カワヅザクラ 北の丸公園 2014-02-03
*明治37年(1904)
5月16日
・大日本宗教家大会。仏・キリスト・神・儒各派代表戦勝祈願。国策支持を決議。
参加者:
石川素童、大内青巒、南条文雄、村上専精、前田慧雲、島地黙雷、関太渓、菅了法、境野哲、その他(仏教派)
井深梶之助、本多庸一、小崎弘道、江原素六、海老名弾正、その他(キリスト教派)
千家尊弘、平田盛胤、その他(神道派)
井上哲次郎、柿崎正治、その他(儒教沢)
大会宣言:
「日露の交戦は日本帝国の安全と東洋永遠の平和とを図り、世界の文明、正義、人道のために起れるものにして毫(ごう)も宗教の別、人種の異同・に関する所なし。……ここに相会し各自公正の信念を訴え、相ともに奮ってこの交戦の真相を宇内に表明し、以て速かに光栄ある平和の克復を見んことを望む。」
この頃の宗教家の状況
一世の師表を以て任ずる松村介石の雑誌『警世』は「五十万の陸兵、三十万トンの船艦、吾人が平生膏血を絞りて工面しおくは何のためぞ」と叫ぶ。
山路愛山の雑誌『独立評論』は「ベテルプルグに筒向けて」とうたい、「恨みを報ゆるときは今」と意気ごむ『進軍曲』を掲げる血眼ぶり。
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5月17日
・砲艦「赤城」、砲艦「大島」に衝突。「大島」沈没。
旅順港外では、駆逐艦「暁」触雷沈没。
12日以降、戦艦2・巡洋艦1を含む艦艇7隻を喪失。
東郷司令長官は「艦隊行動ヲ当分延期ス」と示達。
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5月17日
・フランス、ジャン・ギャバン、誕生。
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5月18日
・韓国、露韓条約と豆満江・鴨緑江岸におけるロシアの森林伐採権特許を破棄。
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5月18日
・モロッコでペルディカリス事件。英米艦隊がタンジールに。
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5月20日
・永井龍夫、東京に誕生。
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5月20日
・中国人労働規定がプレトリア(南アフリカ)で発令。
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5月21日
・カンボジアでシソワット王即位。
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5月22日
・清国、蘇報事件、結審。章炳麟は監禁3年、鄒容は2年に。
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5月22日
・職業写真師上野彦馬(66)、没。坂本龍馬・伊藤博文などを撮影。
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5月23日
・第2軍の配備
第4師団(小川又次中将)は金州北方の十三里台子駅の西側
第1師団(伏見宮貞愛中将)は同駅の東側
第3師団(大島義昌中将)は第1師団の南東から大寚口北西岸に至る地域
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5月23日
・第2回国庫債券発行規定公布。1億円を予定。利率5分。
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5月24日
・清国、赤十字会開設。
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5月25日
・午前0時頃、第2軍3師団(第4、1、3師団)、南山攻撃の運動開始。
午前3時30分、南山砲台射程外地帯に達する。
午後8時30分、第4師団第19旅団(安東少将)、金州城夜襲、失敗。第8連隊第1大隊長藤岡銑次郎少佐、暗夜の同士討ちで没。
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5月25日
・第3軍司令官乃木希典中将ら司令部員37名、参内。
27日、乃木中将、広島に向う。
29日、東京で待機の第3軍参謀津野田是重大尉に「第3軍戦闘序列」など公布。津野田は広島に向う。
30日、乃木長男戦死の報、広島の乃木に届く。
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5月26日
・未明、第2軍第1師団第1旅団(松村少将)、金州城攻略、陥落。
乃木希典中将長男乃木勝典少尉戦死。
金州城のロシア軍は、第4師団の夜襲失敗につづいての第1師団の夜襲により、未明のうちに南山に退却。
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5月26日
・南山攻略作戦
午前5時20分、野砲兵第1旅団(内山少将)、南山陣地を砲撃。
午前6時、第4師団第19・7旅団、金州城西側を前進。
午前6時15分、金州湾より「赤城」・「鳥海」が南山陣地を砲撃。
午前9時、第1師団が金州駅付近に進出するが、猛射により動けず。第3・4師団の第1線も動けず停止状況が続く。
午後5時、第2軍奥大将が総攻撃下命。但し、第4師団のみがこの命令に即応できる余力を持つのみ。
午後5時15分、第4師団小川中将が第7、19旅団に攻撃下命。金州湾より「赤城」・「鳥海」が南山陣地を再度砲撃。「鳥海」が被弾し艦長林三子雄中佐、戦死。
午後6時30分、第4師団全面のロシア兵が退却始める。各隊はすかさず突撃。
午後7時20分、第9・10砲台占領。南関嶺を守備するロシア軍金州地区司令官フォーク少将、退却。
午後8時、南山陥落。日本軍は一挙に大連湾一帯を占領。
ロシア側死傷1,336(4,100中)。日本側死傷4,387(36,400中)。日本側の損害大。
南山の1日の戦闘で、日清戦争と同量の砲弾、1.6倍以上の小銃弾を消費。
今後の人員補充、弾薬補給など、日本軍の戦力の維持に暗影を投じた一戦でもあった。
南山は金州城の南門から南へ約3km、標高115mのゆるやかな丘で、大連湾と金州湾にはさまれた地峡の一番せまい部分(丘の頂上を北西・南東方向に横切る直線で陸地の幅4kmたらず)に位置し、北方から大連・旅順方面に前進してくる日本軍を阻止するのに適した地形であった。
ロシア軍の南山陣地は、1900年の義和団戦争の際ロシア軍守備隊が建設し、その後放置して荒廃していたものを、日露開戦直前にコンドラチェンコ少将が中心となって修築強化の工事をはじめて完成したばかり。
26日早朝、砲撃に続いて、右から第4師団、第1師団、第3師団の順に展開し、南山攻撃を開始したが、ロシア軍の猛烈な火力に前進を阻止されて攻撃が進捗せず。
ロシア軍機関銃の威力は絶大。
南山陣地は旅順要塞のような永久築城でなく、野戦築城であったが、堅固な陣地に拠る防御軍が火砲と機関銃を組み合わせた火力の威力を発揮すれば、少数兵力で十分に強敵な抵抗力を発揮できることを日本軍に教えた。
第2軍は26日に死傷者3千、翌日に4千500と大本営に打電したが、大本営では「三千は三百の間違いだろう」と、にわかには信じなかったという。
軍医部長森鴎外が統括する野戦病院の収容能力は400であるのに対し、午後3時には既に2,000を越える激戦
唇の血 森鴎外
明治三十七年五月二十七日、於南山
土嚢(つちぶくろ) 十重(とえ)に二十重(はたえ)に つみかさね
屋上(やのうえ)を おほふ土さへ 厚ければ
わが送る 榴霰弾(りゆうさんだん)の 甲斐もなく
敵は猶 散兵壕を 棄てざりき
剰(あまつさ)へ 嚢の隙の 射眼より
打出す 小銃(こづつ)にまじる 機関砲
一卒進めば一卒僵(たお)れ 隊伍進めば隊伍僵る
隊長も 流石(さすが)ためらふ 折しもあれ"
"一騎あり 肖金山上より 駆歩し来る
命令は 突撃とこそ 聞えけれ
師団旅団に伝へ 旅団聯隊に伝ふ
隊長は 士気今いかにと うかがひぬ
時はこれ 五月二十五日 午後の天
常ならば 耳熱すべき 徒歩兵の
顔色は 蒼然として 目かがやき
咬みしむる 下唇に 血にじめり"
"戦略何の用ぞ 戦術はた何の用ぞ
勝敗の 機はただ存ず 此刹那に
健気なり 屍(かばね)こえゆく つはものよ
御旗をば 南山の上に 立てにけり
誰かいふ 万骨枯れて 功成ると
将帥の 目にも涙は あるものを
侯伯は よしや富貴に 老いんとも
南山の 唇の血を 忘れめや
* * *
濁漉(どくろく)の みづは濁れり 濁れれど
洗ひし太刀は 霜と冴え冴ゆ
瞑目す 畦(あぜ)の馬棟(ばりん)の 花のもと
南山の戦いに関する鴎外のもうひとつの詩。
鴎外は南山の戦いの日にボタン(「扣鈕」)を失ったことを、
「ますらをの 玉と砕けし ももちたり それも惜しけど こも惜し抑扣鈕 身に添ふ扣鈕」
と詠っている。
現実に血塗れの将兵を目の当たりにし、自身も砲弾が届く地点に身を置きながら、人命とボタンとを恰も等価であるかのように詠う鴎外の態度には、底知れない虚無的なものが漂っている。
田山花袋は戦闘観戦中に、鴎外と言葉を交わしている。
何等の壮観、敵は敗走に際し、その大房身(だいぼうしん)の火薬庫を爆発せしめたので(中略)
「実に、君、好い処を見たね?」
と声を懸けられたので、振返ると、それは森軍医部長であった。
「実に壮観でした!」
「もう、かういふ面白い光景は見られんよ」
「何うも、実に!」
自分は只恍惚として居た。
(『第二軍従征日記』)
博文館と田山花袋
博文館は、開戦後直ちに、それまで町村公務員を対象に発行していた月刊雑誌「自治機関 公民之友」を、「日露戦争実記」と改題、戦争報道専門雑誌とした。
第1号発行は明治37年2月13日(宣戦布告から3日目)。月3回発行の旬刊誌で、グラフ雑誌「日露戦争写真画報」も発行する。
「日露戦争実記」創刊号は、巻頭に「宣戦の詔勅」とその解説が掲げられている。
口絵写真では明治天皇とロシアのニコライ皇帝の肖像が同等に掲げられている。
記事は「仁川の海戦」「旅順の海戦」などの戦記報道、「開戦前の外交始末」「国交の断絶通知」「露国の戦線」「露領帝国民最後の引揚」といった時事解説が並ぶ。更に、鳥谷部春汀(とやべしゆんてい)・国府犀東(こくぶさいとう)「日露危機十年史(両国開戦の由来)」、乾坤生「露帝ニコラス第二世」、田山花袋「アレキシース大将」、上田厳南「露西亜の陸軍」など評論、随筆が続く。
博文館は、日本有数の大出版社であるが、その基礎は学者や作家が新聞に掲載した学術論文、評論を勝手に集成(著作権成立以前の話である)した『日本大家論集』(明治20年)の刊行によって築かれた。
さらに日清戦争の際に、「日清戦争実記」を発行して飛躍的に業績を伸ばし、総合誌「太陽」の成功で雑誌出版社の最大手としての地位は確固たるものになっていた。
博文館は、明治36年暮れには、戦争雑誌の準備に取りかかり、すでに原稿を集め出していた。
田山花袋は、明治32年から博文館編集部に勤めていた。
花袋はこの頃はすでに小説『重石衛門の最後』(明治35年)、評論「露骨なる描写」(「太陽」明治37年2月号)によって、日本の自然主義文学のニューリーダーと目されるようになっていた。
だが彼は、元々は硯友社系のジャーナリズムで活躍し、「太陽」などでも紀行文によって名を挙げて、博文館に入社していた。
花袋が従軍記者として大陸に派遣されたのは、自然主義作家として評価されたというより、写実的な紀行文章の腕を見込まれたためだと見られる。
花袋の従軍記は「日露戦争実記」「日露戦争写真画報」に載せられ、明治38年に『第二軍従征日記』としてまとめられた。
その緒言で花袋は、「振古未曾有なる征露の役に、自分が従軍したのは、実に此上も無い好運である。砲烟弾雨、それが自分の稚い思想に大なる影響を及ぼしたのは無論のことで、自分は人間最大の悲劇、人間最大の事業を見たとすら思ったのである」と述べている。
花袋は、戦争を讃美しているわけではない。
「皇威の到る処、草木皆靡(なび)くといふ盛なる光景を呈したのであるものを…・。自分は一層の愉快を感ぜずには居られない」とも書いてはいるが、それでも戦争を讃美しているわけではなく、「戦争は人間最大の悲劇」とも書いている。
では、何が好運であるかというと、まさに「戦争を見る」ということが、作家にとっての好運なのである。客観描写に徹するのなら、国威発揚にせよ反戦にせよ、事実そのものを冷徹に見詰めるための妨げになる「思想」を、押さえなければならない。
「露骨なる描写」とは客観描写という思想以外の思想を、一切排除して見たものを書くということである。写実を心掛け、一歩踏み込んで自然主義の客観描写を主張する作家にとって、「人間最大の悲劇」を見られるのは、たしかに悪魔的な魅力さえ感じられただろう。
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