2012年9月28日金曜日

1757年(宝暦7) 諸国大水害 奥羽飢饉 7年戦争(プラハの戦い・コリンの戦い) インド・プラッシーの戦い【モーツアルト1歳】

東京 北の丸公園
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1757年(宝暦7)
3月
・郡上一揆。入用金の徴収。
3月7日~、帳元から郡中の立ち百姓に入用金の割当がなされる。明方筋では、何百人もの立百姓が何日も泊りがけで割当金を徴収する。
9日、立百姓3千余人が城下町の名主の家などで入用金の取立てを図る。
20日、上之保筋の百姓が、未納者の家を回り、入用金を取り立てる。
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・春、7年戦争、プロイセン軍のプラハ侵攻
オーストリア軍総司令官カール・アレクサンダー公子(皇帝フランツ1世弟)は、後見役マクシミリアン・ユリシーズ・フォン・ブラウンの進言(フリードリヒ大王が攻勢をかける前に攻め込んで主導権を握り、ベーメンではなくザクセンを戦場とすべき)を採用せず。
一方、前年の先制攻撃に成功しているフリードリヒ大王はオーストリア軍が広く分散宿営している点に着目し、冬営を畳み、4個軍団が東西2方向から同時にプラハに前進。
大王直率軍団とアンハルト=デッサウ軍団がザクセンから、シュヴェリーン軍団とベーヴェルン軍団がシュレージェンからプラハへ侵攻。
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3月28日
・土佐藩、家臣からの借用米についての規則を定める
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4月
・諸国大水害。
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・4月~5月、江戸霖雨。
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4月21日
・7年戦争。ライヘンベルクの戦い。
前年に引き続き先手を取られたオーストリア軍は、分散されたまま部隊退却させ、この日にはライヘンベルクで戦う。オーストリアの敗北。
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5月
・大雨で尾張等で洪水。322,300余石が被害。
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5月1日
・第2次ヴェルサイユ協定締結。
オーストリア・フランス防御同盟を(対プロイセン)軍事同盟に変える新同盟締結。プロイセンを包囲。プロイセン側はイギリス・ハノーファーのみ。
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5月4日
・常陸で洪水。
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5月6日
7年戦争、プラハの戦い
プロイセン軍、プラハ包囲。プロイセンのシュヴェリーンが戦死。

プロイセン軍がプラハに侵攻しオーストリア軍と対峙。
オーストリア軍は、プラハ城内に兵1万5千を入れ、残り6万でその東に布陣。
プロイセン軍、ヤーコブ・フォン・カイトを分派してヴルタヴァ川左岸からプラハを抑え、主力6万4千をオーストリア軍に向ける。

プロイセンのフリードリヒ大王は敵片翼へ集中攻撃を行うことが多く、今回もシュヴェリーンにオーストリア軍右翼攻撃を命じる。シュヴェリーンが主攻を担い、その左翼をハンス・ヨアヒム・フォン・ツィーテンの騎兵隊が援護。
オーストリア軍はプロイセン軍による右翼攻撃に対応し、急ぎ部隊を移動させ相対し、L字型陣形をとる。
プロイセン軍はオーストリア軍の砲撃・猛射をうけ、ウィンターフェルトは被弾し後送され、シュヴェリーンもまた被弾し戦死。
オーストリア軍もブラウンは被弾しプラハに送られる。
オーストリア軍右翼はプロイセン軍の攻撃を防ぎ、反撃しプロイセン軍を圧迫。しかしその間、右翼・中央間に間隙が生じる。
フリードリヒ大王は左翼部隊を立て直し、第2戦列を投入。ベーヴェルン、ブラウンシュヴァイク、ハインリヒ王子らが、オーストリア軍左翼を攻撃しつつ、中央の間隙に向かって攻勢に出てオーストリア軍を分断。
ツィーテンの騎兵部隊はオーストリア軍最右翼を突破し、後方に傾れ込み、オーストリア軍の混乱を助長させる。結果、オーストリア軍は崩れ、大半はプラハ城内に逃げ込む。

プロイセン軍は、オーストリア軍カールと兵4万をプラハに包囲し、大王はカールに対して降伏を勧告。カールはメーレンのダウン軍の救援を期待してこれを拒否。
オーストリア軍損害1万7千、プロイセン軍損害1万4千で、戦術的にはプロイセン軍の小勝利であるが、オーストリア軍主将カールと主力4万を包囲下に置くことができ戦略的には大勝利。
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5月29日
・加賀で大雨により金沢城下で被害。
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6月
・イギリス、ピット・ニューカースルの連立政権成立。
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6月3日
・郡上一揆。
駕籠訴人の切立村喜四郎と前谷村定次郎の連名で村々へ回状。
一揆不参加者(寝者)排斥。「寝者たち本人とその子供や家来とは、たとえ路地で出会っても決して挨拶もしてはならない。この回状を村々で写しておき、仲間のひとりひとりに読み聞かせるように。」という厳しいものであり、寝者やその家族は疎外されてしまうことになる。
この月、庄屋をはじめ立者への仲間入りが急増
下旬には、一揆費用のための徴収金が1,100両を超える。
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6月12日
・江戸雷雨。

奥羽飢饉
米沢藩、「宝五の飢饉」と呼ばれる大飢饉に、宝暦7年(1756年)の水害が原因とされる飢饉が続く。宝暦7年において前年比で米沢藩政史上最大減の3762人減、宝暦3年(1753年)から宝暦10年(1760年)までの7年間に9699人の人口減少
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6月15日
・江戸大雷雨、江戸城中など所々落雷。
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6月18日
・7年戦争、コリンの戦い。
プロイセン・フリードリッヒ大王、プラハ東方コリンでプラハ救援に来たレオポルト・ダウン将軍指揮オーストリア軍と戦い最初の大敗北。
プロイセン軍はプラハの包囲を解いてザクセンへ敗走。シュレジエンを失い、東プロイセンにはロシア軍、ボメルンにはスウェーデン軍、ハノーファーにはフランス軍が侵攻。

オーストリアはプロイセンに対して初めて勝利、以降プロイセンは守勢にまわる。
プロイセン軍は、プラハの戦いでオーストリア軍を破り、プラハを包囲していたが、ダウン率いる援軍が着陣した為、大王は軍の一部によりこれを牽制。
ダウンは一度後退するが、増援を得て兵5万で再びプラハに接近。
大王はこれを阻止すべく兵3万2千で決戦。
6月18日、大王は、プラハ東方コリン郊外の丘に布陣するオーストリア軍の側面を攻撃。ダウンは反撃し、プロイセン軍は大きな損害を出して敗退。
大王はプラハ攻略を諦め、ボヘミアから撤退、逆にオーストリアが攻勢に出る。
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6月19日
・幕府、氾濫河川の普請のための検分に人を派遣する。
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6月23日
インド、プラッシーの戦い(イギリス・フランス植民地戦争)。
クライヴ率いるイギリス軍、フランスの軍事支援を受けたムガル帝国ベンガル太守の大軍を撃破。

プラッシー(ベンガルのナディヤ地方バンギラティ川畔、カルカッタ北)。
ベンガル進出を狙うイギリス東インド会社は、フランスの攻撃に備える為、前年、太守スィーラジュ・アッダウラの許可なくカルカッタ城塞を強化しようとする。
太守は工事中止を要請するが、拒否され、カルカッタを占領。
東インド会社はマドラスのクライヴに援軍を要請、この年カルカッタを奪回。太守はシャンデルナゴールに拠点を置くフランスに接近。
6月23日未明、両軍はプラッシーで対峙。
太守軍7万(フランス兵40と重砲含む砲53門)に対し、イギリス軍は約3千(欧州人兵士950・セポイ2,100と砲9門・砲兵100)と劣勢であるが、クライヴは太守軍参謀長(前太守)ミール・ジャーファル(歩兵3万5千・騎兵1万5千)に対し反乱を工作、夕方には一方的にイギリス軍が勝利。
太守シラージュは処刑され、ミール・ジャーファルが傀儡としての太守に就任。
イギリスは多額の賠償金、カルカッタ周辺24郡のザミンダーリー(地租徴収権)を獲得し、ベンガル支配権を確立。

ガンジス川下流域のベンガル地方は、絹・木綿の産地で、藍・アヘンなどの集散地でもある。
ムガル帝国はこの地に太守を置いているが、ヒンドゥー諸勢力の抵抗で分裂状態となり、各地の太守は実質的に独立勢力化している。
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6月26日
・安芸で洪水と高潮。27,118戸が被害。
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6月26日
・イギリス軍、ハノーファーでフランス軍を破る。
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