2010年2月2日火曜日

天文20(1551)年6月~12月 相国寺焼亡 長尾景虎(謙信、22歳)、越後を掌握 陶隆房謀反 フランシスコ・ザビエル離日  [信長18歳]

天文20(1551)年 [信長18歳]
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6月20日
・遊佐長教の婿筒井順昭(28)、暗殺。
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6月28日
・武田信玄、伊那郡高遠領の地侍保科正俊を調略。
保科正俊に対し、「今度下伊奈(下伊那)本意に就いては、相当の地一所を出置くべき」と伝える。
高遠城攻略後も、旧領への復帰を許された諏訪頼継のもとで、上伊那地域の領主・地侍に対し、下伊那郡の侵攻や調略が課されている。本格化は、天文22年4月の村上義清の葛尾城攻略以降。
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7月
・武田信玄、信濃に出陣することを飯富虎昌らに告げ、その旨を真田幸隆へ連絡させる。
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7月10日
・若狭守護武田元光(58)、没。次男信豊、後継。
天文7年(1538)の家督相続をめぐる粟屋元隆の反乱制圧以後、若狭国守護となったと考えられるが、天文8年12月12日、従五位下に敘せられ、同日、伊豆守となり、実質この時に家督を継承、守護に就いたと考えられる。
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7月14日
・将軍義輝らと近江に逃れている晴元の部将三好政勝・香西元成ら3千余人、坂本から京に入り、船岡山から南下して二条の等持寺辺に進出し、相国寺に布陣。
対して、三好長慶武将松永久秀(42)・弟長頼と共に摂津・阿波・和泉の兵4万により相国寺に拠る三好政勝らの軍を猛攻、15日払暁、丹波へ敗走させる。
相国寺は塔頭雲頂院から火の手があがり、鹿苑院・普廣院・大智院・法住院・方丈から法堂まで燃え移り、山内ほとんど焼け、「一寺滅亡し了んぬ」と伝えられる。
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政勝・元成らには岩倉(左京区)の山本氏、近江志賀(大津市山中)の山中氏ら近隣土豪の一部も加担し、織田左近大夫、十河大介、岸和田将監ら政長の旧臣も加わる。
岩倉の山本氏と志賀の山中氏は、義輝・晴元らが京都~近江に出入りする際のその口を押さえる国人で晴元方の命綱である。
長慶は京都を制圧したとはいえ、四国侍の支配を潔しとしない土豪もいる。
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7月21日
・唐船、三国湊へ渡来。25日、湊に入る。船頭は南山と云い乗組員120人、小谷六郎右衛門宅を宿所とする(「朝倉始末記」)。
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8月
・大友義鎮(22、宗麟)、豊後府内を訪れたフランシスコ・ザビエルを歓待し、府内での布教を許可。
イエズス会保護政策。
弘治元(1555)年イエズス会の府内での育児院建設許可。
同年秋、イエズス会に府内の地所・会堂を寄進。
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8月1日
・長尾政景、景虎(22、謙信)に誓詞を送り降伏。一族であること、義兄であること、老臣達の助命嘆願もあり、これを許して政景を臣下とする。景虎、ほぼ越後を掌握
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8月13日
・武田謙信の兵、小笠原長時の属城信濃国刈谷原城を攻略。
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8月15日
・オスマン・トルコ、シナン・パシャ艦隊、マルタ島騎士団よりトリポリ奪取
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8月20日
・毛利勢、厳島・桜尾・佐東銀山城を攻め落とす。
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8月28日
陶隆房謀反
太宰大弐大内義隆(45)の家臣・陶隆房、挙兵、山口を攻撃。
29日夜半、義隆、冷泉隆豊らの家臣と二条・三条らの公卿を従え歩いて長門の国美禰郡岩永村へと落ち延び。
9月1日、長門深川の大寧寺で継嗣の義尊(7)・前関白二条尹房らと共に自刃させる。
大友宗麟の弟春英を迎えて大内氏の当主に据える。この時、隆房は春英の一字を与えられ陶晴賢と改名。
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9月4日
・毛利元就、頭崎城(賀茂郡)を落とす。
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9月14日
・若狭守護武田氏の恒常化する段銭徴収。
この日の太良荘本所方惣百姓指出案に、半済方への納入分の中に2月段銭・8月段銭が計上されている。
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太良荘は、武田氏入部後は半済方を山県氏、本所方を桑原氏が支配(応仁の乱以降)していたが、この年には本所方も合わせて、武田氏被官で同荘東側山頂の賀羅岳城城主山県氏が支配。
彼は「殿様」と呼ばれ、荘内に竹藪や山を所有し、公事給を与えられる百姓8人を中心とする本所方農民らを自身の直接支配下に置き、年貢米・地子銭・段銭・公事を徴収。また、この時期に請所化した荘園郷保の土地・農民は、どこも類似の形で武田氏支配下に入っている。
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段銭の他、同荘給人山県氏へ納入する18貫文について「永夫銭、但陣御在京の時、弐人つめ申し候飯米路銭ニ御下行成され候、但人夫めしつかわれす候へハ納所仕り候」とある。
武田氏や家臣の出陣・在京に際して人夫を徴発され、そうでない時には相当分の夫銭を取られる。
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10月
・小早川隆景(19、毛利元就3男)、高山城に入城、両小早川氏は一つになる。
毛利元就直属家臣が随従し1年経たないうちに、沼田川対岸の雄高山に新高山城(豊田郡本郷町)を築き、1582(天正10)年頃、三原城(三原市館町)に本拠を移すまでの30余年間、隆景の居城とする。
毛利元就3男隆景が、小早川氏の頭領になったことは、毛利氏の備後進出を容易にし、瀬戸内海を中心にした海上の覇権掌握の手掛かりとなる。
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10月24日
・武田信玄、小笠原長時の信濃国安曇郡平瀬城を攻略。
27日には安曇郡小岩岳城を攻めるが失敗。
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10月24日
・大友義鎮、フランシスコ・ザビエルに家臣を随伴させインド総督に書簡を送る。
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11月7日
・若狭守護武田信豊、徳政令を発布。
9月頃、武田氏が仕掛けた丹後加佐郡の戦乱が始まり、「此方ヨリ一国ノ勢ヲ遣ワサレテ、度々合戦有テ死亡莫大ナリ」という合戦が継続中。
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定国中徳政之事(11ヶ条)。
①利息の多少、契約内容に関わりなく、借銭・借米は全て棄破される。
②武田氏判物により保証されている場合も、判物の文言に一切関わりなく徳政の対象となる。
③禅寺などの祠堂米・祠堂銭は徳政から除外。
④小浜中の質物は無利息で本銭(元金)半額を払えば請け出すことができる。
⑤小浜中の蔵方が貸し付けている米銭・質物の田畠・山林・家蔵・舟などは、契約内容に関わらず棄破される。
⑥年貢・段銭未進分に利息を付ける約束がある場合は棄破される。
⑦証文なしで質物をとっている場合も徳政令に違反すれば罪科に処す。
⑧田畠・山林等を質物としている場合、それらは本主(もとの持ち主)に返付すべき。
⑨米を銭に換算する際の換算率は高率の時に準じて計算し、予め代物をこの秋に受け取る契約でなされた借物も棄破される。
⑩頼母子の懸銭・懸米なども同様。
⑪口約束での借物は利息をとる約束をしていれば棄破される、塩手米(年貢の一種)に限っての売買も同様。
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11月20日
フランシスコ・ザビエル、日本を離れてマラッカに向かう。日本での布教計画の練り直し。大友義鎮はザビエルにポルトガル王への親書と贈物を渡し、インドの総督と連絡をとるため家臣を同行させる。
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12月
・北条氏康、北武蔵・上野に出陣。北条氏康の山内上杉家に対する軍事行動、本格化。
11日、古河公方方簗田晴助と盟約。
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12月22日
・カルヴァン、ジェローム・ボルセックを追放。
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12月27日
・フランシスコ・ザビエル(45)、サンチャン島着、マラッカに着く。シンガポール海峡に着、インドの管区長に任命。12月30日 ゴアへ向けて出帆、マラッカを去る。
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「★信長インデックス」をご参照下さい。
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