

6月17日(招宴の第1日)には眉山、柳浪、花袋、風葉、春葉の5人、18日には、鴎外、小波、宙外、天外、鏡花、秋声の6人、19日には桂月、露伴、渋柿園、魯庵、藤村、独歩の6名が西園寺邸に出向いた。第1夜が雨降りであったのに因んで、この会は雨声会と名づけられた。

大町桂月は第3日日の会合について6月19日の「読売新聞」紙上に報告文を書いた。"

「午後五時半との事なれば、その頃を見はからひて、西園寺侯の邸に行く。不知庵(魯庵)、渋柿、藤村、独歩すでに座につけり。余より少しおくれて、露伴来れり。侯の外には、竹越三叉ありて、接待役をつとめたり。八畳二間を客座敷に充つ。南ふさがりて、東に庭あり。敷石正しく、芝生しけり、木立今や新緑を帯びてしげれる上に、陰鬱たる五月雨の空、暮に及びて殊にものさびし。露伴来りて、設けられたる座蒲団みなみたされたるかと思へば、やがて美人あまた出で来て、杯膳をはこぶ。酒宴はじまれり、電灯つきて忽ち一座光る。六七の美人更に光を添ふ。美といふは未し。艶といふも未し。光るといふが美人を形容するに最も適切なる詞なりと見とれたり。侯よく飲み、よく談ず。毫も官臭を帯びず。三叉接待役を勤めて一座を賑はせり。侯が青年の時、江戸に来り、甲府へ赴き、柳原家の臣と称して徴典館にゆきしに、案外に学問が出来るとて、仕事をさづけて報酬を与へられしなど、物語り給ふ。傍にありし三叉は、そははじめてうかゞふ所なりといふ。談は侯が仏国の小説を談ずるより、くさぐさのことに及ぶ。侯も三叉も座談に長ず。博識なる魯庵、世智に長けたる露伴、故実に通せる渋柿、いづれも口八丁、手も八丁、話柄それからそれへと移りて、しばしも絶間なし。恰も蘆の若葉に、行行子の鳴きかはすが如し。余は今日の新聞を読み、昨日三叉が接待役になりて、客にそれぞれ思ふ所をかゝせしを知り、今日も亦かゝる事あらむかとて、午前中、苦心して、一詩をつくり出せり。既に出来たる以上は、機先を制するもよからむとて、三叉に向ひて紙筆を乞ふ。候きゝつけて昨夜の絹帳(ぬめ)をもち来れと命ず。まだ早からむと言はるゝに、三叉笑って、大町君は酔っては駄目なり。酔はぬうちに書かせざるべからすといふ。酒楼などにてこそ酔っぱらひもすれ、気を入れて飲まは斗酒何ぞ酔はむやと気張るも、我ながらなほ若い哉。かゝる程に、侯も接待役の三叉も、一座をめぐり杯をすゝめらる。座の一方には絹帳すでに展べられたり。美人、墨を磨す。侯、壁の渡淡を吟味していざ、かけといふ。

風流ノ宰相解憐   詩酒清筵三日間

怪雨一天昏似墨   文星夜堕駿河台

とかきつけたり。諸氏もそれぞれかきつけたるが、余はかさねて

五月雨や首相文士を召したまふ

とまた書き加へぬ。」

6月17日

この日付けの漱石の松根東洋城宛て手紙

「御手紙拝見。長い手紙をかく余裕がない。毎日『虞美人草』のことばかり考えている。今日社から原稿をとりにくる。九十七枚わたした。折角苦心してかいた所もあとから読み直すと何だこんなものかと思うこと多し。つまらない」

6月17日

荒畑寒村、堺利彦編「社会問題辞典」取材のため、谷中村に田中正造訪問。

6月17日

アルバート・アインシュタイン、ベルン大学の私講師職に応募。大学教師資格取得論文を伴っていないために却下。


つづく



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