今回は、江戸城の北桔橋門から半蔵門までを歩きます。
ここまでは僅か20分ほどですが、加えて半蔵門周辺を少し歩きます。
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北桔橋門
(内側から見たところ)
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門を出ると右に平川濠。
石垣が美しい。
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左に乾濠
濠の向こうは本物の皇居
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橋を渡って左に行くと乾門。
一般人は入門不許可
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直進すると右側に旧近衛師団司令部
以前にもご紹介してます。
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千鳥が淵を高速道路が横切る
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千鳥が淵交差点付近から半蔵濠方面を見ると、遠くに国会議事堂が。
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千鳥が淵交差点を左折して半蔵濠を左にみて南下
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半蔵門
半蔵門の名前は、家康側近の槍の名手服部半蔵に由来する。
服部半蔵(1542~1596):
家康の三河時代から仕える武将で家康16将の1人、家康とは同年生まれ。
三方ケ原の戦い、小田原攻めで功績をあげ、知行8千石を与えられる。
家康の江戸入府後は、江戸城の西口を固めるために、今の麹町あたりに屋敷を与えられ、そこから半蔵門の名前が生まれたとされる。
半蔵は、家康と築山殿との間の長子・信康の切腹際に介錯を申し付けられている。
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半蔵門から桜田濠、三宅坂、桜田門方面を見る。
桜田濠は、先にご紹介済みです(桜田門から半蔵門まで)。
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平河天神
湯島天神、亀戸天神と共に江戸三大天神と称された。
江戸には、太田道灌の創建という寺社が多いけれど、その中では最も確かな由来をもつ神社という。
初め道灌によって江戸城内に創始され、家康入府後に平河口に移され、その後の慶長8年に現在地に移されたそうだ。
平河町の町名は、この平河天神に由来する。
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貝坂
由来は諸説あるようですが、貝塚があったところから名付けられたという説が有力だそうです。
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高野長英の蘭学塾「大観堂」跡。
長英27歳の時にこの塾を開き、講義の傍ら医業も営む。
この頃、渡辺華山は、三宅坂の三河田原藩(三宅土佐守)の藩邸長屋に住み、長英と同じシーボルト門下生の小関三英は、現在の日比谷高校付近にあった和泉岸和田藩(岡部美濃守)の藩邸内に住んでいる。
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蛮社の獄では、華山と三英は自害。
長英は顔を焼いて変装し、約5年間逃亡。その後、江戸に戻り、青山百人町(港区南青山)で町医者
を営むが、ついに捕り方に踏み込まれ、抵抗した末に自害。
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吉村昭さんに「長英逃亡」があります。
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「★東京インデックス」 「★寺社巡りインデックス」をご参照下さい
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長英逃亡〈上〉 (新潮文庫)
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