2008年11月10日に、「信長の最期 「人間五十年 下天の内にくらぶれば 夢幻の如くなり・・・」 光秀、燃え尽きる」という記事を掲載してますが、これには多くの方々からアクセスを戴いております。
ただ、掲載時点以降、黙翁年表もかなり変化しておりまして、この際、この部分を更新しておきたいと考えました。
先の記事は、天正10年5月27日~6月29日を扱っていますが、今回は天正10年4月からのスタートとします。
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信長最後の年の天下統一戦の概観:
①東方では、甲斐の武田氏を滅亡させ、上野~信濃~甲斐の線まで分国を拡大。
②北陸では、上杉氏との直接対立となり、勝家指揮の北陸方面軍は越中深くまで戦線を伸ばし、上杉氏の居城春日山をも指呼の問にとらえるまでになる。
③西方では、秀吉の中国方面軍の戦線も着々と伸び、毛利氏との戦いは、伯耆~美作~備中の線で展開。
ついで、この年には四国戦線が展開されようとします。
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天正10年4月
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この月
・信長に関東管領職を与えられた滝川一益への関東領主たちの出仕。
3日、宇都宮国綱が出仕申入れ。5日、皆川広照に自らの出仕を求める。6日、西上野・新田・那波・深谷・鉢形(北条氏邦)らの地域領主が厩橋に出仕。
日時不祥で、内藤昌月・小幡信真・和田石見守・由良国繁・長尾顕長・安中左近・上田安独斎・木部宮内少輔・高山定重・深谷左兵衛尉・成田氏長・倉賀野家吉・真田昌幸ら上野・武蔵の諸将が出仕。
北関東以外でも、6日、上総長南豊信に出仕を促し、16日、安房・上総里見義頼が返書を出す。
5月下旬、太田道誉・梶原政景父子(北条氏康に岩槻を追われ佐竹義重を頼っている)が伺候。
また、上野倉賀野(高崎市)領主倉賀野家吉・下野佐野家一族の天徳寺宝衍らが一益に仕える(支配機構整備)。
5月下旬、伊達輝宗・蘆名盛隆も一益と接触。
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4月2日
・信長、降雨の中を上諏訪から甲斐の大ヶ原に着陣。3日、富士山を遠望しながら、新府焼け跡を訪れ、甲府の仮御殿(信忠が普請)に入る。
信忠に命じ前近江守護六角(佐々木)承禎を匿ったとして甲斐恵林寺(武田家菩提寺、塩山市)を焼く。「老若男女上下百五十余人焼き殺されおわんぬ」(「信長公記」)。
信玄に道号「機山」を与えた臨済宗の僧快川紹喜(かいせんじょうき)は、織田軍の攻撃で三門上にこもり焼死。辞世の句「安禅必ずしも山水を須ひず、心頭滅却すれば火も自ら涼し」。快川和尚は正親町天皇から国師号を贈られている。
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光秀謀叛「快川和尚の仇討ち」説。
快川は武田信玄・勝頼父子の帰依を受け、甲斐の恵林寺の住持となる。
信長は恵林寺に匿われた六角の引き渡しを要求するが、快川は寺院の局外中立を根拠にこれを拒む。その結果、信長は寺に火を放つよう命じる。
快川は林下(非五山系の禅宗寺院)の妙心寺系僧侶としては、また甲斐という地方在住僧侶としては異例にも、この前年、五山の高僧同様、朝廷から国師の称号を得ている。
武田家には朝廷にこれを推挙する力はなく、織田政権となんらかの人脈的繋がりを窺わせる。快川は光秀と同じ土岐氏の出であり、光秀謀叛の動機の一つに「快川和尚の仇討ち」をあげる説もある。
信長のこれまでの宗教弾圧は、一向宗(本願寺)、天台宗(延暦寺)、法華宗であり、臨済宗寺院に対してはむしろ厚遇している。
また、武田家を滅ぼすまでは、信長には恵林寺に対する敵対行為はない。
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4月2日
・信忠、信長が東国視察の際、諏訪に残るよう命じられる。3日、躑躅ヶ崎館の修理を命じられる。
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4月4日
・秀吉、備前岡山に着陣。6日、蜂須賀正勝と黒田官兵衛が秀吉使者として備中高松城へ、城主清水宗治に投降を促す。宗治はこれを拒否。10日、再び黒田官兵衛が高松城へ説得に行くが、宗治丁重にこれを断る。
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4月5日
・森長可が川中島の海津城(長野市)へ入城し、稲葉貞通が飯山に在陣していたところへ、一揆蜂起し飯山を包囲。
信長、稲葉勘右衛門・同刑部・同彦一・国枝氏らを飯山へ派遣。信忠からは団平八が派遣。織田方来援により、一揆勢は退却し大倉(長野県豊野町)の古城を修復し籠城。7日、一揆勢8千が長沼口(長野市)に進出。森長可はこれを撃破、追撃、大倉の古城を陥落。
これにより、飯山包囲の一揆勢も引き上げ。飯山は森長可が引き受けて人数を入れ置く。森長可はその後も諸所より人質を取り、百姓に帰村を命じてまわる。
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森長可(美濃兼山城主・森可成の次男。蘭丸長定らの兄)は、3月の論功行賞により、信長から信濃の内、更級、高井、水内、埴科4郡を加増されていた。
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4月7日
・小早川隆景、能島村上氏・来島村上氏断交にあたり、秀吉の懐柔を拒絶した村上吉允(因島)を賞す。10日、村上武吉(能島)へ毛利氏に対する同心を謝す。
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4月8日
・真田昌幸、信長に馬を贈り、本領を安堵され、滝川一益の旗下になる。
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4月8日
・信長、常陸の太田資正・梶原政景へ、目付として滝川一益を在国させるの、相談し奔走することを督促。天下に忠節をつくすべき、万一違反した場合は即時「朝敵」とみなすと通達。詳細は天徳寺大円坊が伝達。
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4月9日
・京都の村井貞勝、津田宗及を自邸に招き、茶会を催す(「津田宗及茶湯日記」「他会記」)。11日、吉田兼和の訪問を受ける(「兼見卿記」)。13日、禁裏に茶壷を献上(晴豊「日々記」)。18日、禁裏より懸袋を賜る(「日々記」)。
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4月10日
・信長、古府中を出発、富士山見物し、21日、安土帰還。路次では家康が接待役を務める。東海道各地の名所を見物しながら西行。
同行の近衛前久も富士見物を望み、甲州柏坂の麓で前久は馬をおり信長に自分も駿河路に参りたいと言うと、信長は馬上から、「近衛、わごれ(汝)などは木曾路をのぼりませ」(「甲陽軍鑑」)と冷ややかに返答。12日未明、本巣を出発。富士の根がた、上野ヶ原・井手野で小姓衆と気ままに馬を乗り回す(「信長公紀」)。13日、駿河江尻着。
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行程詳細
10日、甲府から右左口(うばぐち)の家康新造の陣屋に入る。家康の領国内を遊覧する間は厳しい警固体制が敷かれ、休息の茶屋を始め宿泊の度には豪華な「御座所」が新造され信長の歓待行事が続く。11日、女坂を越え本栖湖に泊。12日未明に発ち、富士を望みながら駿河の大宮(浅間神社)に着陣。13日、早発ちして浮島が原を過ぎ、馬で富士川を渡り、神原~江尻城入り。14日夜に発ち、駿府の茶屋に立ち寄り阿倍川を越え田中城に泊。15日未明に発ち、藤枝より大井川を渡り掛川に泊。16日、池田を経て天竜川の船橋を渡り、家康の居城浜松入り。家康嫡男秀康(9)と対面。17日、今切りの渡しを渡船し、降雨の中を吉田に泊。18日、吉田川を渡り、知立に泊。19日、清洲に泊。20日、岐阜城に泊。21日、呂久の渡~垂井~今須~柏原~山崎を経て安土に凱旋。
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4月10日
・北条氏政、三嶋大社に願文を捧げ、織田家との関係回復を願う。
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4月13日
・上杉景勝、越中魚津城に上条政繁・斎藤朝信らを送り、激励して堅守を命じる。3月11日、景勝と結んだ一向一揆の将小島職鎮が富山城を落とすが、すぐに奪還。織田勢は魚津城を攻撃。23日、魚津城の守将、連署して上杉家直江兼続に「この上の儀は各々滅亡と存定候」と、決死の覚悟を綴って寄越す。
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4月14日
・秀吉、宇喜多秀家の兵と共に備中竜王山に布陣、宮路山城・冠山城を囲む。16日、鍛冶屋山城から宮路山城を攻撃。25日、宇喜多忠家、加藤清正の加勢で備中冠山城を陥落。城主林重真切腹。5月2日、宮路山城落城。
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4月16日
・勅使万里小路充房、帰京。信長帰還が近いと伝わる。
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4月17日
・来島氏が秀吉に内通したため、河野通直が道前に出陣。毛利輝元はこれを援けようとする。
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4月20日
・上杉景勝(信濃方面の防戦を指揮していた)、越中魚津城救援に向け春日山城を出陣(5月4日出陣の記述あり)。
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4月21日
・勅使勧修寺晴豊・庭田重保・甘露寺経元ら、安土城で信長に面会、天皇・親王からの進物を献上。24日、帰洛。
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4月23日
・この日付の秀吉の中川長鶴丸(後の秀政)に宛て書状。
①東国が「平均に仰せつけられた」(甲斐武田氏の攻略)ことへの満足と清秀「御供」へのねぎらい。中川清秀から茨木城の留守を預かる長鶴丸に攻略戦成功などを伝える書状が届き、その旨を織り込んだ陣中見舞いが秀吉に送られたと推測される。
②中国攻めの状況について、2城を包囲し、前年の鳥取城攻め同様堅固に堀・塀・柵を申しつけたと記す。この2城は、毛利方が備前・備中国境の足守川沿いに築城した7城の内の宮地山城(岡山市足守)と冠山城(岡山市下足守)。
③小早川隆景は陣地より1里ほどの幸山城(都窪郡山手村)で後巻(逆包囲)にしている。一戦に及ぶ様子もなく、 まずは宮地山・冠山両城の包囲網を狭めて1人も洩らさず責め殺す、と述べる。
5月3日迄に、秀吉は両城に加えて加茂城(岡山市加茂)・日幡城(倉敷市日畑)を攻略し、7城の本城・備中高松城(岡山市高松)水攻めにとりかかる。
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4月23日
・多聞院英俊(奈良興福寺多聞院の僧侶)、北西の夜空に一つの彗星が現れたことを不吉な思いで記す。のち、本能寺の変の報を受けて、「信長生害の先端なり」と追筆を加える。
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フロイスの書簡(「イエズス会日本年報」)でも、彗星出現は「何か恐ろしいことの起こる前兆と考えた。併し日本人はこの不思議な原因について少しも知らず、何事であるかも知らずまた考えなかった」と報告。
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4月25日
・三職推任勅使派遣。
朝廷(正親町天皇)、前日24日に帰洛したばかりの勧修寺晴豊に対し、京都所司代村井貞勝に信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに推任決定を伝えさせる。「三職推任」使者(女官2人に添えて晴豊を再び勅使とする)を安土に下向させることになる。
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この日、村井貞勝は、勧修寺晴豊の訪問を受け、信長を三職に推任することについて話し合う。
「廿五日 天晴。村井所へ参候。安土へ女はうしゆ御くたし侯て、太政大臣か関白か将軍か、御すいにん候て可然候よし被申候。その由申入候」(晴豊「日々記」)。
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天正6年4月、信長は右大臣・右大将を辞し、以降は無官のまま。前年馬揃えの直後、朝廷は左大臣に推任するが、信長は受けず。武田氏を滅ぼして東国を平定したのを機に、お好みの最高の官職に就いて貰いたいという趣旨。
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(立花京子説)
信長は、村井貞勝を通して三職いずれかに推任して貰いたいと要請。晴豊は、これを天皇に申し入れる。
但し、実現性はない。
①2月2日付で前関白近衛前久が太政大臣に就任したばかり。
②関白は五摂家公家のみ補任するのが慣例。
③将軍は、地方に義昭が解任されずに未だ在職。
信長は無理を承知で要請し、朝廷もこれを受ける。信長は推任の事実だけが欲しくて朝廷に働きかける。
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今谷明「武家と天皇」では、信長側から地位を請い求めたことは、天皇に対する信長の敗北とし、彼の王権纂奪計画は潰えたとする。信長は自ら天皇の臣下にとどまると明言したとする。
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他には、
村井貞勝が独断で進めたとの説もあり(熱田公、谷口克広)。
出来れば信長を官職内におきたいとの朝廷の希望に対し、公家と親しくなった貞勝が信長の了解なしに、案を出したという説。
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4月25日
・信長、顕如へ書簡。
安土城へ凱旋に際し、祝儀として太刀1腰銀子300両と端午祝儀の帷子5枚と肩衣袴の贈呈を謝す。詳細は松井友閑が伝達(「本願寺文書」)。
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4月25日
・山科言経(権中納言)、京都発。翌日、信長右筆楠長諳の案内で安土に登城。信長は昼寝中で対面ならず。但し、「御城見事言語道断、先(前)代未聞結構々々、不及筆舌了」と、安土城の結構の見事さに驚く。
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4月27日
・清水宗治、秀吉勢と戦う。戦死、宗治側100人、秀吉側400。
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4月27日
・村井貞勝、勧修寺晴豊・庭田重保・甘露寺経元らの訪問を受け、安土への勅使について談合(「日々記」)。結果、上﨟の局と大乳人が勅使になり、勧修寺が付き添うことになり、輿を担ぐ人足などの手配は一切村井貞勝が行う。
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「★信長インデックス」をご参照下さい
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