1907(明治40)年
7月5日
(漱石)
「七月五日(金)、鈴木三重吉宛葉書に、本郷区駒込上富士前町五番地(現・文京区本駒込三丁目)に貸家があるので、図面は見たが、家の向きが知りたいので見て来て欲しいと依頼する。
七月七日 (日)、夜、『藤戸』謡う。うまく謡えたので、謡を再び始めたくなる。」と書く。」(荒正人、前掲書)
7月5日
大杉栄「ザメンホーフ博士とエスペラント(三) ザメンホーフ博士よりポロヴコ氏に贈られた私書の抜書」(『日本エスペラント』)
7月5日
内務大臣、谷中村に土地収用法適用。
7月6日
韓国、第1回御前会議。伊藤は高宗への怒りを開陳。
17日、第2回。18日、第3回。
7月6日
光復会、安徽省安慶で蜂起。
7月6日
新潟水力電気株式会社創立。昭和4年9月新潟電力株式会社と改称。
7月6日
英領中央アフリカ、「ニヤサランド保護領」と改称。
7月7日
清国、地方官制改正。
7月7日
韓国、伊藤博文統監、林菫外相に対韓処理方針の政府決定促す。直ちに閣議で韓帝譲位等の処理方針要綱決定。
7月7日
啄木(21)妻節子、京子と共に来道。青柳町18番地に新居。2年ぶりに『紅苜蓿』に短歌を発表。
7月7日
「朝日新聞」、ハーグ密使事件を契機に、朝鮮併合へのお先棒担ぎとなる。
7日付「大阪朝日」の「天声人語」
「何はともあれ、之で以て統監府の宮中粛清が末だ励行されて居ない事を事実に現した事になる。統監府が韓帝から馬鹿にされた事になる」。
11日付社説「伊藤統監の責」(「東京朝日」)
「韓国皇帝陛下が日韓協約を無視し、我政府を介することなく別に国際的行動を試みんとし玉いたる事実は則ち存す。此事実が重大なり。本来韓国皇帝は国際上の無能力者なり。此を以て日韓協約あり、此を以て統監あり。統監は日本に於て天皇に直隷し、韓国に於て直接管理指導の任に当る。而して猶今度の事あらしむるは何ぞや」。
7月7日
大杉栄、堺利彦に手紙を出す。
7月7日
朝、クロポトキンより幸徳秋水宅に「青年論(「青年に訴ふ」)のために諸君の奇禍を買へるを哀れみ、獄中なるプレーブ、カムレーブに深厚なる友愛の敬意を表し(略)深く日本同志の辛酸を感謝せる」旨の手紙が届けられる。
7月7日
山川均が、獄中の大杉栄、石川三四郎、大脇直壽の4名(連名)宛に葉書を書く。
7月7日
週刊『社会新聞』が大杉栄の」新兵諸君に与ふ」発禁事件罰金50円の寄付金を募集する。
7月7日
大阪千日前の電気館、東京に次いで大阪初の映画常設館となる。
7月9日
生野銀山坑夫賃銀値上要求。
7月9日
清水幾太郎、生まれる
7月9日
大阪毎日新聞が1面ハーグ密使事件について、で「対韓処置断行の機-海牙における韓人の怪運動」と題して、日本政府と伊藤博文に厳格な対応を求める論説を掲載。
7月9日
元オーストリア皇女エリーザベト、ヴィンディッデュグレーツとの間に第四子長女シュテファニー誕生
7月10日
元老大臣会議、韓国問題を議す
7月10日
(漱石)
「七月十日(水)、留守中に高須賀淳平、東京朝日新聞社の総務局から支給された五十円(臨時質与)持参する。また、渋川柳次郎(玄耳) からの依頼の件を置手紙する。謡少しうだう。
七月十一日 (木)、渋川柳次郎(玄耳)宛手紙(写し)で、昨日の臨時質与は入社した時、池辺吉太郎(三山)・弓削田精一と約束した盆暮れの賞与かどうかを尋ねる。また、「医學小話」執筆者の件で交渉した結果を知らせる。
七月十二日(金)、白仁三郎(坂元雪鳥)宛手紙に、臨時賞与の件半年以内の者には出さぬところを特別に出したのだと知り、池辺吉太郎(三山) の好意を感謝していると伝えてほしいと書く。」(荒正人、前掲書)
7月12日
天皇、対韓国処理方針裁可。
①高宗の譲位。
②皇帝・政府の決裁に統監の副署を要す。
③統監は「副王」「摂政」権限有する。
④主要部署の大臣又は次官に日本派遣の官僚を充てる。
つづく

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