1907(明治40)年
6月
真山青果「小栗風葉論」(「新潮」)~9月。風葉が指導して「金色夜叉」の芝居になりそうな対話を写し取る仕事をしたのが、師弟関係の始まりと記述。
6月
インターナショナル・オイル・カンパニーの北海道を除く事業及び財産を日本石油会社に売却。
6月
東京朝日新聞、古手の深訪員の半分を解雇し、新たに東大出身2・早大出身2の若手を採用。また記者1人に警察本署1ヶ所・分署ヶ所・憲兵分隊1ヶ所を担当させ、大学卒社会部員が「サツ廻り」でそのキャリアを始める伝統の端緒となる。主筆池辺三山が社会面の改組を図るべく熊本第6師団法官部理事の玄耳渋川柳次郎を引抜き、検討の結果、深訪記者制度の根本的改定の実施となる。
6月
武者小路実篤、東大退学前に徴兵検査、丁種不合格となる。兄公共を通じて井上馨の筋に働きかけ?
6月
島崎藤村「黄昏」(「文章世界」6月号
「並木」(「文藝倶楽部」増刊号)
藤村は明治40(1907)年、数え36歳。前年3月に「破戒」を出版。その作品を仕上げる前から住んでいた郊外の西大久保405の家で3人の幼い娘を次々に失った。その年10月、彼は妻冬子・長男楠雄(数え3歳)を連れて下町の浅草新片町一番地に移った。隅田川ほとりで、その支流神田川附近の柳橋に近い静かな住宅地であった。藤村は少年時代に吉村忠通の家に寄寓していて、その家がこの近くの浜町にあったので、思い出のある土地だった。彼はその吉村に頼んで、その知人の持家である小さな二階家を借りて住んだ。
藤村は、自分の手で出版した緑蔭叢書第一篇としての「破戒」を書き終えた頃から、第二篇となるべき大きな作品の構想を立てていた。その題材は、自殺した北村透谷を中心として、星野天知、平田禿木、馬場孤蝶、戸川秋骨等「文学界」の同人たちとの交際の間に形造られた自分の若い日の心情であった。北村透谷の苦しみとその恋愛、その死、自分自身の佐藤輔子、広瀬恒子との恋愛などが、それから十年の後のいま、藤村の心の中に蘇ってきた。
新片町への引越しを、「破戒」出版の後援者、信州の神津牧場主神津猛へ知らせる手紙の中で、藤村はその作品について触れ、次のように書いた。「今年のうちに出来るかぎりの準備をとゝのへ、来春よりは一切のわづらひをさけて、叢書の第二篇に筆執る心組に御座候。第二篇は以大利の古画家、ポチチェリの図に因みて『春』といふ簡単な題目を選び申候。」
明治40年4月、彼は博文館から短篇小説の依頼を二つ受けた。一つは友人田山花袋の編輯している「文章世界」に載せる極く短い小説で、もう一つは、博文館が創立20周年記念に刊行する「文芸倶楽部」増刊号に載せる450枚の小説であった。すでに「春」の下書きを書きはじめていた彼にとって、臨時の仕事は好ましくないものであった。しかし一つは長年の友人花袋の新しい仕事を援助する意味があり、もう一つは大出版社博文館の祝いのために出す現代の代表的作家たちの作品集に加えられるものとして名指された仕事であり、ともに断り切れないものであった。
「文章世界」のために書いた「黄昏」は、身を持ち崩した男女が黄昏の街を一緒に歩くというスケッチのような7枚ほどのものであった。「文芸倶楽部」増刊号の方は比較的長い作品なので、場面や人物を慎重に設定しなければならなかった。
〈「並木」 馬場孤蝶を主人公にしたモデル小説の波紋〉
博文館の「文芸倶楽部」増刊の記念号に書く小説として、藤村は「春」の人物の現在の姿を短篇にまとめるこにした。明るい性格の馬場孤蝶を主人公にして、外柔内剛な戸川秋骨を配し、戸川が上京した前年夏に場面を設定して、40年5月初めに書き始めた。
藤村は二人のことを題材に小説を書いていることの承認を求めた。友人のことだから多少筆が滑っても容赦してほしいと言い、まだそれは書きはじめたばかりだから、書き上げてから二人の承認を求めて発表したい、と言った。
藤村はその小説(「並木」)をかき揚げ、原稿を博文館に渡した後、訪ねてきた馬場にその旨を告げ、作品に対する君たちの批評もあるだろうから雑誌「趣味」の編輯者に話して批評を載せてもらう。自分の原稿料とその稿料との両方で、3人で一度食事をしたいと言った。
作品発表後、馬場はこの作品を読んで不愉快になった。自分が志を得ないでいることは事実だとしても、知人たちに、自分だとあらわに分る形でこのように書かれたことに立腹した。しかし半ば承諾していたことだから、正面から島崎を攻撃することもできなかった。彼は約束に従って「趣味」に載せる原稿を、皮肉を籠めて書いた。
馬場は、作品では主人公の子供を4人と書いているが、自分は3人しか子供がない。また昼飯を奢ったと書いてあるが自分は滅多に人に奢ったことはない、などと書いた。また、結末の「冷い涙は彼の頬を伝って流れた」という藤村一流の表現に皮肉を言った上で、この作品は「生きて居無い。一言にして言へば、モデルの扱ひ方が下手だ」と馬場は批判した。
馬場のこの批評「島崎氏の並木」は9月号の「趣味」に発表された。すると、同じ月の「中央公論」に、戸川秋骨もまた「並木」に対する批評を書いていた。それは「金魚」という題で小説の形をなし、しかもその作者の名は「『並木』の副主人公原某」となっていた。戸川はその中で、「並木」に描かれたのと遭う自分の性格や境遇を細かく描き、小説の形で「並木」に対する不満を述べた。だが、この小説は、ふだんの交際の問に馬場が語っていた自己の生活に対する不満を、島崎が自分流に推定して描いたものであり、モデルにされた2人に与えた不快の念もさして深いものではなかった。それに対する馬場と戸川の批判は、皮肉を弄して、多少思い上っている島崎を閉口させることを目的としたものに過ぎなかった。馬場と戸川は約束に従って、そのあとで島崎と食事を共にし、「並木」の事件は水に流したことにした。
〈その頃の藤村の友人たちー文学界同人たち〉
〈戸川秋骨〉
明治39年8月、戸川(数え37歳)は山口高等学校教授の職をやめて、家族を山口に残したまま上京した。戸川は明治学院から東京大学文科大学選科を終え、明治35年9月に山口高等学校へ赴任した。明治39年、戸川は六等九級の教授として20名の教授の間で中頃の席次にあり、年俸900円を得ていた。ところがこの年、文部省は、山口高等学校を廃して山口高等商業学校を新に設置することに定め、教職員全員がその職を離れることとなった。戸川は、山口での9年間に、その静かを生活に馴染み、その生活を愛するようになっていた。彼は古い士族屋敷を借りて住み、自分で鍬を取って畑を耕し、草花を植えて楽しみとした。
上京した戸川は、前年に小諸義塾をやめて上京した藤村を西大久保405番地の家に訪ね、その近くの大久保仲百人町153番地に家を借りて落ちついた。また彼は飯田町6丁目に母や妻子と住んでいる馬場孤蝶をも訪ねた。
〈馬場孤蝶〉
馬場孤蝶は明治40年には数え39歳。明治学院を島崎や戸川と同じ明治24年に卒業し、郷里の高知市の共立英語学校教師として赴任した。明治26年、藤村は佐藤輔子との恋愛事件に悩んで関西に放浪し、高知へ行き、彼に逢っている。
その年彼は上京し、三菱銀行頭取で親戚の豊川良平の庇護を受けながら著述と勉強を続けた。彼は政治家であった亡兄辰猪の気性に似て闊達で陽気で、義太夫に熱中したりしたが、同時に、英語と英文学の研究を進め、明治28年には最も難かしい試験と言われていた英語科の教員検定試験を通った。それは矢田部良吉や神田乃武(ないぶ)が試験官であり、実力が充実していなければ連れない難関であった。
その後、杉浦重剛の紹介で彦根中学教員となって2年ほど勤め、明治30年、再び上京し、豊川良平の紹介で日本銀行文番課に勤めた。この勤めの間、馬場は語学力を利用してフランス、ドイツ、ロシアの諸作家のものを読みあさり、特にロシア文学に熱中した。
〈上田敏〉
「文学界」に遅れて参加した上田敏は、私立学校系の馬場・戸川のように田舎に勤め口を捜すようなことはなく、学者としての本道を異常な早さで進んでいた。彼は24歳で東京帝国大学文科大学を卒業し、その年すぐ東京高等師範学校講師となり、26歳で教授となる。明治36年、30歳のとき、先輩の漱石と同時に東京帝国大学文科大学講師となった。その間に発表した研究、紹介、翻訳は、ダンテ以後のヨーロッパ各国語の作家、詩人の仕事を網羅し、日本の新しい詩壇は全く彼の影響下に育ったと言っていいほどであった。
〈平田禿木〉
もう一人の文学界の同人平田禿木は、学者として上田敏に次ぐ位置を持っていた。第一高等中学校を中退してから、東京高等師範学校を明治31年に卒業し、高等師範学校附属中学教諭となった。そして3年後に高等師範学校教授となる(勤め先で上田敏の同僚)。明治35年、上田敏が雑誌「芸苑」を刊行したときも、それが創刊号のみで挫折して森鴎外も加え「芸文」と改題して二冊目まで出したときも、平田はその協力者であった。明治36年、文部省から派遣されてイギリスに留学し、オックスフォード大学で3年間研究生活を送り、明治39年に帰國した。
〈星野天知〉
「文学界」の主宰者・出資者であった星野天知は、その家が江戸時代からの大きな砂糖問屋であったが、農科大学に学んだ彼は、やがて株をやったり、開墾事業に手を出したり、剣術に熱中したり、「文学界」経営に当って、自ら小説も書くというような多方面のディレッタントであった。日露戦争の頃から、彼は、金持ちとして常に他人に利用されて自己の生活を見失う生活に厭きたと感じて、鎌倉に住居を移し、書道に熱中していた。彼は藤村より10歳年上で、明治40年には数え46歳になっていた。
(『日本文壇史』より)
6月
蒲原有明「皐月野」(5篇の詩)(『文章世界』)
第二篇「智慧の相者はわれを見て」は、感覚を主としたこれまでの彼の詩風に、人生論的な感じの浸透したもので、彼の詩の一転機をなすものと見られた。
蒲原有明は東京府立尋常中学を卒業後、独学した人だったので、学校関係のグループは持っていなかったが、麻布の龍土軒で開かれる龍土会の常連であり、藤村、花袋、独歩等の小説家との交友関係が多かった。その人柄は内省的な孤独型で、社交的なところの少い人物であった。
蒲原有明(隼雄)は、麹町隼町に父母とともに住んでいた。彼の名隼雄はその町名を取ってつけられた。桜田門に近い三宅坂の崖下の、もと御家人か何かの住んでいた屋敷あとらしい家で、黒塀をめぐらし、樫の木を周囲に植えた家だった。彼の父忠蔵は、佐賀県杵島那須古村の出身で、明治元年に大木喬任に従って上京し、兵部省八等出仕となり、その後工部、司法、文部の各省に転じて営繕科の仕事をし、書記官となった。その後一時郷里に帰って郵便局長をしたが、また上京してこの麹町隼町に住んだ。
明治38年11月、有明の父忠蔵は肺炎で亡くなった。そして翌明治39年、数え31歳の蒲原有明は、佐賀県西松浦郡曲川村出身の西山君子と結婚した。
(『日本文壇史』より)
6月
東京市会(政友会が多数派)、市内交通機関に通行税を適用しないよう決議、意見書を内相に提出。
6月
ドイツ・イタリア・オーストリア=ハンガリー3国同盟、6年延長。
6月
永井荷風(28)、ニューヨーク湾内のスタトン島でイギリス娘ロザリンを識る。
つづく

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