2012年9月14日金曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(36) 「第2章 もう一人のショック博士 - ミルトン・フリードマンと自由放任実験室の探究 -」(その6)

東京 北の丸公園
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ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(36)
 「第2章 もう一人のショック博士 
- ミルトン・フリードマンと自由放任実験室の探究 -」(その6)

開発主義との戦い;シカゴ学派が重要な役割を果す
 一九五〇年代のアメリカでは、そのようにして富を得ることなどとうてい考えられなかった。
筋金入りの共和党員だったアイゼンハワーの政権でさえ、シカゴ学派が提唱したような急進的な右旋回を行なうことはありえなかった。
公共サービスや労働者の保護は国民に幅広く支持されていたし、アイゼンハワーは二期目の当選を目指していた。
国内でケインズ主義政策を修正するつもりはなかったものの、彼は海外では開発主義を打ち破るべく迅速で急進的な行動を取ることに意欲的だった。
やがてシカゴ大学が、まさにこのキャンペーンにきわめて重要な役割を果たすことになる。

南米南部地域の地主たちの怒りと米英企業の同様の不満
 アイゼンハワーが大統領に就任した一九五三年、イランのモハマド・モサデク首相はすでに石油会社を国有化し、インドネシアの初代大統領スカルノは、第三世界の民族主義国家をすべて結集して東西ブロックにも匹敵する強大なパワーを築くという野心的な構想を砲いていた。
米国務省にとってとりわけ大きな懸念材料は、南米南部地域の民族主義国家が徐々に経済的成功を収めつつあることだった。
世界のかなりの部分がスターリン主義と毛沢東主義に塗り替えられた当時、開発主義者たちの提唱する「輸入代替」〔発展途上国で、それまで輸入に依存していた物資を自国内で生産するように切り替えること〕はかなり穏健な考え方ではあった。
それでも、ラテンアメリカにも独自のニューディール政策があってしかるべきという考え方には強力な敵がいた。
この地域の封建地主は自分たちに膨大な利益をもたらし、農場や鉱山で働く貧しい農民が無限にプールされていた従来の状況に十分満足していたが、今や自分たちの利益が他の部門の増強へと振り分けられ、労働者が土地の再配分を要求し、政府が農作物価格を意図的に低く抑えるようになったことに、怒りを燃やしていたのだ。
ラテンアメリカでビジネスを行なう米英の企業も、自国政府に同様の不満をぶつけ始めていた。
これらの企業の製品は国境で差し止められ、労働者は賃上げを要求し、何より憂慮すべきことに、鉱山から銀行まで外国企業の所有するものはすべてラテンアメリカの経済的自立という夢の実現のために国有化すべきだ、という議論が活発化しつつあったのである。

ダレス兄弟の公職就任
 こうした企業の利害からの圧力を受け、米英の対外政策立案者の間に、開発主義を奉じる政府を東西冷戦のような二極対立に引き込もうとする動きが次第に根づいていった。
穏健で民主的な外見にだまされるなと、これらのタカ派は警告した。
第三世界のナショナリズムは全体主義的共産主義への道の第一歩であり、今のうちに芽を摘む必要がある、と。
そう主張した重要人物は、アイゼンハワー政権の国務長官ジョン・フォスター・ダレスと、その弟で一九四六年に設置されたCIAの長官を務めたアレン・ダレスの二人だった。
二人は公職に就く前、ニューヨークの伝説的な法律事務所サリヴァン・アンド・クロムウェルの弁護士として、開発主義により多大な損失を被ったいくつもの企業(JPモルガン、インターナショナル・ニッケル社、キューバン・シュガーケーン社、ユナイテッド・フルーツ社など)の代理人を務めた。
ダレス兄弟の公職就任の結果はすぐに現れた。

CIA主導の二つのクーデタ(イランとグアテマラ)
 一九五三年と一九五四年の二回にわたり、CIAは初めて同局が主導するクーデターを起こした。ともにスターリンよりはるかにケインズ寄りだった第三世界国家の政府に対してである。
 最初のクーデタは一九五三年、CIAがイランのモサデク政権の転覆に成功し、残忍なシャー(国王)をその後釜に据えたというもの。
二回日は一九五四年、CIAがグアテマラのユナイテッド・フルーツ社から直接的な依頼を受けて起こしたものだ。同社は、ハコボ・アルペンス・グスマン大統領がグアテマラを「封建的経済を主体とする後進国から近代的な資本主義国家へ」転換するために進めていた農地改革の一環として、使用していない社有地の一部を有償で接収したことに腹を立て、クロムウェル法律事務所時代以来親しい関係にあったダレス兄弟に直訴したのだった。
農地改革は同社にとっては受け入れがたい政策だった。その後はどなくグスマン政権は崩壊した。

そしてチリ・・・
 一方、南米南部地域からこの地域に深く根づいた開発主義を追放するのには、より大きな国難が伴った。
一九五三年、チリのサンティアゴで二人のアメリカ人が会見し、この目的をどのようにして達成するかを協議した。
一人は米国際開発庁(USAID)の前身である米国際協力局チリ支局長アルビオン・パターソン、もう一人はシカゴ大学経済学部長セオドア・W・シュルツだった。
パターソンはアルゼンチンの経済学者ラウール・プレピッシュをはじめとするラテンアメリカの「左翼がかった」経済学音たちの影響力に恐れをなし、懸念を深めていた。
「必要なのは人間形成のあり方を変えること、すなわち現在きわめて劣悪な状態にある教育に影響を与えることだ」と、彼はある同僚に力説している。
こうした彼の見解は、米政府はマルクス主義との知的戦いにもっと関与すべきだというシュルツ自身の考え方と一致していた。
シュルツはこう述べている。
「アメリカは海外に展開している経済政策を吟味する必要がある。(中略)われわれは(貧困国が)自国の経済発展を達成するのに、わが国のようなやり方を取り入れ、わが国との関係を深めることによって経済的救済を成し遂げることを望んでいる」

(つづく)

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