2026年1月15日木曜日

大杉栄とその時代年表(736) 1907(明治40)年6月22日~29日 「六月二十三日 (日)、『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』に、『虞美人草』掲載され始める。表題の肩に橋口清(五葉) のカットが一段の大きさで入れられる。」(荒正人)

 

東京朝日新聞に掲載された夏目漱石「虞美人草」題字飾りカット(明治40年6月〜10月)

大杉栄とその時代年表(735) 1907(明治40)年6月18日~21日 明治39年の終り頃から、「中央公論」、「太陽」、「文芸倶楽部」などが国木田独歩の作品を積極的に求めるようになった。 彼は、文士としての自分が時代の最前線に押し出されていることを見出した。このとき彼は数え37歳。 より続く

1907(明治40)年

6月22日

呉敬直ら、パリで「新世紀」創刊。

6月22日

東北帝国大学を仙台に新設。札幌農学校を東北帝国大学農科大学とする。

6月23日

漱石(41)「虞美人草」(「朝日新聞」連載開始~10月26日、127回)。

10月~年末、二葉亭四迷「平凡」(62回)連載(「其面影」明治39年10月10日~78回)。

翌1908年元旦からは漱石が「坑夫」(90回)を連載。


「虞美人草」は、明治40年に最も世評の高かった小説である。この小説は、紫の女と呼ばれる自我意識の強い藤尾を中心に、彼女の母、彼女の異母兄で哲学者の甲野、その親友で、外交官志望の青年宗近、藤尾の母の味方である功利主義の秀才小野などを配した物語りである。漱石は藤尾とその母に、女性にありがちな虚栄心とエゴイズムの極を置き、それを否定して第一義の生活を求める甲野、宗近、その妹の糸子、などを他の極として、一つの観念的な小説を構成した。この小説の文体は、極度に技巧を凝らした美文調のものであったから、この小説の思想的核心の分らないものでも、小説の妙は文章にあるという通念を背景として、その絢欄たる表現に酔うことができた。

漱石の「朝日」入社は、この年の大きな社会的事件であった。漱石が東京帝国大学講師の職を棄てて新聞社に専属する小説家になったということは、一つの演出の役をした。それまで5,000~6,000部刷られていた「ホトトギス」、「中央公論」、「新小説」などに書いていた漱石の作品は、せいぜい1万足らずの読者にしか知られていなかった。明治40年に東京と大阪合せて40万以上の発行部数を持つ「朝日新聞」の読者の大部分にとっては、帝大の教師をやめて小説家になったということで評判の漱石の小説を読むのは、これが初めてであった。その文章が難かしければ難かしいだけ、「虞美人草」は在来の小説家と違った高級な作品に見え、内容がよく分らないままでこの作品に人気が湧いた。

この作品は予告によって評判になっており、停車場などで新聞売子は「漱石の虞美人草」と言って客に新聞を売りつけていた。また三越呉服店は夏前のことで前から準備して虞美人草浴衣というのを染めて売り出し、上野池ノ端の王宝堂という金属時計店では虞美人草指環というのを作って宣伝した。

小説が評判になるにつれて、この小説にはモデルがあるという噂が流布された。この時漱石が住んでいた本郷西片町一番地ろノ七号の家主の娘に、このとき数え年21歳のきみ子という日本女子大学の国文科の学生があった。きみ子は美しく、性格のはっきりした娘であったので、「虞美人草」の藤尾はそのきみ子に遼いないという漠然とした噂が、近所に住む「朝日」の読者から流れ出した。

(『日本文壇史』より)


「三越では虞美人草浴衣を売り出す、玉宝堂では虞美人草指輪を売り出す、ステーションの新聞売子は「漱石の虞美人草」と言つて朝日新聞を売つてあるくといふ風に、世間では大騒ぎをした」(小宮豊隆「夏目漱石」)。


「虞美人草は毎日かいてゐる。藤尾といふ女にそんな同情をもつてはいけない。あれは嫌な女だ。詩的であるが大人しくない。徳義心が欠乏した女である。あいつを仕舞ひに殺すのが一篇の主意である。うまく殺せなければ助けてやる。然し助かれば猶々藤尾なるものは駄目な人間になる。最後に哲学をつける。此哲学は一つのセオリーである。僕は此セオリーを説明する為めに全篇をかいてゐるのである。だから決してあんな女をいゝと思つちやいけない。」(7月19日小宮豊隆あて書簡)。


「豊隆先生。僕の小説は八月末には書き上げるだろうと思うから九月早々出て来たまえ。旅行は多分やめるだろう。小説をかいてしまわないと雑誌さえ読む気にならん。旅行などは来年に延ばしてしまう。あの小説をかいているうちは腹のなかにカタマリがあって始終気が重い。妊娠の女はこんなだろう」(8月6日付手紙)

「三四郎」(明41年9月1日~117回)、「それから」(明42・6・27~110回)、「門」(明43・3・1~104回)、「彼岸迄」(明45・1・2~118回)、「行人」(大正元12・6~167回)、「道草」(大正4・6・3~102回)。「明暗」が大正5(1916)年5月26日~188回迄で倒れ、12月9日、胃の内出血で没(50)。


「六月二十三日 (日)、『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』に、『虞美人草』掲載され始める。表題の肩に橋口清(五葉) のカットが一段の大きさで入れられる。

六月二十四日 (月)、津田亀治郎(青楓)の、挿絵の件で渋川柳次郎(玄耳) と交渉し、承諾を得る。見本を見せて欲しいとのことを津田青楓に手紙で伝える。これは、津田青楓が上京して初めて貰った手紙である。(津田青楓『老画家の一生』)」(荒正人、前掲書)


6月23日

大杉栄の堀保子宛て書簡(「監獄だより 巣鴨より」6月11日付)が『週刊社会新聞』に掲載

6月24日

靉光、広島県山縣郡壬生町字梅之木(現在の北広島町壬生小字梅之木)の農家に生まれる。父初吉、母ツネの次男。

6月25日

片山・田添・西川ら、日本社会平民党届出。綱領「憲法の範囲内での社会主義主張」。即日禁止。

同日、西川ら、日本社会党届出、禁止。

6月25日

韓国高宗の密使3名(李儁、李相卨と李瑋鍾)がハーグに到着。

6月28日、「抗告詞」と付属文書を(日本を除く)会議参加各国委員に送る。同日付の非公式会議報『Courrier de la Conférence』紙に「抗告詞」が掲載される。

6月29日、平和会議議長・ロシア代表ネフリュドフに面会し会議への正式参加を申し入れ。ネフリュドフは権限ないとし、オランダ外相フォンテッスに会うことを勧める。フォンテッスは日本代表都筑馨六に気遣い、密使の会議参加に難色を示す(外交権なし)。

6月30日、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツの各国代表を訪ねるが、支援を拒否される。

平和会議と並行して開催の国際協会会議で李瑋鐘が「大韓国の訴え」と題して演説するが、政治的効果はなし。

事件は、都筑馨六~外相林菫~西園寺首相~伊藤統監に伝わり、7月3日、伊藤は海軍将校を伴い高宗に謁見、密使の件を質す。高宗は否認。否認は都筑からネフリュドフやフォンテッスにも伝わる。

6月26日

(漱石)

「六月二十六日 (水)、渋川柳次郎(玄耳)来る。鈴木三重吉の投蕾を歓迎すると云う。(これは、この日の話題に出たものではなく、漱石が前から伝えてあったものである)

鏡、この日まで産褥につく。

六月二十七日(木)、野上豊一郎宛葉書に、「梅雨はげしく降って中々佗びしい。小説をやめて本がよみたいと書く。

六月二十八日(金)、西洋女優の絵葉書に「髪に眞珠肌あらはなる涼しさよ」と詠む。

六月二十九日(土)、寺田寅彦宛葉書に、「晩は大抵散歩夫からは日によると休業。尤も日中でも頭と相談の上時々休業仕候。段々暑くなると小説をかくのが厭になる」と書く。

六月下旬、漱石の依頼で瀧田哲太郎(樗陰)、森田草平を訪ね『十八世紀英文學』草稿を共同で作ることを相談する。

六月末か七月初め(日不詳)、坪内逍遥訪ねて来る。早稲田大学へ来るようにと勧められる。慶応義塾からも招かれたがいずれも断る。」(荒正人、前掲書)


6月26日

ボリシェヴィキがチフリス(トビリシ)で現金輸送車を襲撃、40人前後の死者を出す(1907年チフリス銀行強盗事件)。

6月28日

清国、鳳凰城・遼陽・寧古塔・琿春・三姓・海ラ爾・愛琿の7ヶ所開放の旨を阿部臨代公使に通告。

6月29日

谷中村強制取り壊し

~7月5日迄。栃木県、谷中村残留民に対し強制破壊(堤内16戸・100名余・堤外3戸)。警官200余、人夫数10人。

荒畑寒村「谷中村滅亡史」(8月25日)。木下尚江「労働」。島田栄三「田中正造翁余録」。

残留民は掘立小屋に住んで踏ん張る。8月、またも洪水。


強制破壊中、三宅雪嶺・花圃夫妻、逸見斧吉、島田三郎・信子夫妻、松平直敬(貴族院議員)、矢島楫子、今村力三郎、花井卓蔵、卜部喜太郎らが残留民を慰問、谷中村救済会(東京救済会)を結成。旧「新紀元」派キリスト教社会主義者・島田三郎が所属する政界革新同志会の議員・川俣事件以来の弁護団有志から構成。演説会開催、義捐金募集。

救済会と正造の意見の相違:

①残留民の居住地。正造は谷中村の所有地を耕作しながら復活まで長期間住める場所を探す。救済会は、県と交渉して付近に代替地を求める。

②不当買収価格に関する民事訴訟。正造は、土地収用法適用自体を不服としているのであり、価格の高低で争うのは疑問視。世論の盛上りのためには有効と説得され、残留民は安部磯雄ら谷中村土地所有名義人らと宇都宮地方裁判所栃木支部に訴えを起こす。途中、救済会は解消し、訴訟は残留民・正造に残される。正造没後、大正8年(1919)年勝訴。

木下尚江は社会運動から身を引き伊香保山中に隠棲していたが、強制破壊数日前に下山しこれに立ち会う。間もなく、再び伊香保に戻る。

「・・・さいごまで踏みとどまりたる十数戸の村民は、いずれも列伝に価する勇者と存じ候。・・・崇厳の感に打たれて、しばしば落涙したるところに候。・・・」。

木下は「政治否認者」で、権力とはそもそもそういうものであり、これを批判してもはじまらぬとの考えが根底にある。


つづく

0 件のコメント: