1907(明治40)年
6月1日
「大阪平民新聞」創刊。編集森近運平。宮武外骨出資。社会主義者強硬派。
10月5日、「日本平民新聞」と改題。無政府主義的傾向包含。
森近運平:
岡山県庁農業技師で社会主義団体「いろは倶楽部」を組織し免職。明治37年3月、大阪平民社設立。東京の平民社解散と共に大阪平民社も解散。上京。
宮武外骨:
「自分は社会主義者という訳ではないが、極端なる社会主義は政府を恐喝するの用に適す」と称して支援。
6月1日
『家庭雑誌』5巻8号発行。
大杉栄入獄のため、次号から平民書房の熊谷千代三郎・勝夫妻に引き継ぐ"
6月1日
英、航空技術者ウィットル、誕生。
6月2日
中国革命同盟会、広東省恵州の七女湖で蜂起。
6月2日
片山潜・西川光二郎・田添鉄二ら、週刊「社会新聞」創刊。
「社会主義中央機関紙」と銘うつ。硬軟両派対立激化(堺・幸徳らは、次第にもっぱら「大阪平民新聞」に寄稿するようになる)。
明治41年2月、西川光二郎・赤羽一ら(議会主義・直接行動併用論)、分離して「東京社会新聞」創刊。
明治41年5月25日より月刊「社会新聞」となり、明治44年8月3日終刊。
6月3日
(漱石)
「六月三日(月)、浜武元次(麻布歩兵第三連隊)から土耳古(トルコ)煙草送られ、イギリス留学から帰って初めて外国煙草を喫う。
六月四日(火)、『文藝の哲學的基礎』第二十七回で完結する。『虞美人草』起稿する。(『虞美人草』または『夢十夜』から、ペリカンの万年筆を使ったらしい。インキは、セピアを愛好しブルー・ブラックは嫌いで使用しない)
六月五日(水)、長男純一生れる。産婆から「男の子ですよ」と告げられ、〝そうか、そうか〞と大いに喜ぶ。筆が学校から帰って来た時も、〝男の子だ〞と云って喜ぶ。鈴木三重吉・小宮豊隆、大きい鯛を祝に届ける。
六月六日(木)、木曜会。新聞小説への投書の内情などを聞く。」(荒正人、前掲書)
6月4日
別子銅山暴動。鉱夫千余名、労働条件切下げ抗議、7日軍隊出動で鎮圧。
6月4日
この日付けの漱石の小宮豊隆宛ての手紙
「今日からいよいよ『虞美人草』の製造にとりかかる。何だかいい加減なことをかいて行くと面白い」
「虞美人草」を書き始めたのは、たしか五月末ごろからだったでありましょう。新聞に出始めたのは六月に入ってからで、それから十月初めまで続いて出ましたが、なにしろ始めての長篇ではあり、重い責任をもって新聞に入って書く最初のものであり、ことに暑さに向かっての労作のことでしたから、ずいぶん骨も折れたようでした。これを書いてる間、始終少し興奮していまして、そうして例の胃弱で相当弱っておりました。がとにかく一生懸命で、ほかのことはいっさい手につかないといったぐあいにこの作に打込んでこっておったようですが、さてこれほどの苦労をしてでき上がってみると、どうも練れていない、垢ぬけがしていない、そうして匠気があるなどとか申して、自分では不満がっておりました。この気持ちは後々になるにつれていっそう募ってきた様子で、この作を英語に翻訳したいからとアメリカあたりにいる方が言って来られた時も、ほかにもっと適当のものがあるだろうからと即座にお断わりしたり、芝居にしたいと方々から言ってくるのを無下に却けたり、人がほめるものがあれば擽ったいようないやな顔をするというふうでありました。けれども当時はなかなか評判の高いものでして、夏の始めごろには「三越」で「虞美人草」の浴衣を染めて売り出しまして、私のところへも二反ばかりくれますし、池ノ端の玉宝堂あたりでは、虞美人草の花模様の中に小さい養殖真珠をはめたのを、名まえほどのことはなく貧弱のものではありましたが、「虞美人草」の指環だといって売り出しますし、読者からは手紙がきますといったわけでした。(夏目鏡子 漱石の思い出)
6月4日
渡英中の山本大将、フィッシャー英元帥日英協約に伴う海軍に関する軍事協定に署名。
6月4日
サンクトペテルブルクで、韓国高宗の密使李相卨と李儁(5月21日にウラジオストクを出発)に、李瑋鍾が合流。
6月5日
片山潜・田添鉄治ら、日本社会平民党結成。憲法の範囲内において社会主義主張。
6月6日
インド暴動発生。英政府、いかなる状況でも撤退せずと軍投入宣言。
6月7日
清国、陸海軍官制制定。
6月7日
桃中軒雲右衛門、本郷座で興業。評判となる
6月9日
京奉鉄道開通。
6月9日
大杉栄、~11日頃まで、午前中はアナキズム研究(ジャン・グラーヴ『アナキズムの目的とその実行方法』を讀む)とイタリア語の学習、午後はレオ・ドウィッチの『神愁鬼哭』と久米邦武『日本古代史』を讀む生活を送る。
6月9日
史上初の長距離自動車レース、パリ・北京ラリー開催。優勝者はイタリアのボルゲーゼー王子。
6月10日
パリ、日仏協約締結。日本、ベトナム人留学生取締まり強化。仏領インドシナに関する宣言書調印。交換公文で清国に対する両国の勢力範囲確定。6月17日公示。
①英露仏の接近という欧州状況の変化、②仏:日本と結び独の極東進出を抑えたい、③日本:仏の金融市場を利用したい。 ⇒ 日米離反、日露接近に繋がる。
秘密説明書で、福建省は台湾に近接するので秩序と平和が保たれることを希望し、清国領土内に含まれることを宣言。
6月10日
南仏ブドウ栽培労働者のストライキに軍隊介入(~21)。
6月11日
啄木(21)、苜蓿社同人で東川小学校に勤務する吉野白村(章三)の世話で、函館区立弥生尋常小学校代用教員(月給12円)となる。同校は明治15年4月9日創立で職員は校長大竹敬三(戸籍敬蔵)以下15名。学級数14、児童11,100余名。同僚の訓導橘智恵子(チエ)等を知る。
6月11日
大杉栄、堀保子からの手紙を受け取る。堀保子に手紙を送る。
6月12日
中国同盟会広東黄岡での蜂起、失敗。
6月12日
内相原敬、別子銅山暴動・社会党取締に関し参内上奏。
6月12日
(漱石)
「六月十二日(水)、渋川柳次郎(玄耳)宛手紙で、高須賀淳平を紹介する。(六月十七日(月)夜、高須賀淳平の入社決定し、その礼状(写し)を渋川柳次郎に出す)西園寺公望から「侯爵」の肩書で、招待状届く。(十三日(木)かもしれぬ)
六月十三日(木)、この日から木曜会を休んだらしい。(推定)面会謝絶の貼札をする。だが、無視して上り込む連中が多い。
六月十四日(金)、白仁三郎(坂元雪鳥)来る。西園寺公望首相文士招待会に関し、『東京朝日新聞』に記事を書くためである。(西園寺公望首相が文士を招待することが正式に発表される。招待された文士の名前発表される。)漱石は、この日までに(推定)、西園寺公望 (陶庵) 首相の文士招待会 (後に雨声会) (第一日め、六月十七日 (月)) の欠席の書状を出す。「時鳥厠半ばに出かねたり」と一句添える。『虞美人草』執筆中のためである。二葉亭四迷・坪内逍遥も断る。」(荒正人、前掲書)
6月13日
日露両国間の満州における鉄道接続業務仮条約・同上追加条款附属議定書調印。8月3日公示。
6月14日
閨秀文学会(金葉会)設立。九段中坂下成美女学校、講師与謝野晶子、馬場孤蝶、森田草平(天台宗中学林の英語教師)、生田長江。聴講生平塚明子(らいてう、21歳)、青山(後、山川)菊枝ら。長江の勧めで明子が編集した回覧雑誌(1号のみ)に、明子が始めて小説を書く(「愛の末日」)。
6月14日
ノルウェー、婦人参政権を導入。
6月15日
豊原に樺太庁開庁される
6月15日
第2回ハーグ万国平和会議開会。47ヶ国。米ルーズベルト大統領の記念講演。軍縮問題討議されず。~10月18日。
つづく

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